混沌なき箱庭 6‐8

混沌なき箱庭 6‐8

 ピリピリとした空気が肌を撫ぜる。
<テーラン>本拠地の裏庭の一角にある鍛錬場で、葉月はごくりと生唾を飲み込んだ。
実際に押されているわけではないのに、気を抜くと後ろに倒れそうだった。
息を吸って吐く。
いつもは意識などしない当たり前のことが上手く出来ない。
相手に飲まれかけているのは明白だった。
落ち着け。落ち着け。
こういう時にどうするべきか、自分は知っているはずだ。
自分より格上が相手なら、相手の目はいっそのこと見ない方がいい。
相手の気迫をもろに受けて、動けなくなってしまうからだ。
どこか一箇所に集中するのではなく、相手全体を見る。
どちらかといえば、気配を感じると言った方がいいのだろうか。
実際に相手が動いてからでは遅い。
相手が動こうとする気配を感じ取り、最低でも同時に動き出さなければいけない。
コンマ何秒の遅れがいかに大きいか、嫌と言うほど身に染みて分かっていた。
あとは呼吸だ。
静かに息を吸って、ゆっくりと吐く。
静かに、ゆっくりと、周りの空気と同化するように。
自分の身体だけではなく、周囲の空間も己の知覚範囲に取り込むイメージを思い描く。
そうすることで感覚がどんどん研ぎ澄まされていく。
それと同時に、余計な物が削ぎ落とされていく。
耳に虫が止まっても、足下を木の実の殻が転がっていっても気にしない。
自分の害となるか否か。
今の判断基準は、それだけでいい。
「どうした、お嬢。目を開けたまんま寝てんのか?」
対峙している相手、タイロンが獰猛に笑う気配がした。
葉月はそれに微かな笑みを浮かべて返す。
「無闇やたらに突っ込んで行くのは趣味じゃありません。後の先を取るのが私の流儀なんですよ」
「ふぅん。そんじゃ、こっちから行くぜ!」
タイロンが動いたのは、威勢のいいかけ声を発する前だった。
その長身に似合わぬ速さで間合いを詰めてくる。
しかし、葉月とてそのまま呆然としていたわけではない。
タイロンが動くのと同時にあえて数歩前に出て、半円を描くようにするすると足を運ぶ。
葉月が避けた空間をタイロンの振るう剣が斬り裂いた。
刃は潰してあるものの、鋼鉄製の直剣だ。
そしてそれを振るうのは、戦闘面なら実行部の隊長格に勝るとも劣らないタイロンである。
であれば刃を潰してあることに何の意味もない。
直撃は死を意味する。
葉月は斜め後ろから、やや反りの入った片刃――こちらも刃は潰してあるが――の剣をすくい上げるようにタイロンの太股を狙った。
タイロンは狙われた脚を引き、葉月の剣を弾き飛ばそうと剣を薙(な)ぐ。
葉月はそれもするりと避けた。
一度動き出せば、頭で考えるよりも先に体が動く。
葉月は自分を鼓舞するようなかけ声は発しない。
ただ静かに、相手の死角に滑り込み、隙を狙う。
するり、するりと実体のない蜃気楼のように攻撃を避け、殺気も闘気もなく視界から消え去り、思いがけない所から剣を振るう。
タイロンは動きが派手で無駄が多く見えるが、大柄な体躯に似合わぬ柔軟さと野生に近い鋭い勘を持っている。
普通なら防げるはずのない隙を狙ったにも関わらず、でたらめに近い動きで防がれていた。
静と動。
対照的な闘い方をする二人の攻防はしばらく続いた。
動きがあったのは、鍛錬場に第三者が現れた時だ。
「まだやってはったんですか? はよせんと朝食食べそびれますよ」
「やっべ、もうそんな時間か! ミケーレ、教えてくれてありがとな!」
食堂に姿を見せない二人を心配して現れたのは、二人と同じ副長直属のミケーレだった。
タイロンはミケーレに礼を言うや否や、今までがよちよち歩きに思える速さで葉月との間合いを詰めてくる。
葉月はとっさに横に飛ぶことで攻撃を避けたが、余裕は一気に吹き飛んでいた。
顔には焦りの色が浮かび、呼吸にも足運びにも乱れが生じている。
なんて様だと思いながら、タイロンの攻撃を必死に避ける。
何せ、自分の命がかかっているのだ。
一瞬でも気を抜けば、間違いなく死ぬ。
必死にならないわけがない。
葉月は限界に近い速さでタイロンの剣を避け、相手の利き腕とは反対の右斜め後ろへと回り込む。
狙いは横腹。
行ける! と確信したその刹那、タイロンが剣を持つ手を入れ替え、葉月の肩口目掛け剣を振り下ろした。
