混沌なき箱庭 6‐9

混沌なき箱庭 6‐9

 食堂内は酷い有様だった。
十人掛けの長机が四つ配置された室内は椅子が倒れ、食器の残骸が散らばり、その上に乗っていた料理も床にぶちまけられていた。
壁際には騒動前に食事をしていたのだろう団員たちが、手々に自身の朝食を確保して避難している。
そんな異様な光景の中、動いている影は二つ。
「待ちなっ、この唐変木! いい加減に白状しろ!」
「だぁーっかっらっ、知らねぇっつってんだろうがっ!」
鬼のような形相をした中年女性が手当たり次第に机の上にあるものを投げつけ、タイロンは床の障害物を軽々と飛び越えながら、それらを避けていた。
この状態を生み出したのは、間違いなくこの二人だろう。
葉月はこの惨状を見て、彼女にしては珍しくあからさまに眉をしかめた。
食べ物を粗末にしていることもそうだが、その苛立ちは逃げ惑うタイロンと手を出さずに傍観している他の団員たちに向けられていた。
「どちら様ですか、あの女性は。タイロンが尻尾を巻くほど強そうには見えませんけど」
見知らぬ中年女性を半眼で睨みつつ、葉月は隣に立つミケーレに尋ねる。
ミケーレは残念ながらそれに対する答えを持っていなかった。
困ったように眉を下げながら、首を傾げる。
「さぁ? この辺りでは見ぃひんお人ですけど」
二人して訝(いぶ)しがっていると、答えは葉月の後ろから返ってきた。
「<リスティアータ>の女将だな、ありゃ」
眠たげな目をしつつぼりぼり無精ひげをかきながら中を覗き込んでいるのは、実行部第二隊所属のキーファンだ。
葉月とはあの街道で一緒に盗賊どもと戦った仲である。
キーファンはふぁあと気の抜けたあくび混じりで、
「まーた、厄介なのが来てら」
とつぶやいた。
「<リスティアータ>……ですか?」
葉月が目をぱちくりしながら振り返る。
鸚鵡返(おうむがえ)しの問いに対して、キーファンはにやっと粗野な笑みを浮かべた。
「おう。花水亭<リスティアータ>、春をひさぐ女神たちの店だぜ」
「あぁ、娼館ですか。でも何で娼館の女将がタイロンを追っかけ回しているんでしょう」
葉月があっさり中年女性に目を戻したので、キーファンは鼻白んだようだった。
おいおい、と嗜(たしな)めるように首を振る。
「嬢、俺がせっかく遠回しに言ったっつーのに、女の子が娼館なんて言っちゃあいけねぇよ」
「ご忠告ありがとうございます。そうですね。男性の幻想を壊さないように気をつけます」
鼻で笑いこそしなかったが、葉月は中年女性に視線を向けたままキーファンの小言を受け流す。
その物言いに、今度はキーファンが目を瞬かせた。
ミケーレはくつくつ笑いながら、そんなキーファンの肩をぽんっと叩く。
「嬢(いと)はんにそないなこと言わはったって無駄やと思いますよ。親分に女らしゅうせい言わはるよなもんです。ま、表面取り繕うだけマシでっしゃろ」
「そりゃ無駄だな」
ミケーレの言葉を受けたキーファンがしっかり頷く。
葉月は微妙そうな顔をしつつ、隣に移動してきたキーファンを横目で見上げた。
「そういう納得はされたくないんですけど……それより、あの女将が厄介っていうのはどういうことですか?」
「あぁ、あの女将な、癇癪持ちで有名なんだよ。余所の女将と取っ組み合いの喧嘩してた時、仲裁に入った男に胸触られただのケツ触られただの難癖つけやがった上、押し倒されると思って怖かったとか周囲に吹聴しやがったんだ」
女将の評判は元々最悪だが、仲裁した男も悪趣味だのなんだの、根も葉もない噂のせいで酷い目にあったらしい。
「あぁ、それで皆さん尻込みしてはるんですね」
