ヒューリウ郊外に樹齢何百年という大木が、広範囲にわたってうっそうと生い茂る森がある。

昔から神隠しや遭難者が相次ぐ、樹海として有名な場所だ。

この森に足を踏み入れる者は、何代にも渡りこの森で狩りをしてきた経験豊富な猟師か、

何も知らない旅人、もしくは自殺志願者くらいである。

正式名称はキエスティックの森。

しかしこの名前が使われるのは、今や公式文書くらいだ。

ヒューリウ近郊に住む者は、その森がヒューリウから見て西にあることからこう呼ぶ。

西の森と。

 

 

「しっかし、ホントにいいんスか? 案内人もなくて」

すたすたと自信たっぷりに歩いていくマティーダの背中に向かって、ヴォルフは問いかけた。

天に届けとばかりに育った大木が、地面に暗い影を落としている。

むっと濃い緑と土の匂いが、鼻に届く。

かろうじて獣道のようなものがあるが、それを一歩踏み外せば、生きて帰れる保証はない。

それなのにマティーダの歩みに、恐れやためらいは見られない。

ヴォルフは屋敷の武器庫から好きに選んで良いと言われて選んだ太刀で、

通り道の樹に軽く印をつけながら進む。

帰れなかったら洒落にもならないからだ。

「大丈夫ですよ、祠(ほこら)までは一本道です。盗賊たちも無茶はできないからでしょう。

それにあの猟師には、精鋭部隊の案内を頼みました。あちらは文字通り、道なき道を行くのですから」

マティーダは短剣で道をふさぐ蔦(つた)を切り拓きながら答えた。

彼女はいつも着ている官服の上に皮の防具をつけ、さらに外套(がいとう)を着ていた。

これから盗賊団の元へ行くにしては、身軽な格好である。

ヴォルフはというと、いつもよりやや上等な服に防具はなし。

ただし厚めの生地であるので、ほんのわずかだが防御力はある。

腰にはく太刀はそれほど長くも大きくもない、いたって実戦的なものだ。

それにずっしりと重い皮袋を背負っているのだが、本人はいたって軽々とした足取りである。

普通は護衛であるヴォルフが先を歩くものなのだが、マティーダの方が身が軽く、

ヴォルフは両手がふさがっているため、先導しているのだった。

「・・・あなたには、つき合わせて申し訳ないと思っています。

無事に事が済めば特別報酬を出しますから、月末を待たずに自由の身になれるでしょう」

マティーダは振り返らずに言う。

その声に感情の色はない。

ただ淡々とした声音だ。

「別にいいっスよ。どうせ俺らキウラは、水汲みや薪割りよりもこういう仕事の方が向いてるっスから。

それに奴隷は主(あるじ)の言うことを聞くもんっしょ?」

ヴォルフは気にしてないという口調で言ったが、マティーダの肩がビクリと動いた。

「そうですね。それにつけこんでいるという自覚はあります。

しかしどうしてもあなたの力が必要なのです。何としてでもジルベールを無事に救出したいのです」

ザッと蔦を切り裂く短剣に力が入る。

その手は微かにだが震えていた。

マティーダはジルベールが生まれるまでは、領主となるための教育を受けたし、

生まれた後も、ジルベールを補佐するためにありとあらゆる教育を受けてきた。

その中には、もちろん武術も含まれており、指南役にはなかなかの腕と褒められた経験もある。

しかし試合をしたことはあっても、実戦を、命のやりとりをしたことはない。

だから短剣以外に武器を持ってこなかった。

例え武器を持っていたとしても、役に立つどころか荷物になるだけだと思ったからだ。

ジルベールという人質がいるというのに、いきなり実戦で試すことは、マティーダにはできない。

物心つく頃から武術を徹底的に叩き込まれ、旅に出てからは幾度となく実戦を重ねたヴォルフには、

震えの原因が分かった。

だから彼はわざと明るい声で応える。

「だからいいって言ってるじゃないっスか。さぁ、さっさと行かないと陽が暮れるっスよ」

「えぇ、そうですね。急ぎましょう。」

木々の隙間から見える太陽は、わずかに西に傾いていた。

 

