はらりと葉が落ちる。

枝の葉も色づき、風に揺れるたびに葉を落とした。

いよいよ秋も深まり、冬の訪れもそう遠いことではないだろう。

ヴォルフがマティーダに林檎一箱分の値段で買われてから、一月が経とうとしていた。

吹く風は肌寒く、汲む水は冷たい。

両手になみなみと水をたたえた桶を軽々と持ち、井戸と厨房を往復する。

そんなヴォルフの後を、ひょこひょことついて回る小さな影があった。

ジルベールだ。

あれ以来、何故かジルベールはヴォルフに懐いており、勉強の合間をぬってはこうして会いにくる。

そのことを周りの者が咎めることもない。

ヒューリウは割りと暢気な気質な者が多かった。

「それでね、この間も姉上がね・・・」

ジルベールが口を開けば、三言目には“姉上”という単語が出てくる。

いわく、

“姉上”がどれだけ素晴らしいか、

“姉上”がどんなに優しいか、

“姉上”がどのように領民に慕われているのか。

別の話題を話していても、いつの間にか“姉上”の話になってしまう。

ヴォルフは適当に相槌を打ちながら、仕事を続けた。

ジルベールはそれにも構わず話し続ける。

これがここ一月で見られるようになった日常だ。

「じゃあ、また来るから!」

ひとしきり話終えると、ジルベールは屋敷の中へ帰っていく。

ヴォルフの返事を聞こうともしない。

こういう所がお貴族様だよな、とヴォルフは思う。

「もうちっと、躾(しつけ)を考え直した方がいいんじゃないっスか?」

独り言にしてはやや大きめの声。

果たして、それに返事があった。

「私が一番甘やかしているのでしょうね。ジルベールのためにならないと分かってはいるのですが」

一月前にジルベールが隠れていた建物の角から姿を現したのは、話題の“姉上”だった。

 

 

珍しい赤銅色の髪を一つに束ねたマティーダは、
今日もおおよそ貴族とは思えないほど簡素な服を着ていた。

華美を嫌う行動派の彼女は、ドレスを着ない。

動きやすく仕事のしやすい、役人が着るような服だ。

すたすたと近寄ってくるマティーダに、ヴォルフは言った。

「何の用っスか。領主代理様が自ら来るなんて」

「様子見ですよ。なかなかの働き者だとあなたは評判です。
それにあのジルベールが懐いた人ですからね」

「そんなに珍しいんスか?」

「ジルベールは人見知りをするのですよ」

マティーダは微かに苦笑を浮かべる。

そんな彼女を見下ろして、ヴォルフは案外小さいんだなと思った。

雰囲気が堂々としているし、手足が長いため高く見えるが、
マティーダは成人女性としてはやや背が低い。

背の高いヴォルフと並ぶと、大人と子どもくらいの差があった。

「一つ聞いてもいいっスか?」

「どうぞ?」

ヴォルフは初めて会った時から気になっていたことを尋ねた。

「何で、俺にも丁寧な言葉遣いなんスか?」

「私は誰にでもこういう話し方をしますが、それがどうかしましたか?」

逆に尋ね返されて、ヴォルフは困惑した。

「いや、何でもないっス」

ヴォルフが知っている貴族というのは、横柄で自己中で陰険で吝嗇(けち)で自尊心ばかりが高い、

はっきり言ってろくでもない印象しかない。

だがこの領主代理は違う。

<帝国>で唯一公然と人身売買が行われるヒューリウは、田舎の中都市とはいえ、

決して治めるのが楽な土地ではない。

揉め事や厄介事は山のように起こる。

女性が相続権を得てまだ日が浅いのにもかかわらず、街では好意的な意見ばかりが目立つ。

例え正式にクオレッド伯爵家を継いだわけではなく代理としてでも、

マティーダがこの土地を立派に治めていることは間違いない。

領民に慕われる若き領主代理。

ジルベールが言っていたことは、やや誇張はあるが嘘ではないのだ。

「そうですか。あぁ、一つ言っておきたいことがありました」

そう言ってマティーダは、難しい顔をした。

「南の方で暴れていた盗賊団がこちらへ来たとの情報がありました。

もちろん警吏を増やして警戒しますが、あなたも気をつけてください。

ここは見晴らしが良いですから、不審人物を見かけたら直ぐにわかるでしょう」

「盗賊っスか? 物騒っスね」

「ヒューリウは別荘や別宅が多いですから、狙われやすいのですよ」

では、お願いします、と言って去りかけたマティーダは、途中で振り返り言った。

「私の言葉遣いに疑問を持つ前に、正しい敬語の使い方を学んだ方が役に立ちますよ」

マティーダの後姿を見送るヴォルフには、それが皮肉なのか、忠告なのか、

判断がつかなかった。

 

