1.

 血の海だった。
おびただしいほどの血の海の中、シュレイヤはただ一人立っている。
見渡す限りの赤、朱、紅。
シュレイヤ自身もべったりとついた血で、真っ赤に染まっていた。
何かぬめる感触があり手を見ると、愛剣から血が滴り落ちていた。
辺りを見れば、もの言わぬ骸があちらこちらに散らばっている。
一歩足を踏み出すと、つま先に何かあたった。

腕だった。

傷だらけで、骨が見え、肉が千切れ、血に染まり、腐り始めていた。
持ち主は判らない。
他にも足や胴体などがあるが、傷がない所がないほど傷だらけだ。
頭と手足が胴体にくっついていればマシな方で、顔の判別さえつかないものも多かった。
シュレイヤは夢を見ているのだと思った。
これほどの血が流れているのに、血の匂いがまったくしない。
夢だと判っても、胃の奥から迫上がってくる不快感は消せなかった。
どれだけ目をこらしても、立って生きているのはシュレイヤだけだ。
骸を踏まぬように、歩を進める。
(他に生きている人。誰か、誰か)
心は焦り、次第に駆け足になる。
どこまで走っても、赤い血の海と骸が続く。
空も赤い、それこそ血を流したかのように。
まるで地獄のようだと思った。
血で足元が滑った。
何かの上に倒れ掛かる。
シュレイヤが倒れたこんだ骸は、
窪んだ眼窩で無言の抗議をしているようだった。
(何故こんな夢を見る。何故? 確かに私は人殺しだ。
けれど、けれどこんなに殺してない。大体殺したヤツだって、殺さなきゃこっちが殺されていた。

何故この人たちは死んでいる? 誰が殺したんだ?どうして、どうして・・・・。)

私 の 剣 は こ ん な に 血 に ま み れ て る ?

「こいつらはテメェがこれから殺すんだよ」
うずくまり、嘔吐(おうと)を堪えるシュレイヤの耳に、声が聞こえた。
声だけで、姿は見えない。
「こんだけの人間を、テメェが殺すんだ。テメェはこんだけの人間に、その剣を振るうんだよ。
数え切れぬほど肉を斬り、数え切れぬほどの断末魔の叫びを聞き、
それこそ覚えきれないくらいの恨みを買うんだろうぜ。望む、望まないは別にしてな。
賽はすでに投げられた。
さぁて、地獄を見て、どんだけ耐えられるんかね。ま、楽しみにしてるぜ、シュレイヤちゃん」


シュレイヤが汗びっしょりで跳ね起きた時、窓の板戸のすき間から、清々しい朝日が差し込んでいた。

 

 

2.

 手が震えていた。
何度も目をこすって、血がついていないことを確認し、
部屋を見回して、やっとあれは夢だったのだと判った。
まるで半刻も稽古し続けた時のように、汗をびっしょりとかいていた。
落ち着こうと深呼吸を繰り返して、寝台から降りる。
寝間着を着替えながら、シュレイヤは何故あんな夢を、と思い、
眉間にしわを寄せた。
そうだ、確かに自分は夢を見た。
それは覚えている。
あんな夢と思うような夢だった。
けれど先程まであんなに鮮明に思い出せた夢の内容が、
まるで霧の中に消えてしまったかのように、不確かになってしまっている。
とても嫌な夢だったはずだ。
そう思うのだが、シュレイヤは思い出せない。
シュレイヤは決して物覚えが悪い子供ではない。
逆に記憶力には自信があった。
けれど思い出せない。
この思い出せそうで思い出せないもやもやとした感覚が気持ち悪く、
シュレイヤはさっと梳(と)かした髪を乱暴にくくる。
最後に双剣を腰に差すと、その奇妙な感覚ごと忘れることにした。


階下に下りると、この元宿屋の大家の娘でもあるキリが、
盆に溢れんばかりの料理の皿をのせて、卓と厨房を行き来していた。
「おはよう」
「あら、シュレイヤおはよう。もう少ししたら起こしに行こうと思ってたのよ」
暗に寝坊したことを言われて、シュレイヤの頬が赤く染まる。
キリはふふと笑うと、シュレイヤに席に着くように促(うなが)す。
「早くしないと、あいつらに全部食べられちゃうわよ」
「もしかして、それは全部ルトたちが?」
シュレイヤはキリの持っている盆を見て、尋ねた。
キリは頷いた。
「そ、うちの飯屋は朝はやってないの。食べるのはあいつらだけ」
シュレイヤは信じられないと思ったが、昨日の食事風景を思い出し、
あり得なくはないと思い直した。
(けれど朝からあんなに食べるのか・・・)
うんざりするような気持ちになったが、何にせよ、早く行った方がいいだろう。
でないと本気で食い逃しかねない。
しかしその皿の数を見ただけで、シュレイヤは腹がいっぱいになっていた。

 

 

3.