 

盗賊団『我らが悪党』の頭は、現れた女性が担いでいる皮袋を見て、にやりと笑った。

「これはこれは、領主様、こんな所までご苦労なこって」

「ここを指定したのは、あなた方でしょう。それに私は領主代理であって領主ではありません」

荒くれ者の集団を前に、マティーダは怯えの欠片すら見せず、いつもと同じ調子で答える。

答えながら、軽く三十人ほどいるむさくるしい男たちの中でも、一番体格がよく、

一番偉そうなこの男が頭だろうと見当をつけた。

マティーダは担いでいた皮袋を下ろした。

ドサッと重たそうな音が響く。

その皮袋の口を開け、中身を盗賊たちに見せた。

その中身を見て、盗賊たちはごくりと生唾(なまつば)を飲み込んだ。

大量の金貨や宝石が、まばゆいばかりに光っていたからだ。

「身代金を持ってきました。これだけあればそれだけの人数でも数年は遊んで暮らせるでしょう。

さぁ、早くジルベールを返してください」

頭は後ろに控えていた子分に顎でしゃくって合図をした。

その男は軽くうなづくと後ろに下がり、後手に縛られたジルベールが連れてこられた。

「ジルベール! 怪我はありませんか?」

「姉上!」

ジルベールは義姉の姿を一目見るなり、駆け寄ろうとしたが、盗賊団の頭に羽交い絞めにされた。

「おうっと、人質は身代金と引き換えだって、言ったはずだぜ?

領主代理様、その皮袋ごとこっちに持ってきてもらおうか」
マティーダは黙ってその指示に従った。

皮袋を持ち、盗賊たちまで、あと十歩ほどの所で立ち止まる。

「ジルベールと交換です」

「わかってるさ、代理様。いちにのさんで、あんたは袋をこっちに投げる。

俺は坊ちゃんの手を離すんだ。いいな?」

「えぇ、分かりました」

マティーダは両手で皮袋を持ち、反動をつける。

「「いち、にの、さん!」」

マティーダの手から皮袋が離れ宙を舞った。

同時にジルベールも自由の身になった。

ただし、それは一瞬だけだったが。

 

 

