レリィーエの額から、汗が一筋流れた。

1時間ほど前から必死に目を逸らさぬよう、笑わぬように腹に力を入れている為である。

目の前の人物は様々な面白い顔をして、レリィーエを笑わせようとする。

否、目の前の者を“人物”と称して良いものだろうか。

一般常識から言えば、鱗やえら、尾を持つものを“人”とは呼ばない。

彼はどこからどうみても半魚人である。

名をエンセという。

彼は冥界沼の主で、どうやらツキリアムの古い友人らしい。

いきなり現れた古い友人の無茶な頼みも、快く引き受けるくらい人がいい。

「この娘とにらめっこしてくれない〜?」

「精神修業の一環なの〜」

「いいよね〜?やってくれるよね〜?なんたって、わたしの頼みだもんね〜?」

例えツキリアムに顔を近づけられ、畳み掛けるように“お願い”されたからだとしても。

例えその様子が、傍から見ていたレリィーエには“お願い”ではなく、“脅迫”に見えたとしても。

例えエンセの表情の読み取り難い顔が、本来の緑色よりも真っ青に近かったとしても。

いい人だと言えるだろう。多分。

 

 

レリィーエは半魚人がいる事に驚かない。

魔術師なんて者がいるのだから、それくらいはいるだろうと思っている。

そんな事を考える暇もなく、にらめっこが始まったのだが。

そうでなくとも、訊いても仕方がないだろう。

理由はどうであれ、彼はここにいるのだから。

エンセは白目を向き、下唇を突き出し、特殊な耳をピクピクと動かしている。

それがまた最高に変な顔だ。

レリィーエの唇の端が震えた。

「ダメだよ〜。これくらいで笑ったら〜。平常心だよ、へ〜じょ〜し〜ん〜」

ツキリアムの容赦ない指摘が入った。

そのいつもの事ながらの間延びした喋り方が、堪えに堪えているレリィーエの癇に触る。

(いつもなら別に気にもしないのに、こういう時って変に気になんのよ)

ふいにエンセが顔を変えた。

口をすぼめて、目は寄り目。そのまま彼は踊りだした。

例えるなら阿波踊りのような踊りだ。

油断していたレリィーエは、小さく吹き出した。

「ぶっ」

ゴンッ

レリィーエの頭に、容赦なくツキリアムの杖が振り下ろされた。

ちなみにこの杖は、樹齢三千年を経て神化した大木の枝から削られたもので、魔力が込められている所為か、

とても固い。

レリィーエはツキリアムがこの杖で、固いリンゴを叩き潰した事があるのを知っている。

そんなものを人の頭に振り下ろされたらどうなるか、答えは明白である。

普通なら良くて脳震盪、悪くてあの世行きだ。

ただしレリィーエはあまり普通ではないので、痛がっただけだが。

 

 

頭を押さえて呻くレリィーエは、涙目で師を睨み付けた。

「何すんのよ、痛いじゃん!」

「あのね〜これはお遊びじゃないんだよ〜?修業なんだよ〜?真剣にやんなさいよ〜」

「これのどの辺が修業なの!にらめっこじゃん」

遊びじゃないのさ。とあっかんべをしたレリィーエに、またもや杖が振り下ろされるが、

「し、真剣白羽取り〜?!」

片膝をつき、両の手の平で杖を受け止めたレリィーエは、得意げに笑った。

「ふ、二度も同じ手を食らうあたしじゃないよ」

「く、小癪なぁ〜」

ツキリアムは杖を持つ腕に力を込めたまま、修業の説明をし出した。

「いい〜?魔術師たる者〜、常に平常心を失っちゃっ、ダメなのよ〜。っく。

魔術をコントロールするのには〜っ、感情のコントロールから始めなきゃなのよっ〜」

杖を挟んだ手の平に更に力を込めながら、レリィーエは反論した。

「なっんで、そこ、に、にらめっこがっ、関係あん、のよっ」

レリィーエも頑張っているが、情勢はツキリアムが押し気味だ。

じりじりと杖は高度を下げていく。

「あのね〜、考えてモノ、言いなさいな〜。どんなに可笑しい顔見ても平気でいられるようでなくっちゃ〜、

感情のっ〜、コントロールが出来てるってぇ、言わないでしょ〜?」

えいやっと最後の一押しで、勝利の女神はツキリアムに微笑んだ。

無意味な戦いだったが、勝てば気分が良いものである。

負ければ当然虚(むな)しい。

だが一番虚しいのは、誰も見ていないのに引き際が掴めずに踊り続けていた、半魚人の彼だろう。

 

 