 ルトはこちらに近づいてくるシュレイヤを見て、おや?と思った。
相変わらず無表情で無愛想な顔は、心なしか青い。
本日四つ目のパンを片付けて、果実に手を伸ばすルトを一瞥して、シュレイヤは席につく。
「お早う」
「あぁ、お早う。その顔じゃ、よく眠れなかったみたいだね」
にっこりと笑いかけたルトに、シュレイヤは「うん、ちょっと」と言葉を濁した。
「そうか、今日も悪いが俺たちは出かける。お前さんはどうする?」
言いたくないのだと察したザップが、話題を変えた。
「一人でこの街を歩いてみたいと思うけど」
「うん。それがいいかもね」
ルトは最後の一房を口に放り込む。
宿屋の裏庭でとれた果実は、酸味が強く思わず口をすぼめた。
「じゃあ、悪いけど先に行くよ。シュレイヤはゆっくり食べなね」
卓の脇に立てかけておいた愛剣を掴み、立ち上がる。
いつものほほんと笑っているルトだったが、これでなかなか多忙な身なのだ。
「あぁ、行ってらっしゃい」
無表情にこくんと頷いてパンに手を伸ばすシュレイヤに、ルトは苦笑する。
ザップに軽く目配せをしてから、飯屋を出た。


ルトは大通りを行きながら、シュレイヤのことを考えていた。
ルトが東へとやってきたのも、シュレイヤと同じ年頃のことだ。
それからがむしゃらに生きてきて、気がつけば二十年近く経っていた。
これからもそうして生きて行くことだろう。
けれど、シュレイヤを巻き込んだのは、果たして正解だっただろうか。
シュレイヤの腕を自分の目で見て、同志となりうると判断した。
それはいい。
年が十二だと聞いた時も少し迷ったが、実は女の子であると知り、その迷いは大きくなっている。
「ルトさん、こんにちは」
通りを行く人々に果物を売る少女が、ルトに声をかけてきた。
年齢は確かシュレイヤと同じ十二。
愛嬌のあるそばかすが散っている顔に、無邪気な笑顔が浮かんでいる。
「果物、いりませんか? ルトさんだったら、おまけしちゃうから」
彼女の持っている籠(かご)には、今朝ルトが食べた果実が山盛りに入っている。
あの酸っぱさを思い出して、ルトは断った。
「いや、遠慮するよ。また今度ね」
「そう・・・残念。あ、お兄さん! 果物いりませんか!」
少女は新たなる客をつかまえて、果実を熱心に売り込む。
そのたくましい小さな商売人の後姿に、ルトは東の未来を思った。
そして迷いを自らの胸の奥へとしまい込む。
今は腕の立つ同志が一人でも多く必要だ。
シュレイヤはきっと東の未来を担う、礎(いしずえ)の一人となることだろう。
不安定な情勢でも、東のこの街は活気に溢れている。
それを守るのだと決めたのは自分自身だ。
迷っている暇などない。
ルトはふと立ち止まり、空を見上げた。

「あぁ、今日もいい天気だなぁ」

果てしなく続く東の空は、見事な青空が広がっていた。

 

 

4.