頭はジルベールを一旦離したが、すぐに手下によってジルベールは取り押さえられた。

義姉の元に駆け出そうとした足がもつれ、手下共々地面に転がる。

「何をするのですか!」

マティーダが非難の声を上げたが、盗賊たちはそんな彼女を嘲笑(あざわら)った。

「へっへっへ、領主代理様、俺たちだってそう馬鹿じゃねぇんだ。

ここで人質を返したら、途端にお縄になっちまうことぐらい、わかってるんだよ。

無事遠くまで逃げおおせるまで、せいぜい盾になってもらわにゃなぁ。

ま、俺らが無事に逃げおおせたって、坊ちゃんは無事には帰れねぇけどな!」

ぎゃはははと下卑た笑い声をあげる盗賊たち。

ジルベールの顔がみるみる青くなった。

取り押さえた手下が、絶望を知り暴れなくなったジルベールを頭に渡す。

しかしマティーダは、冷静な顔を崩さない。

ここで焦っても、事態がよくなるわけではないからだ。

このことは、予想できたこと。

盗賊たちがおとなしく人質を返すとは、誰も思っていない。

マティーダは出来るだけ、冷たく低い声で言った。

「警告します。あなた方がおとなしくジルベールを返すのならば、街道の封鎖を解きましょう。

私にはその権限があります。しかしあくまでもジルベールを返さないと言うのならば、

仕方ありません。力ずくでも、ジルベールを返してもらいます。

繰り返しますが、これは取引ではありません。警告です」

マティーダは真っ直ぐに頭を見つめた。

それは睨むでもなく、怯えも怒りもない、静かな凪のような目だった。

あくまでも冷静なマティーダに、盗賊団の手下たちはいくらか動揺の色が見えたが、

頭には裏組合から金で買った、マティーダを動揺させられる、とっておきの情報があった。

だから頭は自信たっぷりに笑って言った。

「なぁ、領主代理様。あんた、養子なんだってな」

「だからなんですか? そんなことは、皆が知っていることです」

マティーダには、頭が何故そのことを言い出したのか分からなかった。

マティーダがクオレッド伯爵家の血を引かない養子だということは、

ヒューリウ近辺の者ならば、お年寄りから子どもまで知っていることだ。

しかし頭は笑みを崩さずに続ける。

「けどよ、それまであんたがどこで何をしてたか、知ってるヤツがいるか?

あんたの義弟の坊ちゃんだって知らないだろ、なぁ?」

頭が捕まえているジルベールに訊いた。

ジルベールは義姉と自分を捕まえている盗賊団の頭を交互に見、

少しためらった後、こくりと頷いた。

確かにジルベールは、義姉が伯爵家に引き取られるまで、何処にいたのかを知らない。

生まれを尋ねたこともない。

それはジルベールにとって、考えることすらならない禁忌だった。

それを尋ねてしまえば、自分と義姉との絆が崩れてしまうような気がしたからだ。

そんなジルベールの様子を見て、頭は確信を持った。

間違いない。これは一級の裏情報だと。

マティーダは表情を浮かべずに、低く唸るようにして声を発した。

「あなたは、何が言いたいのですか?」

「あんた、<帝都>でかっぱらいしてたんだってなぁ?

しくじってとっ捕まり、闇奴隷市で売られそうになったところを、

ガサ入れに来た先代に、運よく引き取られたそうじゃねぇか」

マティーダの肩が、ビクッと震えた。

頭は手ごたえを感じ、にやりと笑う。

「それが今じゃ、このヒューリウを預かる領主代理様とは、ご大層なこった。

面の皮が厚いのにも、ほどがあるんじゃねぇの?」

マティーダは凍りついた表情で、頭をにらむ。

何かを飲み込むように一拍置き、口を開いた。

「言いたいことは・・・それだけですか? ジルベールは、力ずくでも返してもらいます」

「へっ、人質がいるってのに、やり合う気かい?」

「ジルベールには、傷一つつける気はありません」

すぅっと細められた翠の目の奥に、冷たい炎が燃えているのに、ジルベールは気づいた。

義姉が過去にどんなことをしていたって、ジルベールには優しい義姉だった。

今更嫌いになったり、恐れたりすることはない。

そのことを伝えたいのに、マティーダの気配に押されて、

声を出すどころか指一本動かすこともできない。

ジルベールはそんな自分が情けなくて、悔しい気持ちで胸がいっぱいになった。

 

 