 

マティーダは執務室の机の上が書類でいっぱいになっているのを見て、こっそりとため息をついた。

出て行く前にたまっていた書類はすべて処理したはずだったが、

ちょっと席をはずしているうちに、こんなにもたまってしまった。

税務の計算だとか街道整備の点検だとか予算の分配だとか陳情の処理だとか、

やることは山ほどある。

諦めて机につくと、片っ端から書類に目を通し、部下に必要な命令を下し、処理していく。

これも後六年ほどの辛抱だと思えば、こなせることだった。

ジルベールは今九つ。

<帝国>では十五になれば成人として認められる。

成人していないものには、伯爵家を相続できても、領主として認められることはできない。

普通は後見人がつき、実務を任される。

しかしクオレッド伯爵家にはマティーダがいた。

マティーダは正式に届出を受理された養子であるから、伯爵家を継ぐのに問題はない。

実際、幾人かからはマティーダが本当に伯爵家を継いではどうかと打診があった。

マティーダはもちろん断った。

ジルベールという伯爵家の正統な後継者がいるというのに、

何故養子の自分が後を継げるというのだろうか。

確かにマティーダはジルベールが生まれるまで、後継者として育てられた。

当たり前だ。そのために引き取られたのだから。

ジルベールが生まれた時は、これで自分もお払い箱かと思った。

けれど伯爵夫妻は、マティーダをジルベールの姉として、分け隔てなく育ててくれた。

その恩を返す前に夫妻は<帝都>へ行く途中、落石事故で亡くなってしまった。

残された幼いジルベールを、立派な伯爵家の跡取りとして、

このヒューリウを治める領主として育てるのが、夫妻への恩返しになる。

それに姉上、姉上と無邪気にしたってくれるジルベールは、とても可愛い。

ジルベールが成人するまで、伯爵家とヒューリウを守るのが自分の使命なのだ。

そんなことを考えながらも、マティーダの手は止まらず、次々と書類を片付けていく。

この調子なら、今日は早く仕事を終えられるかもしれない。

そうしたら、ジルベールの勉強を少しみてあげようか。

ジルベールにつけている教師によると、やや数学が苦手のようだから。

しかしこのマティーダの考えは、突然部屋に跳びこんできた執事によって遮られた。

「た、たたたた大変でございます! マティーダ様!」

いつも穏やかに笑っている伯爵家の優秀な執事だったが、今は慌てふためいていて、

いつもの冷静さは微塵もない。

「いったいどうしたと言うのですか? 落ち着いて話してください」

「こ、これを・・・」

執事は一本の矢と、紙片、それと見覚えのあるリボンを差し出した。

矢文である。

その紙片を開き、内容を読んだマティーダの顔が、みるみる青くなる。

ぽと。

床に敷き詰められた絨毯(じゅうたん)の上に、マティーダの手から矢が落ちた。

震える手で紙片を持ち、何度も何度も紙片の上に書かれた文字を確かめる。

そこにはへたくそな字で、こう書かれていた。

「『ヒューリウ領主代理へ。ジルベールは預かった。返して欲しければ金を用意しろ。

早く来なければ義弟の命はないものと思え。ヒューリウ郊外の西の森の祠(ほこら)にて待つ』

・・・このリボンはその証拠というわけですか」

マティーダはリボンを握り締めながら言った。

このリボンは、ジルベールがしていたものに間違いない。

「しかし・・・」

マティーダは矢文の最後に書かれた署名を見て、緊張感をそがれたような気分になった。

「報告を聞いて知ってはいましたが、また変な名前ですね」

これは最近南方からやってきた盗賊団の名前に間違いない。

あまりにも気の抜けた名前なので、一度聞いたら忘れられない名だ。

署名には『我らが悪党』と書かれていた。

 