 ルトが出て行った後、ザップは食後の一服に、煙草に火をつける。

物量の不足しがちな東において、煙草は割と高級品である。

ザップとてそう金を持っているわけでもないので、一息吸ったら火をもみ消し、

そしてまた吸いたい時にその煙草に火をつける、という涙ぐましい倹約生活を送っている。

深く吸い込んで吐き出された紫煙は、見事な輪を描いた。

ザップはそれを見て、満足気に笑う。

身長は二メートルを越え、浅黒い肌にスキンヘッド、筋骨隆々のマッチョメン。

そんな泣く子が見たら、更に大泣きしそうなザップは、こう見えて結構迷信深い。

というか、縁起をかつぐ方である。

そして彼は何故か「朝の一服の煙が真円を描けば、その日一日良いことがある」と信じているのだ。

その他にも、敷居は絶対に踏まないだとか、夜に口笛を吹かないなど、有名どころも信じている。

しかし、シュレイヤはそんな事情は知らないので、満足気に笑うザップに首を傾げた。

彼女の目には、ザップが獰猛(どうもう)な笑みを浮かべているようにしか見えなかったからだ。

外見で損をしている男である。

「ところで、だ」

ザップは火をもみ消した煙草を、丁寧に懐にしまう。

「今日はどこへ行くのか、決まっているか?」

「いいや」

この店自慢の絞りたて山羊の乳をのどに流し込みながら、シュレイヤは短く答える。

正直この街の地理はまだよくわからない。

だからこそ見て回るのだから。

「それなら、西の地区へ一度行ってみるといい」

「西?」

「あぁ、市にはもう行ったんだろ?」

シュレイヤが頷く。

「エゼルドに案内してもらった」

「そうか」

ザップが懐からいくつも折りたたまれた紙を取り出した。

広げるとそれはどうやら、この街の地図のようである。

ザップはその地図を指差しながら、説明を始めた。

「いいか、この街は大雑把に言えば、四つの地区に分かれている。

ま、きっちり住み分けしているっつうワケでもねぇ。そういう傾向にあるってだけだがな。

まず東には市や歓楽街、今俺たちがいるのもこの地区だな。

そして南には高級住宅街、つまり金持ちや亡命してきた王侯貴族なんかが住んでるところだ。

北は貧民街。物騒な連中もここにすくってやがるから気をつけろ。

そして、西は俗に宗教街と呼ばれている」

「宗教街?」

「あぁそうだ」

ザップは地図の左側を指差した。

「東は西から来た連中の寄せ集めみてぇなもんだからな。いろいろな信仰がある。

一神教、多神教、いろいろだ。西で大手の宗教に負けて東へ逃れてきたものもある。

東ではどんな神を崇めるのも自由だからな。
で、この街ではそういうのが西側にまとまっとるというわけだ」

シュレイヤはそのザップの説明に疑問を抱いた。

「けど、そんないろんな宗教が一所に集まっていて、問題はないのか?」

宗教は争いの火種になる。

過去、宗教が問題で起こった戦の例は、枚挙にいとまがない。

シュレイヤは父からそう教わった。

ザップがにやりと笑う。

「いい質問だ。確かにまったくもめごとがないとは言えねぇな。

だが大きなもめごとは今のところ起こっていない。

何故なら街に大きな損害を与え得ると判断されたモンは、この街から叩き出される。
それがこの街の掟だ」

「でも」

まだ言い足りなさそうなシュレイヤを制して、ザップは地図を懐にしまう。

「後は自分の目で見て考えな」

あっさりとそう言って、ミシッと嫌な音を立てる椅子から立ち上がる。

長身のザップが立つと、座っているシュレイヤは反り返るようにして見上げるしかない。

不満気な顔をするシュレイヤの頭を乱暴になでて、ザップは彼女に背を向けた。

「じゃあな」

にらむシュレイヤの視線を背中で悠々と受け流し、出口へと向かう。

隙のない足運びだ。

しかしそれが、出口の前でやや乱れた。

わざと歩幅を変えたようだ。

その不自然さの理由を知らないシュレイヤは、首をひねるしかない。

そこにルトかエゼルドがいたら、きっと笑いをこらえながら、こう言ったことだろう。

「あいつは、敷居を踏むと天地がひっくり返ると思ってるんだよ」

 

 

男ザップ、三十五歳独身。

彼はその男気溢れる外見とは裏腹に、結構気にしいさんであった。

 

 

5.