「やれぇい!」

頭の一声で、盗賊たちは一斉にマティーダに襲い掛かった。

それと同時に、隠れて事態を見ていたヴォルフが、樹の陰から飛び出してくる。

マティーダに斬りかかった盗賊の一人の武器を、太刀で弾き飛ばした。

「おっと、大丈夫っスか?」

武器をなくした盗賊を蹴り飛ばし、マティーダの側で太刀を構える。

それは肉体的な傷の心配ではなく、精神的な状態を尋ねたのだったが、

マティーダは前者と受け取って答えた。

「えぇ、怪我はありません。事前に打ち合わせした通りにお願いします」

それ以上の問答をする隙はなく、戦闘は始まった。

ヴォルフはたくみに位置を変え、囲まれないようにしながら、盗賊たちを一人二人と切り伏せていく。

しかし事前にマティーダに釘をさされていたため、急所は避け手足や肩などを狙い、

戦闘不能状態にとどめた。

罪人は法によって裁かれるべしという領主代理としての考えと、

幼い弟に人を殺すところを見せたくないという義姉としての思いが、入り混じった結果である。

何にせよ、それを囲まれながらも実行できるのは、ヴォルフの卓越した武の才があるからに他ならない。

マティーダの方にも盗賊たちは襲い掛かってきたが、彼女は応戦せず避け続けた。

彼女が持っている短剣では、間合いが短すぎる。

ブンブンと得物を振り回す盗賊たちを嘲笑うかのように、マティーダはひらりひらりと、

紙一重の所を避けていく。

そうして盗賊たちが疲労した所を、ヴォルフが斬る。

そうこうしているうちに、あれだけいた盗賊たちを、あと十数人という所まで追い詰めた。

ヴォルフは軽く汗をかいている程度だが、マティーダの顔には疲労の色が浮かんでいた。

動きもやや鈍くなり、攻撃を避けきれずに出来たいくつもの裂傷から血が流れている。

「姉上っ、危ない!」

マティーダの背後から、一本の矢が飛んできた。

射手は背中を狙って矢を放ったが、マティーダはジルベールの声でそれに気づき、とっさに横へ飛んだ。

しかし完全に避けきることは出来ずに、肩を射抜かれる。

肩を押さえて、よろめくマティーダを見て、ジルベールはボロボロと涙をこぼしながら叫んだ。

「ごめんなさい、姉上! ごめんなさい! 
僕さえいなければ、姉上はこんな目にあうこともなかったのに!

僕、なにもできなくて、姉上に迷惑ばかりかけて、僕はいらない子なんだ!

僕なんて、生まれなきゃ良かっ」

「黙れぇ!」

辺りの木々を揺るがすほどの怒声が、ジルベールの言葉を遮った。

周りで戦闘を繰り広げていたヴォルフや盗賊たちも、思わず動きを止めて声の主を見る。

血に染まった袖を引きちぎり、肩に刺さった矢を抜き止血をするマティーダ。

その翠の目は、きつくジルベールをにらみつけていた。

「誰がいらない子だって? ふざけんじゃないよ!

生まれなけりゃよかっただなんて、冗談でも口にすんな!

あんたが生まれて、あんたの両親や領地の皆がどんなに喜んだと思ってんだ!

あたしだって養親が死んでから、あんたの存在にどんだけ救われたことか!

だからあんたには幸せになる義務ってモンがあるんだよ!

この世には言霊ってもんがあって、あんたが『僕はいらない子だ』って言えばそうなるし、

逆に『幸せになれる』って言えば幸せになれるんだよ! わかった?」

「は、はい!」

生まれて初めて義姉の声を荒立てた所を見たジルベールは、

その勢いに圧倒され、頬に流れた涙も乾いていた。

ジルベールを羽交い絞めにしていた盗賊団の頭は、マティーダの怒気に真正面から当てられて、

情けないことに、未だ動けずにいた。

ぽかんと事態を見ていた周りの中で、一番先に我に返ったのはヴォルフだった。

キウラの超人的な脚力でもって、ヴォルフは一足飛びに頭の後ろへと回り込み、

ジルベールを捕らえていた腕をねじ上げる。

「いてててててててぇ!」

「頭ぁ!」

「ジルベール!」

「姉上!」

自由の身となったジルベールは、転びそうになりながらも義姉の元へと駆け寄る。

他の盗賊たちは、何が起こったのかを理解できず、自分たちの頭とジルベールを、

ただ交互に見ることしかできなかった。

ジルベールをしっかりと抱きとめたマティーダは、首に下げていた笛を思いっきり吹き叫ぶ。

「一人残らず引っ捕らえなさい!」

笛の音を合図に、祠のある広場を取り囲んでいた精鋭部隊が、木々の間から躍り出た。

これに慌てふためいた盗賊たちは、我先にと逃げ出そうとしたが、

待ち構えていた警吏たちによって、あっという間に全員取り押さえられた。

こうして<帝国>の南部から東部にかけて荒らしまわっていた盗賊団、

『我らが悪党』は、全員御用と相なったのである。

 

 