完全に葉月に背を向けていたのに、何というでたらめな動きだ。
葉月は威力が下がることを承知で身を捻り、剣の軌道を変えた。
タイロンの剣が葉月の頭の、わずか十数センチ先をかすめていく。
すさまじい剣圧に耐えきれず、葉月は思わずたたらを踏んだ。
その隙を逃すタイロンではない。
しまったと思った時には、剣を持つ両手に強烈な痺れを感じ、鼻先に剣を突きつけられていた。



緊張の糸が切れたのだろう。
いつもの五感が戻ってきた。
遠くで弾き飛ばされた剣が落ちる音が聞こえる。
「ま、まいりました」
葉月はどっと吹き出た脂汗と荒い呼吸に喘ぎながら、両手を小さく上げた。
心臓がばくばくいっている。
本当に死ぬかと思った。
気を抜けばへたり込んでしまいそうだ。
「嬢(いと)はん、腕上げはりましたなぁ。でも最後はちぃっと油断しはりましたやろ? 自分の都合の良いように考えたらあきまへん」
ミケーレはいつものように柔和な笑みを浮かべながら、吹っ飛ばされた剣を拾って葉月に手渡す。
表情は優しいが、言っていることは結構辛辣だ。
それでも、その指摘は正しい。
葉月は礼を言って剣を受け取り、鞘へと収めた。
「途中でつい『行ける』と思ってしまったんです。慢心でした。相手はタイロンでしたのに……」
「相手は戦うこと以外残念な……間違ぉた、戦うことに関しては抜きん出ているタイロンですよって、負けてしまうんは仕方ありまへん。でもその負けから学べるかどうかは当人次第ですわ。まぁ、嬢はんやったらそない心配せんでもえぇ思いますけど」
「ありがとうございます、ミケーレさん。精進します」
「おい。今、さりげなく俺のこと馬鹿にしなかったか?」
タイロンがミケーレをじろりと睨んだが、睨まれた当人は涼しい顔だ。
「何言うてますの。褒めてますやん。なぁ、嬢はん?」
「ミケーレさんはタイロンはやっぱり強いと仰いたかったんですよ。ちょっとばかし辛辣に聞こえるのは、ミケーレさんの愛情表現でしょう。タイロンはミケーレさんに愛されてますね」
ミケーレに話を振られた葉月は、疲れていることもあって適当なことを言ってみた。
案の定、二人ともすごく嫌そうな顔をしている。
「やべ、さぶイボが……」
「ほんに嬢はんは口が達者過ぎや。せっかく教えに来たというんにこの仕打ちとはなぁ。喉も乾いてはるやろ思ぉて飲み物も用意しましたんに」
ミケーレがそう言って、足下に置いていた籠(かご)の中から竹筒のような物を取り出した。
この辺りでは外で飲み物を飲む為の容器として使われているものだ。
それを見た瞬間、今度は葉月とタイロンの顔がひきつった。
「まぁ、飲みなはれ」
ミケーレが満面の笑みで二人にその竹筒を渡そうとしたが、二人は断固として受け取ることを拒否した。
「いらねぇよ!」
「私も全力で遠慮させて頂きます」
「何ですのん、二人とも。人の好意を無駄にしたらあきまへんよ」
両手に竹筒を持ち、おおいに気分を害したと書かれた顔をしたミケーレが至極真っ当なことを言う。
タイロンはそれを無視して葉月が持つ剣を取り上げた。
「お嬢、俺が片付けとくから先に食堂行ってな」
「いえ、私が片付けます。そういうのは下っ端の仕事です」
「無理すんなって。さすがに今の殺り合いは疲れたろ? ちんたらしてたらホントに食いっぱぐれるからな」
にかっと笑って葉月の頭をわしゃわしゃ撫でるタイロンの手をまったくさりげなくなく外しながら、葉月は申し訳なさそうな笑みを浮かべた。
「すみません、タイロン。お願いします」
「おぉ。すぐに追いつくかんな」
タイロンはそう言って、さっさと納屋へと向かった。
葉月も鍛錬場脇の木に掛けておいた手拭いを取って食堂へと向かう。
二人にガン無視された形のミケーレは、籠に竹筒を戻しながら葉月の後を追ってきた。
「無視するなんて酷いやないですか」
葉月の隣に並んだミケーレが恨み言を言う。
確かにこのやり取りだけを見れば、葉月たちの方が恩知らずということになるだろう。
それでも葉月は嫌そうな表情(かお)を隠さず、ミケーレが持つ籠をちらりと見た。
「疲れ果てているうら若き少女に毒入りの飲み物を飲まそうって方が、よっぽど酷いと思いますけどね」
