朝日が差し、鳥たちも活動を始めた頃、1つの人影が湖に近づいてきた。

その手には桶があり、水を汲みに来たのだと分かる。

「ったく、水汲みって重労働なんだから、何で井戸がないんだろうね」

グチグチとぼやきながら、レリィーエは桶を水面に沈めた。

よいっしょという掛け声と共に、取っ手を引っ張る。

そのまま、えっちらおっちら進むのかと思いきや、水の重さをまったく感じさせない足取りで、

すたすたと歩いていった。

森の最深部にあるツキリアムの小屋は、一見、今にも崩れ落ちそうな廃虚に見えるが、

中は小奇麗にまとめられており、外見より広い。

おそらく何かの魔術が掛かっているのだろう、とレリィーエは思う。

扉ひとつをとっても、外から見れば薄っぺらな木切れだが、中から見ると真新しく立派なものである。

レリィーエはその扉を素通りし、裏手へと回った。

そこには台所の勝手口があり、レリィーエは水汲みの後、いつもそこから入るようにしている。

正面から入って部屋を突っ切って行くと、水がこぼれてしまったら拭くのが面倒だからだ。

汲んできた水を、台所の隅にある瓶(かめ)に移し、次の作業へと移る。

朝の仕事はまだまだ沢山あるのだ。

もたもたしていては、朝の仕事を片付けるのに、昼までかかってしまう。

昼には修業があるのだから、そういう訳にもいかない。

鍋に湯を沸かし、朝食の準備を始める。

湯を沸かしている間に小屋の裏手の菜園で、新鮮な野菜を収穫する。

(それにしても旬を無視してるわ。どうして大根とナスと白菜が一緒くたにあるのさ)

そんな事を考えながらも、籠に今日使う分の野菜を入れ、ついでにデザートの苺も摘む。

しかもパンを焼き過ぎないように、さっさと戻らなければならない。

 

 

2人分の朝食(通常の4人前)を用意し終わると、レリィーエにはツキリアムを起こすという、

朝の仕事の最難関が待ち受けている。

ツキリアムの寝起きは非常に悪い。

たとえベッドから蹴落とされようが、槍が降ろうが、象が暴れようが、起きない時はとことん起きない。

しかも寝ぼけて魔術を使う事もあるため、性質が悪い。

レリィーエはツキリアムに弟子入りしてから今日までの2ヶ月で、4回吹っ飛ばされて壁に激突し、

2回転移で湖に落とされ溺れかけ、5回大嫌いな犬に噛まれた。

ツキリアムに殺意を抱いた事も、1度や2度ではない。

ただでさえ大嫌いな犬が、悪魔よりも嫌いになった。

今ここにレリィーエが生きて立っているのも、ひとえにレリィーエが健康で、ずば抜けた精神力と生命力を持っていたからである。

並みの人間なら、精神科医に通いつめるか、寝たきりになるか、この世にいないかのどれかだろう。

しかしどんな酷い目に遭おうと、ツキリアムを起こすという仕事はなくなりはしない。

そこで最近、レリィーエは姑息な手段に出始めた。

ツキリアムの耳元で、こっそり囁くのである。

「ぶ〜〜ん、ピタ。ぶ〜ん、ぶんぶんぶんぶぶ〜ん」

蚊の飛ぶ音。

寝覚めとしては最悪の部類に入るだろう。

されたら嫌なことランキングの上位に入ること間違いなしだ。

うんうんと苦しそうに唸るツキリアムの耳元で、なおもレリィーエは囁く。

聞こえるか聞こえないかのギリギリの音量で。

「ぶ〜ん。ぶ〜〜〜〜ん。ぶ」

「嫌あぁぁぁぁ〜!!」

ぜいぜいと荒い息をして飛び起きたツキリアムに、レリィーエは涼しい顔で朝の挨拶をした。

「おはよう、ツキリ。ご機嫌いかが?」

「最悪〜。に決まってるでしょ〜。それだけは止めてって言ってるのに〜」

ツキリアムは弟子を睨みつけ、頬を膨らます。

「起きないそっちが悪い。大体、あたしは毎度死にかけてんだよ? 
これくらいどうって事ないでしょうが」

「それでも蚊の飛ぶ音だけは嫌〜」

「だったら明日からは、蝿(ハエ)の飛ぶ音にするから。」

「何にも変わらない〜!!」

これが朝の恒例漫才である。

観客がいたら、大いにウケるだろう。

儲かるかも知れない。

 

 