その翌日、ヴォルフはマティーダに執務室へ呼び出された。

ふかふかした絨毯(じゅうたん)や高価な家具のせいで、どうにも落ち着かない様子だ。

マティーダは執務机で、例にもよって書類を片付けていたが、手を止めて立ち上がった。

「昨日はご苦労様でした。おかげでジルベールは無事でしたし、

盗賊団を一網打尽にすることができました。改めて礼をいいます。有難うございました」

そのジルベールは、ここにはいない。

今は部屋で必死に机に向かっているはずだ。

ジルベールには無断外出と心配をかけた罰として、

<帝国憲法>とヒューリウ特別人身売買法を書き写すという課題が課せられていた。

「いやっ、そんな俺は別にたいしたことしてないっスよ」

領主代理に深々と頭を下げられ、ヴォルフは困惑する。

「そんなことはありません。あなたがいなければ、きっと上手くいかなかったでしょう」

マティーダは机の引き出しから、袋を取り出し、ヴォルフに差し出した。

「これは少ないですけど、旅費にあててください。あなたはもう、自由の身です。

早く、あなたが本当の主君を見つけられますよう、祈っています」

ヴォルフは一旦、その袋を受け取ったが、何か言いた気にマティーダを見下ろした。

「あ〜、その、主君の件なんスけど・・・もう見つかったんスよ」

これには流石のマティーダも目を丸くした。

「え? いつの間に? それは誰なのですか?」

ヴォルフはにっと笑い、マティーダを見る。

マティーダは目をぱちくりして、自分の顔を指差した。

「も、もしかして、私、ですか?」

「そうっスよ」

あっさりと頷かれ、マティーダは信じられないという顔でヴォルフを見上げた。

「何故私なのです? 昨日まではそんな素振りは微塵もなかったでしょう」

「だって、昨日っスよ。俺が領主代理様に仕えたいって思ったの」

「は?」

「いやぁ、昨日の啖呵(たんか)でビビッときたんスよ。
もう俺が仕えるのは、領主代理様しかいないって」

ヴォルフはその場で片膝をつき、マティーダを見上げて言った。

「俺の主君になってくださいっス」

「嫌です」

執務室がしんと静まり返った。

今度はヴォルフが目をぱちくりする。

「なんでっスか? 自分で言うのもなんスけど、俺、キウラっスよ?」

普通、貴族にとって、キウラの忠誠は喉から手が出るほど欲しいものだ。

一人の主君に一生尽くし、武術に優れたキウラ一族は、とっておきの懐刀になる。

しかし、マティーダにそんな理屈が通用するはずもない。

「だから何ですか。嫌なものは嫌です。お断りします。別の人を探してください」

「無理っスよ! 俺、領主代理様以外に仕える気、全然ないっスから!」

「そんなこと、私が知ったことではありません」

「そんなぁ、ヒドイっスよ」

ヴォルフは情けない顔で、マティーダを見上げる。

まるで主人に叱られた犬のようだった。

もしもヴォルフに耳がはえていたら、へちょんと下がっているに違いない。

その姿は百人中九十九人が気の毒に思うだろうが、相手は例外の一人だった。

マティーダはそんなヴォルフをいちべつして、言い放つ。

「そんな顔をしても無駄です。私の心は動きません」

マティーダはふいっと、視線をそらし、椅子に座った。

「話は終わりました。私には仕事がありますから、出て行ってください」

そう言うとマティーダは書類に目を通し始めた。

 

 