「これは・・・」
すさまじいな、という言葉をシュレイヤは飲み込んだ。
口に出さなかったのは、圧倒されたからだ。
テライセンの西地区、別名宗教街。
その大通りは、またの名を「神様通り」という。
あちらに豊穣の女神を祭った社があれば、そちらに炎の軍神を祭った宮があり、

こちらに光母神の教会がある。
つまりは、ごちゃまぜだ。
この決して広大とは言えぬ街の一角に、これだけの信仰が集まっているのは、一種異様な光景と言える。
けれど、それは嫌な雰囲気ではなく、むしろ活気に溢れていた。
社や宮や教会の間には、出店が軒を連ね、市にも負けないくらい賑やかである。
「人が集まる所があれば、必ず金が動く」
シュレイヤは不屈の商売人魂を見た気がした。
シュレイヤは別に特別これといった信仰を持っているわけではない。
だからといって、無神論者というわけでもない。
自然の中になんとなく”いる”ような気はする。
しかし、多くの教義で説くような、形の決まった神というのが、どうもしっくりとこないのだ。
けれど、多くの神が混在する神様通りを歩きながら、こういうのもいいかもしれない、と思った。
そして、この宗教街が上手く行っている理由が、少しだけ分かったような気がした。
水神を崇める魚屋の女将が、学問の神の信者の貸し本屋の女将と、談笑しながら歩いている。
雷神の洗礼を受けた子供が、運命の三女神の守り袋を首からさげた子供と駆け回っている。
とても平凡で、平和な光景。
なんとなく、このテライセンという街の、
否、ここでたくましく生きる人たちの本質を見たような気がした。


人の波をかいくぐり、多くの神々をながめながら、

シュレイヤはとうとう神様通りの終点までやってきていた。
これからどうしようかと首をめぐらすと、少し奥まった所に、

打ち捨てられたような社がひっそりと建っているのに気がつく。
人で溢れかえっている雑踏の中で、何故かそこだけ、ぽっかりと穴が開いたように静かだった。
社は確かにそこに建っているのに、人々の侵入をを拒絶しているかのようだ。
道行く人はまるでその社の存在に気付かないように、その社の右隣の宮から、左隣の教会へと目を移す。
しかし、シュレイヤはこの社から目が離せない。
(不思議な社だ。ここはどんな神様を祀(まつ)っているんだろう?)
好奇心にかられたシュレイヤは、社の前で立ち止まった。

人を拒む冷たい静寂。
そのわけを知りたいと思った。
本能は関わるなと警笛を鳴らす。
道行く人たちは、その警告に従いこの社を知覚していないのだろう。
目に写ってはいても、”そこにあると認識していない”。
今までのシュレイヤだったら、無視して通り過ぎただろう。
危険なことにわざわざ首を突っ込むことはない。
だが、今のシュレイヤの心ははやっていた。
まだ十二、もう十二。
その微妙な心は、ルトやザップ、エゼルドといった自分では敵わない相手と出会い、
知らず知らずのうちに、もっと早く大人に、もっと早く強くなって認めてもらいたい、
と願うようになっていた。
だからこそ、迷い、動けない。
異質な空間に足を踏み入れることも、無視して通り過ぎることもできない。
この危険を乗り越えれば大人なのか、それとも近づかないのが大人なのか、シュレイヤにはわからない。
何故なら、シュレイヤはそのことを自覚していなかったから。
大人だとか強さだか、こだわったことがなかったから。
だから、わからない。
一体、どれだけそこに立ち尽くしていただろうか。
今まで頑(かたく)なに人を拒み閉じていた社の戸が、音もなく開いた。
そこから中を伺い知ることはできない。
昼間だというのに、社の中は闇が満ちていた。
(これは・・・私に入れと言っているのか?)
シュレイヤはごくりと唾を飲み込む。
本能は再三警告を発し、心臓は早鐘をつくようにうるさい。

入るべきか、入らざるべきか。

頭ではまだ問答が続いているというのに、シュレイヤの足はまるで吸い寄せられるかのように、

静寂への一歩を踏み出していた。

 

 