「だろうよ。あのババァ相手にそんな噂立てられたら恥もいいとこだぜ。ついでにこの床じゃあな。怪我でもさせた日にゃ、それこそ慰謝料だのなんだのでケツの毛まで毟(むし)り取られるだろうさ」
キーファンはそう言って、足下に転がっていた陶器の破片を軽く蹴り、肩をすくめて見せた。
ミケーレも、
「何があったかは分かりまへんけど、タイロンも災難やなぁ」
と、生温かい視線をタイロンに送っている。
男二人は完全に傍観モードだった。
葉月は手に持った手拭いを玩(もてあそ)びながら、どう動くべきか思案する。
両隣の男どもに動く気がないのは確かだ。
葉月の今の身分は、下働きである。
団員たちを差し置いて出しゃばるのは、まずい。
せっかく同情を得られているのに、それを台無しにしたくなかった。
不安定な身の上だ。
どうしても保身を考えないわけにはいかない。
だが、タイロンと女将の間に何があったにしろ、食堂で暴れられては困る。
止めなければ話も聞けないだろう。
そして何より、葉月は空腹だった。
さて、出しゃばってると思われずに止めるにはどうするか。
葉月があれこれ考え始めたその時、炊事場に繋がる扉がバァンと勢いよく開かれた。
そこから出てきたのは、額に青筋を浮かべた五十代前半くらいの女性だった。



炊事場から出てきた女性は、がっちりした体格を割烹着に似た服で包んでいる。
彼女が使用人頭も兼任する料理人のマルゴだ。
あまりの騒がしさに様子を見に出て来たマルゴは、自分の城の惨状に目を剥いた。
「なんだい! この有様は!」
「げっ、おばちゃん!」
マルゴに睨みつけられたタイロンは、しまったという顔で立ち止まった。
料理の腕も面倒見も良いマルゴは<テーラン>の団員たちから母親のように慕われており、親しみを込めて『おばちゃん』と呼ばれている。
猛虎と恐れられるタイロンも、マルゴの前ではいたずらを見つけられた悪ガキのようだ。
しかしそんなマルゴの効力も、部外者の女将には通じなかった。
女将は好機とばかりに、足を止めたタイロンに水差しを投げつける。
「おわっ」
タイロンが体を捻って避けると、床に落ちた水差しは高い音を立てて砕け散った。
「なんで避けるんだ!」
「避けるに決まってるっつーの!」
再び始まった追いかけっこに、マルゴの眉間に青筋が浮かぶ。
「いい加減におし! いい歳こいてみっともない!」
マルゴが声を荒げて制するも、女将は足を止めず嘲(あざけ)り混じりに怒鳴り返した。
「うっさいババァだね! 引っ込んでな!」
「な、何だって!」
マルゴはわなわなと震える指を女将に向けて、事態を傍観している団員たちに向かい声を張り上げる。
「大の男が揃って壁の華気取りかい! 何でさっさとこの女を取り押さえないのさ!」
しかし返ってきたのは団員たちの困惑の視線と、女将のヒステリックな声だった。
「わたしに指一本でも触れてごらん! 痴漢として訴えてやるからね!」
「まぁ〜っ、ずうずうしい女だね! 葉月!」
「はいっ」
名を呼ばれた葉月の背筋がピンと伸びる。
海千山千の団員たちを叱り飛ばすマルゴには、葉月も頭が上がらない。
<テーラン>に拾われてからの二月の間、こちらの知識を持たずに失敗続きだった葉月にあれこれ教えてくれたのは、このマルゴだった。
ブノワの娘であると公表され、見習いとして副長直属に配属になった後も、なにかと気にかけてくれている。
葉月にとっても、マルゴは第二の母のような存在だ。
葉月はマルゴに手招きされ、駆け足で近寄った。
「あたしじゃ上手いこと止められそうにない。悪いけど、あれを止められるかい?」