 

ジルベールは後悔していた。

一人で街に行くことは、マティーダや執事たちから厳しく止められていた。

いくら暢気者が多いヒューリウだといっても、犯罪の発生率は決して低くない。

ガラの悪い者も多くいる。

そこへ身形のよい、まさに貴族という格好をした子どもがのこのこと現れれば、

さらってくださいと言っているようなものだ。

奴隷市は役人によって厳しく管理されているが、見つかれば厳罰覚悟の闇奴隷市があることも事実。

そこでは届出が出されない非合法の人身売買が行われ、そこで売られた者は、

国の保護を受けることができずに、悲惨な最期をたどることが大半だ。

マティーダや代々の領主は、この闇市を根絶することを目標に、厳しい摘発を行ってきたが、

この世から悪が消え去ることはあり得ず、今も闇から闇への奴隷市は行われている。

それはジルベールもよく知っていた。

自分が将来治める街のことを知らないではすまされないと、

マティーダが時折連れ出しては様々な所へ行って、説明してきたからだ。

けれど、ジルベールはどうしても屋敷にいたくなかった。

一度は屋敷の中へと入ったジルベールだったが、言い忘れていたことを思い出して戻った。

そこにはヴォルフだけでなく、マティーダもいた。

ジルベールには、二人が楽しそうに話しているように見えた。

距離があったため、何を話しているかまでは分からなかったが、ジルベールは大きな衝撃を受けた。

自分より義姉のマティーダがこのまま領主となった方が良いのではないか、

という意見があることを知っていた。

それはジルベール自身もそう思うことがある。

自分が生まれたせいで、マティーダは伯爵家の跡継ぎではなくなったのだ。

それなのにマティーダは、ジルベールのことをとても可愛がってくれている。

もっと小さい頃は、寝る前に本を読んでくれたし、今も仕事の合間をぬっては会いに来てくれる。

厳しい所もあるが、優しい義姉がジルベールは大好きだった。

そんな義姉が林檎一箱分の値段で買ってきた奴隷、ヴォルフ。

彼は自分の話を聞いてくれる、良い人だと感覚ではわかっている。

だけど、忙しい義姉が仕事の合間をぬって、ヴォルフの様子を見に来ていたのだ。

自分よりもヴォルフの方を見に来ていた。

つまりは大好きな義姉をとられるんじゃないかという、嫉妬だ。

そのまま部屋に帰ることが出来ずに、ジルベールは屋敷を飛び出した。

そして、今は森の中にいる。

ひげ面のむさくるしい男たちが、ジルベールの周りをとりかこんでいた。

「しっかし、こっちに来て早々、いい獲物にあたりやしたね、お頭(かしら)」

ひょろりとした狐目の男が、一際体が大きくむさくるしい男に言った。

「そうさなぁ。まさか伯爵家の坊ちゃんが、のこのこと歩いているとは思わなかったからなぁ」

げへへへへと、男たちは下卑た笑い声をあげた

頭と呼ばれた男が、クオレッド伯爵家の紋章が入ったピンを掲げる。

(姉上、ごめんなさい。ごめんなさい)

ジルベールは泣くのを必死にこらえて、空を仰いだ。

 

 