6・

 シュレイヤは扉の前で立ち止まり、社を見上げた。

木造の、質素な社だ。

他の社などに見られるシンボルマークなどもない。

それが社だと判るのは、建築様式が社のそれだからだ。

他にこれといった特徴のない平屋建て。

シュレイヤは開かれた扉を前に、そこからの一歩が踏み出せない。

扉の中は闇。陽の光は入り口辺りのわずかな床を照らすだけ。

躊躇(ちゅうちょ)するのには十分な理由だ。

しかし、いつまでもそこで立ち尽くしているわけにもいかない。

シュレイヤは意を決して、社の中へと足を踏み入れた。

すぅ。

急に扉からのわずかな陽光が消えた。

振り返り、音もなく扉がしまったのだと悟る。

シュレイヤは小さく舌打ちした。

せめて閉まらぬよう、扉に何かをはさんでおけばよかったのに、自分の迂闊(うかつ)さが腹立たしい。

双剣の柄に手をかけ、いつでも抜刀できるように構える。

扉を手を使わずに開閉するような相手に、剣が効くかどうかは判らないが、
自分には魔術の類は使えないし、最後に頼るのは己の腕だけだ。

暗闇の中では視覚はあてにできない。

頼るべきは、聴覚と気配。

カッ。

右から微かに足音がした。

研ぎ澄まされ、鋭敏になった感覚は、相手の動きを如実に捉える。

シュレイヤは柄に置いた手に、力を込めた。

そしてそのまま静かに後ずさる。

剣の鞘を払おうとしたその時、突如真後ろから声がした。

 

「ここは神聖なるところ、武器を収めなさい」

 

シュレイヤは動けなかった。

真っ直ぐ前を向いたまま、後ろを振り返れない。

確かに右の方から気配がした。

それなのにいつの間にか、背後をとられている。

しかも、声が聞こえるまでまったく気付かなかった。

女の声ようで、そうでないような、不思議な響き。

例えるなら、反響した音のように聞こえたが、この社は木造だ。

反響どころか、音を吸ってしまうだろう。

シュレイヤが動けずに固まっていると、急に視界が白に染まった。

眩しくてとっさに目をつむる。

どうやら、閉められていた窓の木戸が一斉に開けられたらしい。

何回も瞬きをしているうちに、目が慣れてくる。 

ぼやけていた人影が、次第に輪郭をハッキリとさせていく。

いつの間にか、今度は正面に移動していたらしい。

女だ。

たぶん、若い。おそらく二十前後だろう。

柔らかな黄金の髪。滑らかな象牙の肌。しかし何よりもシュレイヤの目をひいたのは、

どこか遠くを見ているような琥珀の瞳。

女はふわりと笑う。

その笑みは、まったく人の気配がしなかった。

神が人の姿をとると言うのならば、目の前のこの女こそが神ではないかとすら、思わせるほどに。

圧倒され、畏怖さえ覚えているシュレイヤに、女はあの不思議に響く声で、
静かに、そして唐突に告げた。

 

「あなたは、二人の王に出会うでしょう」

 

 

7.

 「二人の・・・王・・・?」

シュレイヤは目の前の女が何を言い出したのか、とっさに理解できなかった。

おうむ返しにつぶやいて、呆然と自分より背の低い女を見下ろす。

女はただ笑ってシュレイヤを見ていた。

シュレイヤは恐ろしいものを見るかのように、目を見開き、額には汗が浮かんでいる。

「あなたは・・・一体何者だ」

それでも動揺を悟られないように努力するが、口から出た声はかすれていた。

「私の名はリィレン。この<天津大神>の社の巫女であり、未来を”見る”者」

「あまつおおみかみ・・・?」

聞きなれない単語に、シュレイヤは首を傾げる。

「そう。私の一族が崇める神々の敬称」

そう言ってリィレンはすっと表情を消し、上を見上げた。

その視線の先には木で出来た天井があったが、彼女は更にその上を見ているようだった。

「私には”見える”。シュレイヤ、あなたはいずれ”選択”をすることになる。

<覇王>につくのか、<修羅王>につくのか」

リィレンはシュレイヤに視線を向けた。

シュレイヤの黒瑪瑙の瞳に、リィレンの琥珀の瞳が映る。

その色は、甘く、どこか悲しげな色。

「あなたは、いったい、どちらを選ぶのでしょうね?」

明るい光の中で、重たい沈黙が降りた。

シュレイヤはとにかく、この女が何を言っているのか分からなかった。

天津大神だとか、<覇王>だとか、選択するだとか、リィレンは一方的に告げるだけで、説明をしない。

それで理解しろというほうが無茶な話だ。

段々と腹が立ってきた。リィレンに特別な力があるのは確かだろうが、胡散臭いことこの上ない。

だからシュレイヤは吐き捨てるように言った。

「知るか、んなこと」

それを聞いたリィレンは、一瞬きょとんとした顔をして、次の瞬間、大爆笑した。

いきなり神々しい雰囲気をかなぐり捨てて大笑いしだしたリィレンに、シュレイヤは面食らう。

まるでいきなり人が変わった。否、人に戻ったようだ。

ひーひー言いながら笑い転げるリィレンを、シュレイヤは呆然と見下ろす。

(いったい全体、何なんだ。この人は・・・)