さてツキリアムが起きたところで、2人は食卓につく。

レリィーエの前に1人前、ツキリアムの前には3人前だ。

メニューはパンにあっさりとした野菜スープ、近くで放牧してある山羊の乳。

それとデザートの苺。

それぞれが1対3の割合で配膳されている。

「その細っこい体の何処に、その量が入るんだかね」

いつもの事ながら、いい食べっぷりのツキリアムを見ながら、レリィーエはスープをすする。

その問い掛けにツキリアムはパンを千切り、口に放り込みながら答えた。

「魔術師はぁ、体力付けないとね〜。もぐもぐ、ふぐおなふぁふくのよ〜」

「口にもの入れた時は喋んないでよ」

眉をひそめるレリィーエに、気にしない気にしないと言って、ツキリアムはスープに手を伸ばす。

「大体〜、魔術師は体が資本だからね〜。しっかり食べて〜、しっかりと体作っておかなきゃだよ〜」

「あんたの燃費が悪いだけじゃないの?」

「うわぁ、師匠に向かってそんな暴言吐く〜?」

そんな軽口を言い合いながらも、2人は同時に朝食を終えた。

つまりツキリアムが、普通の3倍速で食べている計算になる。

食器を片すのは個人。

洗うのはもちろんレリィーエの仕事だ。

 

 

食後の一服とばかりに、ツキリアムは東洋で栽培されているという緑茶を飲んでいた。

緑茶は以前、旅の商隊から、何だか判らない薬草として購入したものだ。

調べた結果、お茶の一種だということが判り、飲んでみた所好みだったので、栽培し愛飲している。

ツキリアムは飲みながら、皿洗いしている弟子の背中を眺めた。

(正直2ヶ月も持つとは思わなかったのよね〜。小さい頃から変わり者だとは思っていたけれどさ〜。

最初は料理も不味くて〜、全然ダメだったのに〜。人は成長するもんね〜。

さて。そろそろ次の段階に進んでもいいかな〜?)

この2ヶ月間は毎日走り込みやら、水泳やら、およそ魔術師の修業とは関係なさそうな

修業ばかりをやってきた。

それでもレリィーエは、文句は言ったが弱音は決して吐かなかった。

大人の男でさえ音を上げそうな修業を耐え抜いた事は、ツキリアムも十分に評価している。

魔術はただ呪文を唱えれば使える、というような代物ではない。

普通は理論を学び、下積みを重ね、実践を通して、少しずつ身に付けていくものだ。

そして意外に知られていないが、非常に体力がいる。

魔力を練り上げ、呪文により術を発動させる訳だが、魔力を練り上げるのに体力を消費するのだ。

魔術師はそこら辺の兵士などより、よっぽど鍛えられた身体をしていた。

レリィーエは魔術師の第一条件である体力を、元よりクリアしていた、ずば抜けた体力の持ち主だ。

それでも2ヶ月前とは、見違えるようになったと言える。

ツキリアムは、普通の段階を踏むことを考えていない。

彼女も異色の経歴を持った魔術師だからだ。

師の教えは“身に染み付くほど繰り返せ”と“死ぬ気でやれ、むしろ一遍死んでこい”だけ。

そう言えば、今頃師はどうしているだろうと、ツキリアムは物思いにふけっていたが、

レリィーエの声で現実に引き戻された。

 

 

「ツキリ、皿洗い終わったよ。今日も走り込み?」

手を前掛けで拭いながら、レリィーエはツキリアムの前に立った。

「ん〜ん。今日から次に移ろうかな〜って思ってるんだけど〜」

その言葉でレリィーエの顔に、喜色が浮かぶ。

正直飽き飽きしてきた所らしい。

彼女は意気込んで、何の修業かと尋ねた。

「あのね〜、もしかしたら死ぬかもしんないけど〜、あんただったら大丈夫だよ〜多分。

それさえクリアしたら魔術師になれたも同〜然。生きてたらね〜」

「ちょっと、多分とか生きてたらとかって何? そんなに危険な訳?」

レリィーエは少し怯んだ。

しかし次の瞬間には怯んだことを恥じ、不敵な笑みを浮かべる。

「やってやろうじゃないの! あたしに不可能なことなんてないのよ!」

ツキリアムはそんな弟子に満足そうに頷き、修業内容を朗らかに告げた。

「次の修業は〜、にらめっこで〜す」

 

 

次の瞬間、レリィーエの見事なアッパーカットが発動した。



師匠と弟子と半魚人(1)に戻る 表紙に戻る 師匠と弟子と半魚人(3)に進む