「もういいゲラ。ワタシはもう知らないゲラ。ツキリさんがどうしてもっていうゲラから、

レイさんの修業のお手伝いをしたゲラが、ワタシを無視して遊んでいるような人にゲラ、

付き合う必要はないゲラね」

膝を抱え、完璧にいじけモードになっているエンセは、地面にのの字を書いた。

その鱗の背中には哀愁が漂っている。

「大体、百年ぶりゲラなのに、挨拶1つなしでというのがゲラ、信じられないゲラ」

「まぁま〜、いじけないでよ〜エンセ〜。悪かったと思ってるのよ〜?」

エンセに謝っているツキリアムだが、その顔を見るかぎり本気で謝っているとは思えない。

何せ目が笑っている。

全然悪いとは思っていなさそうだ。

それどころか、面白がっている節さえある。

「レイさんは謝ってもないゲラ」

恨みがましい目でエンセは言う。

ツキリアムは無理矢理レリィーエの頭を押さえつけ、地面に髪の毛がつきそうなほど下げさした。

「ほら〜、レイも悪かったってさ〜」

じたばたと抵抗するレリィーエに構いもせず、ツキリアムは適当なことを言う。

だがエンセはそれであっさりと機嫌を直した。

「仕方がないゲラね。今回は特別ゲラ」

普段は滅多に人に会うことのないエンセは、嘘を見破るのが上手くない。

つまり騙されやすいのだ。

(あー、騙されてる、騙されてるよ。そんなんで良いの?)

他人事ながら、余計な心配をしてしまうレリィーエだった。

 

 

その後、エンセが10回ほど顔を変え、4回ほどレリィーエが吹き出し、

3回ほどレリィーエとツキリアムの攻防戦が続き、2回ほどエンセが拗ねた時、

太陽がゆっくりと山の向こうに姿を消した。

冥界沼の辺りは暗くなると、なんとも不気味な所となる。

木は枯れ木が数本立っているだけ、草は所々にちょこちょこと生えているだけだ。

冥界沼という名前も伊達ではない。

地元の人間は昼間でもここには近づかない。

冥界沼というのは、この辺りの沼の総称だが、その沼の多くは底なし。

一度はまったら、はいそれまでよ、な沼なのだ。

「もう終わりにするゲラ、真っ暗になってしまったゲラ。怖いゲラ」

最初に終わりにしようと言ったのは、ここに住んでいるはずのエンセだった。

怯えた様子で、辺りをきょろきょろと見廻している。

「な〜に怯えてんの〜?エンセはここの主でしょ〜?」

「それがゲラ、最近別のヤツが住み着いたゲラよ。そいつがまた強いのゲラ。

ワタシじゃ勝てなくて、大人しく隠れているのゲラ」

今にも泣き出しそうな情けない顔で、エンセは言った。

ツキリアムは、あぁ、と納得した。

「エンセ、見かけ倒しだもんね〜。実はとぉっても弱いもんね〜?」

「そんなに弱いの?」

レリィーエが尋ねた。

そりゃあもう、とツキリアムはニヤっと笑い、ちらっとエンセの方に視線を向ける。

「わたしとの出会いから情けないもの〜。エンセったらね〜、近くの村から化け物をやっつけるんだって

やって来た子供の投げた石に当たって〜、痛い〜、痛い〜って泣いてたんだもの〜。

まぁ、エンセの姿見た子供も〜、泣いて逃げちゃったんだけどね〜」

レリィーエは、またいじけて体育座りをしている彼を、憐れに思った。

石をぶつけられて泣いた事ではない、今ここで昔の恥を暴露されている事についてだ。

どんなにエンセが情けなかったか語るツキリアムの顔は、とても活き活きしていた。

心底楽しそうである。

「こうね〜、ぎょろっとした目してるでしょ〜?その目が真っ赤でね〜、鼻水だらだらでね〜。

鱗がビミョ〜に逆立っちゃって〜、ふふふ〜。思い出すだけで笑える〜」

あはははは〜と腹を抱えて大笑いしている。

 

 

そんな師の様子を呆れた顔で眺めていたレリィーエは、この場に似つかわしくない匂いが、

鼻をつく事に気が付いた。

この内陸では、決して嗅ぐ事のない匂いだ。

懐かしい潮の香り。

(潮風がここまで届く事など、あり得ない。じゃあ何?)

辺りを見廻すが、暗くて視界が利かない。

レリィーエはまだ笑い転げているツキリアムを蹴っ飛ばした。

「何すんの〜」

「何すんのも何もないよ。潮の香りがするの」

鼻をヒクヒクさせたツキリアムは、頷いた。

「ホントだわ〜。あ、何かタコ食べたくなってきちゃった〜」

「緊張感ないな、タコはあんたよ」

暢気に海の幸が食べたいとぬかしているツキリアムの横で、

こっそりと逃げ出そうとしている影の首根っこを、レリィーエは捕まえた。

「はっ、離してゲラ。奴が来るゲラ、死にたくないゲラ。ワタシは逃げるゲラよ」

「ゲラゲラ五月蝿いよ、両生類が!奴ってのは、あんたを追い出した奴?」

「そうゲラ。で、両生類って何ゲラ?」

レリィーエはエンセの問いを、軽く無視した。

「聞いてた?」

「聞いてた〜聞いてたよ〜。まぁエンセにはお世話になったし〜、そいつをイッチョやっつけちゃお〜」

バキボキと指を鳴らして、ツキリアムは口の両端を吊り上げた。

 

 

「誰をやっつけルって、人間ごときガ」

沼から現れたモノは巨大だったが、どこからどうみても頭足綱八腕目の軟体動物だった。

つまり蛸(たこ)だ。

レリィーエはツキリアムの口から、ヨダレが出ている事に気が付いた。




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