ヴォルフは口を尖らして、マティーダの側にしゃがみこんだ。

「出てく気、ないっスよ。自分の認めた主君に尽くすのは、キウラの本能みたいなモンっスっから」

マティーダは黙々と書類を片付けていく。

ヴォルフに目もくれない。

それでもヴォルフは諦めなかった。

「俺、役に立つっスよ? 腕も立つし、これでも結構器用だし」

バサリと、書類をめくる音だけが響く。

「それに主君は絶対に裏切らないし、まぁ、ちょっと燃費は悪いっスけど・・・」

ヴォルフの腹が鳴った。

「ねぇ、ホントにダメっスか?」

「駄目です」

即答だった。

流石にへこんだヴォルフだったが、執務室を出て行こうとはしない。

膝をかかえて、部屋の隅で丸くなり、じぃっと恨みがましい目でマティーダを見つめている。

背中にひしひしと視線を感じて、マティーダはペンを置いた。

くるりと椅子を回し、ヴォルフを見下ろす。

「いい加減にしてください。何度言ったらわかるんです?
私はあなたの主君になるつもりは毛頭ありません」

「何でっスか? 理由もなしに、ダメ、嫌、じゃわかんないっスよ」

マティーダは少しためらい、口を開いた。

「ジルベールのためです」

「坊ちゃんの?」

「えぇ」

マティーダは立ち上がり、窓に近寄り外に目を向けた。

「未だにジルベールではなく、私を領主に、という声が一部にあります。

私にはその気はありませんし、ジルベールが成人すれば、きっとそんな声もなくなることでしょう。

しかしジルベールが成人するまで、まだ六年もあります。

私がキウラ一族の者の主君となれば、更にその声が高まる懸念があるのです。

それは避けねばなりません」

キウラの主君になる。

それは、周りに少なからず影響を与えることだ。

「まぁ、私の過去を知れば、そんな声もなくなるのでしょうが、今バラせば統治が難しくなります」

「もしかして、坊ちゃんが成人したら、ヒューリウを出てく気っスか?」

ヴォルフの問いに、マティーダは微かに寂しそうな笑みを浮かべた。

「そうですね。ジルベールが成人して、領主として立派にやっていけるようになったら、

ここを出て行こうと思っています」

「そん時は、俺も連れてって欲しいっス」

マティーダは額に手をあて、ため息をついた。

「だ・か・ら、あなたの主君になるつもりはないと、何度言ったらわかるのですか」

ヴォルフは立ち上がり、マティーダのいる窓の側まで近づく。

そしてマティーダを見下ろし、こう言った。

「ただの使用人ってコトにすればいいんスよ。水汲みでも何でもするっスから。

それに『買ったもの、拾ったものは最後まで面倒をみるのが、義務というもの』なんスよね?」

それは一月前、マティーダが奴隷商人に言った言葉だった。

「そ、それは、そうですけど・・・」

マティーダは一月前の自分の迂闊(うかつ)な発言を恨んだ。

にんまりと笑いながら、ヴォルフは続ける。

「『まさか領主代理ともあろう方が、一度言ったことを反故にするようなことは』ないっスよね?」

これは奴隷商人の言葉だ。

「今思えば、林檎一箱分なんて値段で買われたのも、運命感じないっスか?」

「まったく感じません」

ヴォルフはじりじりとマティーダとの間合いをつめる。

マティーダはヴォルフの顔を、キッとにらみつけた。

けれど何も言えない。

ヴォルフはマティーダの前まで来ると、先程と同じ様に片膝を立てて、

キウラの伝統的な忠誠の誓いを口にした。

「あなたに全身全霊を捧げ、一生の忠誠を誓います」

それは騎士の礼に似ていた。

ジルベールがもっと幼い頃に読み聞かせた物語に、宮廷の花園で姫に忠誠を誓う騎士の挿絵があった。

しかしヴォルフは騎士ではなくキウラ一族だし、その忠誠を誓うのも姫ではなくヒューリウ領主代理。

そして場所は屋敷の執務室である。
夢がないこと、この上ない。

マティーダは大きなため息をつき、観念して口を開いた。

「今日からこの私、マティーダ=クオレッドがあなたの主人です」

「承知いたしました、ご主人様」

ヴォルフは深く頭を下げる。

帝国暦一〇七五年、秋の出来事だった。

 

 

その後、マティーダによって正しい言葉遣いを徹底的に叩き込まれ、

根を上げているヴォルフの姿が幾度となく見られたが、

それはまた、別のお話。




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