マルゴは葉月の右肩に手を置きながら、少女の灰青の瞳と目を合わせる。
あれが厄介な女だということは、あのふてぶてしい態度を見れば一目瞭然だ。
だが、ここにいる男どもは腰抜けだし、自分では新たな火種にしかならないだろう。
幹部を呼んでくるにしてもその大半は男だし、首領のカーサは女性ではあるが、カーサを投入するのは燃え盛る炎に火薬を投げ込むようなものだ。
火は消えるかも知れないが、代わりに周りも全て吹き飛ぶ。
他の使用人たちにあの女を止めろというのも酷な話だ。
そういった訓練は受けてない。
マルゴとて、普通ならば十三の少女に喧嘩の仲裁など頼まない。
普通の少女なら、物が飛ぶ中に割り入るのも癇癪(かんしゃく)持ちの女と関わるのも恐ろしかろう。
だが、この子なら大丈夫だという確信が、マルゴにはあった。
果たして、少女はふわりと笑う。
「はい。おばちゃん。すぐに止めて来ますね」
まるでちょっとそこまでおつかいに行ってくるというような気軽さで、葉月は頷いたのだった。



“マルゴからのお願い”という大儀名分を手に入れた葉月は、すたすたと女将の方へ近づいていく。
ヒートアップした女将は、タイロンに椅子を投げつけようとしていたところだった。
机の上にあった物は、彼女自身があらかた投げてしまったからだ。
「危ないですよ」
葉月はそう言って、女将が思い切り振りかぶった椅子を後ろから引っ張った。
ぎゃあ、という悲鳴をあげて、女将がバランスを崩す。
女将はそのまま、葉月が用意した別の椅子に座り込んでしまった。
葉月は女将の手から椅子を取り上げて、正面へと回る。
そして心配そうな表情で、椅子に座わらせた女将を見下ろした。
「お怪我はありませんか?」
「何すんのさ!」
女将がキッと睨み上げる。
葉月はそれには頓着(とんちゃく)せず、おっとりとした笑みを浮かべて一人うなずいた。
「あぁ、お怪我はなさそうですね。良かった」
「人の話を聞け! 小娘が!」
女将は怒声をあげて立ち上がろうとしたが、葉月に額を押さえられて立ち上がることが出来なかった。
葉月は別に、力一杯に押しつけているわけではない。
右手の三本の指で、軽く額を押さえているだけだ。
それだけで立ち上がることが出来ないのは、人体構造上の問題である。
それを知らない女将は、うろたえた。
相手は自分の三分の一も生きてなさそうな小娘だ。
決して華奢ではないが、筋骨隆々なわけでもない。
それなのに易々(やすやす)と自分を押さえつけ、しかも場違いな程おっとりと笑って見下ろしてきている。
女将はその仕事柄、今まで多くの女を見てきた。
気が強いのも、根性がひん曲がっているのも、色々だ。
だが、こんな場面で怒るのではなく怯えるでもなく、笑っているような娘は初めてだった。
頭がおかしいのかと思ったが、一見柔らかい印象のたれ目と視線を合わせて、女将はびくり肩を震わせた。
柔らかく温かい笑みの中で、灰青の瞳だけが氷よりもなお冷たかった。
「落ち着いた所でお話を聞かせてくださいますか? もちろん、タイロンも一緒です」
あくまでも柔らかく丁寧な口調で葉月は問いかける。
それなのに、ぞわりとした寒気が這いあがってくるのはどういうことだろう。
こんな小娘相手に気圧されているというのか?
生き馬の目を抜く花街(かがい)でのし上がって来た自分が?
本能的な恐怖とプライドが綯(な)い交(ま)ぜになって黙りこむ女将に、葉月は目を細めて呼びかける。
「女将さん?」
「あ、あぁ、わかった。わかったよ。ちゃんと話す。話すから」
よく分からない恐怖にかられた女将が我に返ったのは、思わず了承の言葉を返した後だった。