「嬢はん程“うら若き少女”いう形容が似合わん少女も珍しなぁ。なんでやろ? 年はそう言うてもかまへん頃のはずやのに……」
どうでも良い所で首を傾げるミケーレに、葉月は心の中で『まぁ、中身はアラサーですからねぇ』と相槌を打つ。
「というか、毒入りの所は否定しないんですね?」
葉月が横目で睨(ね)めつけると、ミケーレは相変わらず血色の悪い顔に柔和な笑みを浮かべて小首を傾げてみせる。
「死にはしまへんよ?」
「のたうち回るくらいはするでしょう?」
「後遺症も残らんよに計算尽くしてますやん。無味無臭で色やって綺麗なもんやのに……」
「そういう問題じゃありません。私に被虐(ひぎゃく)趣味はありませんし、ミケーレさんがやってることは犯罪です」
葉月は前を向いたまま、きっぱりと言い切る。
「いけずやなぁ」
苦笑を浮かべて取り敢えず引き下がることにしたらしいミケーレに、葉月はふぅっとわざとらしいため息をつく。
「他人に迷惑をかけるような趣味は止めてくださいね?」
「んー、善処しますわ」
まったくそう思ってない声だった。
葉月が続けて抗議しようとした所で、それを遮るようにミケーレが口を開いた。
「そぉ言えば嬢はん、闘い方変えましたやろ?」
誤魔化しにかかったな、と思いながら、葉月は「えぇ」と頷いた。
「物置の掃除をしていたら手頃な剣を発見したんです。あれは直剣よりも多少軽くて私向きかと思いまして。ちゃんと刃がついているものと模擬剣と、両方あったんですよ。あの剣に合わせた闘い方にしようと思ったら、あんな感じになりました」
前半は本当のことだが、最後は嘘である。
正確に言えば、変えたのではなく、元に戻したのだ。
直剣での闘い方は、筋力の少ない葉月には向いていないと見切りをつけた。
日本刀に似た剣を見つけられたのは、僥倖(ぎょうこう)だ。
師岡(もろおか)の剣術には表と裏があり、裏の方は所謂暗殺向きの技を主体とする。
元々は裏の方が主だったのだが、時代の変遷と共に宗家と極一部の高弟(こうてい)以外は学ぶことがなくなったのだという。
それはそうだろうと、葉月も思う。
表の方は武士道を取り入れ、礼を重視し、相手を制することを目的としており、活人剣の思想が根底に流れている。
それとは真逆の、いかに相手を殺すかを徹底的に昇華させた裏は、現代日本には必要のないものだ。
滅多な人間に教えれば、取り返しの付かないことになる。
葉月は曽祖父から、その裏の技を仕込まれていた。
「へぇ。それにしては、扱い慣れてるよに思いましたけどなぁ」
ミケーレの探るような眼差しに、葉月はおっとりとした笑みを浮かべて返した。
「よほど相性が良いんでしょう」
「まぁ、そういうことにしときましょか。確かに真っ当な闘い方より嬢はんには合ってるよですし。陰湿で陰険な感じが嬢はんらしゅうてえぇ思いますよ」
「それ、褒めてないですよね?」
葉月が恨めしげな顔でミケーレを見ると、ミケーレはふにゃりとした笑みを浮かべた。
「おや? これが私の愛情表現や言うたんは嬢はんやないですか」
根に持ってやがる、と葉月は舌打ちしたい気持ちを押さえ、ふわりと笑って頷いた。
「そうでしたね。ありがとうございます」
「いえいえ、どう致しまして」
ふにゃりとふわり。
二人とも穏やかに笑っているはずなのに、どこか寒々しい空気が流れる。
これでも二人は割と仲が良い。
ミケーレ自身も秘密の多い男である。
その所為か、他人の事情にも無闇矢鱈には踏み行って来ない。
その距離感が葉月には心地良かった。
これで他人に毒を飲ませてのたうち回る様に興奮するという悪癖さえなければなぁ、と思う葉月であった。



そうこうしている内に、食堂に着いてしまった。
立派な樫の扉に手をかけながら、葉月が後ろを振り返る。
「それにしてもタイロン、遅いですね」
「さいですねぇ。どないしはったんですやろ?」
二人で首を傾げながら、食堂の扉を開く。
途端、嫌な予感を感じ取った葉月とミケーレは同時にしゃがみ込んだ。
その頭上を白い何かが飛んで行き、廊下の壁に当たって粉々に砕け散る。
元は皿であったのだろう残骸から食堂内に視線を戻した葉月の目に映ったのは、何故か先に着いていたらしいタイロンと、そのタイロンに手当たり次第に食器を投げつける中年女性の姿だった。