「いい。いいね、気に入ったわ。本当に面白い子ねぇ」

笑いすぎで目に涙をためながら、リィレンはシュレイヤを見上げた。

「さすが、ルトが連れてきただけのことはあるわ」

「ルトを知っているのか?」

「この街でルトを知らない者はいないと思うわよ? それこそ幼児からお年寄りまでね」

にこっと笑うその顔に、あの神々しさはかけらもない。

「でも、個人的にも知り合い。歓迎するわ、シュレイヤ。あたしたちの新しい仲間をね」

「と、いうことは・・・」

シュレイヤも段々事情が読めてきた。

ザップが宗教街に行くのを進めたのも、この社の扉がシュレイヤに開かれたのも、

そしてリィレンがシュレイヤの名前を知っていたのも、すべてリィレンがルトの仲間だったから。

「ま、そういうことよ」

悪戯が成功した子供のように笑うリィレンに、シュレイヤは脱力した。

(ルトの仲間って、もしかしなくても変わり者が多いんじゃないのか)

自分のことは棚に上げて、そんなことを思うシュレイヤだった。

 

 

8.

 重々しい雰囲気の執務室で、男がうずたかく積まれた書類に目を通していた。

紙上に並ぶ文字列に、男は眉間のしわを更に深くする。

彼の厳しい顔以外の表情を見た者は、ほとんどと言って良いほどいない。

年の頃は五十代の初め。精悍な顔立ちだが、疲労の色が濃い。

白髪混じりの髪は几帳面に撫でつけられ、一筋の乱れもなく整えられていた。

堂々と年代物の椅子に腰掛けている様は、正に王者と呼ぶに相応しい。

男は紙の束を机に置き、正面に立っている老人を見やる。

小柄な老人だ。顔はしわだらけで顔色も悪く、髪も随分と薄くなっているが、背筋はしゃんとしていた。

「貴公の提案はよう分かった」

「はっ、では?」

「だが、それとこの案を採るかどうかは別である」

男の声は厳しい。一瞬の沈黙の後、男は続ける。

「今、我が国は長年の戦で疲弊しておる。そのような余力はなきに等しい」

「今、この時だからでございます」

老人はしわと眉毛に埋もれた目で、しっかりと男の姿をとらえている。

「民は昔日の栄光と富を懐かしんでおります。それはいずれ、国に対する不満となりましょう。

なればその不満を外に向けてしまえばよいのです」

老人は言葉を切り、男の反応をうかがう。

男は黙って老人を見ていた。その眼光は常人であれば逃げ出しかねないほどに鋭いが、

老人はその視線を真っ向から受け止め、平然としている。

そして黙って男の言葉を待っていた。

代々の使用者がそうして来たように、男は机上で手を組み思案に沈んでいる。

「だが」

ややあって男が重い口を開いた。

「他の国々が黙ってはおらんだろうな」

「そのことにも解決策を考えてございますれば」

老人のしわだらけの顔に笑みが浮かぶ。予想通りの質問ということなのだろう。

男は厳しい顔のまま、先を促した。

「言うてみよ」

「同盟を組めばよろしいかと存じます」

「ほう、同盟とな。だが彼の国々の疲弊は我が国以上であろう」

「だからこそ、目の前の餌に夢中になりましょう」

「言い方は悪いが、その通りであろうな」

男は老人に気づかれないように、小さく息をついた。

老人と話している時にいつも感じる嫌悪感だ。

彼の政治能力は信用しているが、老人自身は信頼できない。

この案にも老人の性格が反映されているように思える。

有効な手であるが、好ましいものではない。

それに失敗した時の痛手は甚大だ。

採るべきか、採らざるべきか。

この国の存亡がかかっていることだ。軽々しくは決められない。

老人は答えを急かさなかった。

老人は知っている。男が迷っていることを。

この案を却下するつもりならば、即座にしていることだろう。そういう男だ。

 

 

短くない時間の沈黙の後、男は部屋の外で待機していた侍従を呼び、命じた。

「セレアーノ将軍をここへ」

老人は自分の案が通ったことを悟った。

「ご英断にございます。陛下」

「沈む時は貴公も道連れだ。宰相」

笑う宰相と苦虫を噛み潰したような国王。

<大陸>中を揺るがす”選択”がなされた瞬間だった。



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