ヴォルフは一仕事終え、厨房のおばちゃんからもらった菓子と茶をいただいていた。

その厨房のおばちゃんはヴォルフをいたく気に入っていて、時々こうして菓子をくれる。

厨房のおばちゃんだけでなく、他の使用人たちからも、その人懐っこい性格で好かれていた。

高い青空を眺めながら「人生って分かんないなぁ」と独り言ちる。

ヴォルフの一族、キウラ一族は、十五になると五年間主君を探す旅にでる。

これは昔からの掟で、男女問わず行われるものだ。

キウラ一族は総じて身体が丈夫で、武術を修めている者が多いため、傭兵として重宝される。

しかし金で雇われた関係は、本当の主従とは言わない。

己が認めた主君に尽くすこと。

これはキウラ一族の性質、本能といっていい。

しかしそうした主君に巡り会う者もいれば、巡り会えない者もいる。

大抵の巡り会えなかった者は、里へと戻ってくる。

主君を亡くした者も、里へと戻ってくることが多い。

キウラ一族は家ではなく、主君一人に仕えるものだからだ。

ヴォルフもキウラ一族なのだが、珍しく里の外で生まれた子どもだった。

母親は己の仕える主君の子を身ごもり、主君亡き後、

後継者争いに巻き込まれるのを恐れて各地を転々としていた。

里に戻らなかったのは、そこで我が子が疎外されるのを恐れたからだ。

主君の子を身ごもるなど、あり得てはならないことだった。

しかしヴォルフがまだ小さい時に、母親は己の身体が主君と同じ病魔に冒されていることを悟る。

最後の力を振り絞ってヴォルフを里へと連れて行き、力尽きた。

確かに母親が心配した通り、ヴォルフを邪険に扱う者もいないではなかったが、

ヴォルフの祖父である里長がヴォルフを引き取り、稽古をつけてくれた。

祖父は無口で頑固で厳しかったが、ヴォルフを特別扱いしなかった。

本当の年齢は分からないが、大体十五になっただろうと、里を出たのは二年前。

奴隷商人に捕まったのは、旅の途中で金がなくなり食い逃げをやらかして、

捕まって代金の代わりに売り飛ばされたからだ。

事情を聞いたマティーダは、冷たい声で一言「あなたは馬鹿ですか」と言っただけで、

ヴォルフを受け入れた。

これはひょっとすると、ひょっとするかも知れないと思う。

バタバタバタ。

屋敷の中が騒々しい。

何かあったのだろうかと思い、厨房を覗く。

「おばちゃん、何かあったの?」

血相を変えて慌てふためいている厨房のおばちゃんは、大変だよ! と連呼する。

「ジルベール様が誘拐されたっていうんだよ!」

それを聞いたヴォルフは、目をしばたたいて思わず呟いた。
「そりゃ大変だ・・・」

 

 

広い執務室にはマティーダの他、執事や警吏の部隊長、主だった役人たちがつめていた。

「第一部隊と第二部隊は街道を封鎖してください。

第二部隊は物見から何人か選んで、近隣の街への援軍の要請をお願いします。

森は包囲するには広すぎますし、盗賊団を刺激しては人質に危害を加える可能性がありますから、

森には立ち入らないよう、警吏含め猟師等にも通達を出します。

第三部隊は混乱に乗じての犯罪を防ぐため、街の警備を強化してください。

非番の方には申し訳ありませんが、非常時のため召集をかけましょう」

マティーダはテキパキと指令を下すが、その顔色はいつもより優れない。

可愛い義弟を誘拐されたのだから、当たり前だ。

「もしもの時のために、組合の方にも圧力をかけます。つなぎをつけてください」

ここで言う組合とは、闇市を開催する裏組合のことである。

「しかし、それでは誰が受け渡し場所に?」

執事の問いに、マティーダは簡潔に答えた。

「私が行きます」

「無茶です! ジルベール様のみならず、マティーダ様までいなくなられたりしたら・・・」

執事を初め、部隊長や役人たちも一斉に反対する。

しかしそれでマティーダを止められると思ったら、大間違いだ。

「矢文の宛名は私です。あれは私に金を持って来いという意味でしょう」

「しかし、いくらなんでもお一人では・・・」

「誰が一人で行くと言いましたか? 私にもそれくらいの判断はつきます。

各部隊から手錬を数名選抜してください。

彼らには盗賊に気づかれないように私とは別行動で森に入り、盗賊団を包囲してもらいます。

ジルベールを救出したら、盗賊を捕らえるのです」

「ですから、どうやってジルベール様を救出するのです? それにやはりお一人では危険です。

身代金を渡した所で、奴らがおとなしくジルベール様を渡すとは考えられません」

言いつのる執事を制して、マティーダは窓の外を覗いた。

裏庭にある人物を見つけ、彼女の翠色の瞳がキラリと光る。

「彼に協力を頼みましょう」

マティーダが指差す先には、ジルベールが心配なあまり錯乱する厨房のおばちゃんに、

強い力で肩を揺すられ、白目を向いているヴォルフの姿があった。

 

 



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