混沌なき箱庭 6‐6

混沌なき箱庭 6‐6

 近所でも評判の菓子店や品揃えの良い台所用品店などが立ち並ぶ賑やかな通りがある。
その喧噪も届かない少し離れた薄暗い路地裏に、一人の少女がうずくまっていた。
濃い灰色の髪を結い上げた結び紐が緩み、何かに引っ掛けたのか左側だけがボサボサだ。
擦り切れた羽織の裾が土埃で汚れることも構わず、体育座りをした膝に顔を埋める。
嗚咽(おえつ)を押し殺しながら、少女は己の境遇を呪っていた。

なんで、お父さんはあたしを殴るんだろう。
なんで、お母さんはあたしを無視するんだろう。
なんで、お兄ちゃんはそんなあたしを見て笑うんだろう。
なんで、なんで、なんで、なんで?
あたしが貰われっ子なら、嫌だけど分からなくはない。
お兄ちゃんだけがお父さんとお母さんの子供なら、お兄ちゃんが愛されるのは仕方がないって諦められる。
でもお父さんは「俺の子なのになんでそんなに不細工で陰気なんだ!」って怒る。
あたしはお父さんの子だ。
お母さんは「あんたなんか産むんじゃなかった……」ってため息をつく。
あたしはお母さんの子だ。
お兄ちゃんと一緒。
あたしは、お父さんとお母さんの子なのに……。
いい子でいたら、お兄ちゃんみたいに偉いねって褒めてもらえるのかな。
美人になるのは無理だけど、いつも笑顔でいたらご飯を食べさせてもらえるのかな。
そう思って頑張ったけど、お父さんはへらへら笑いやがってって殴るし、お母さんが作るご飯にあたしの分はなかった。
もう嫌だ……。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。
痛いのもお腹が空くのも馬鹿にされるのも嫌だ。
何もかもが嫌だ。
髪の毛一本残さず、あっという間に消えてしまえたらいいのに……。

小さな声で「死んじゃいたい……」と呟いた少女の頭上から、優しく悲しげな声が降ってきた。
「そんな悲しいこと、言わないで」
誰かが近づいてきたことに気付かなかった少女は、肩を震わせ、驚いた顔で声の主を見上げた。
声の通り、優しそうな女性で、悲しそうな顔をしていた。
歳は若そうだが、もしかしたら印象よりもずっと上かも知れない。
年齢不詳。
そんな不思議な雰囲気を持っている。
一目で判る上物の羽織の裾が汚れるのも厭(いと)わず、女性は少女の前にしゃがみ込んだ。
そして、そっと腫れ上がった少女の右頬に手を伸ばす。
「可哀想に……。痛かったでしょう? あぁ、目も真っ赤。鼻水も出てるわ」
そう言いながら、女性は懐から出した手巾(ハンカチ)で少女の顔を拭う。
香を焚きしめてあるのだろう。
ふわりとしたいい香りがする。
少女はされるがまま、ぼんやりと女性を見上げた。
突然現れた女性に、何がなんだか分からない。
ただ、涙が溢れた。
「泣かないで。せっかくの可愛い顔が台なしだわ」
女性は優しく少女の頭を撫で、手巾で少女の目尻をそっと押さえる。
少女は涙が止まらなかった。
ずっと、こうしてもらいたかった。
頭を撫でて、優しい声をかけてもらいたかった。
「どうしたの?」って、気にかけてもらいたかった。
愛して、もらいたかった。
少女は泣きじゃくりながら、自分の境遇を語った。
辛くて、悲しくて、死んでしまいたくなったのだと。
女性は少女の話に優しく相槌を打ち、自身が泣きそうな顔をしながら、少女を抱きしめてくれた。
温かくて、柔らかくて、いい匂いがした。
ふわりとした甘い香り。
さっきの手巾と同じ香りだ。
少女は、この人がお母さんだったらどんなに幸せだっただろう、と思った。
だから、
「私と一緒に来る?」
と、女性が尋ねた時、少女は一も二もなく頷いたのだった。



人気のない薄暗い廊下を、葉月は早歩きで進む。
この辺りは団員たちはあまり寄りつかない。
本拠地の中でも下働きや庭師などの使用人の領域だ。
「よう、お嬢様」
それなのに、この辺りで聞くはずのない声に呼び止められ、葉月はその足を止めた。
出来れば聞こえなかったことにしたい。
ただでさえ、先の騒動で遅れているのだ。
これ以上の時間のロスは避けたい所である。
しかも、この人を小馬鹿にするような声には聞き覚えがあった。
葉月が<テーラン>の中で最も苦手とし、最も会いたくない男に違いない。
葉月はうんざりしながらしぶしぶ、しかし表面上はおっとりとした笑みを浮かべて振り返る。
「何かご用ですか、ケヴィン隊長」
そこには思った通り、ケヴィンがにやにや笑いながら立っていた。
小脇に駕籠(かご)を抱えたケヴィンは、葉月との間を詰めながら、獲物をいたぶる獣のように目を細める。
「久々の下働き生活はどーよ? 折角お嬢様に成れたってのになー。一月限りとはいえ、逆戻りはつらいんじゃねーの?」
愉悦に満ちた灰青の瞳に見下ろされ、葉月はこめかみがひきつるのを気合いで堪えた。
この男は無駄に顔が良いだけあって、そこら辺のチンピラに馬鹿にされるよりよっぽどムカつく。
おまけに顔と声の調子と目と身振り手振りと……、つまり全てでもって人を馬鹿にしてくるのである。
精神鍛錬はそれなりに積んできていると自負している葉月だったが、これほど人をムカつかせる才能にあふれた男が相手であると笑顔もひきつり気味だ。
ついでに質問に質問で返してくる輩も大嫌いである。
本当にとるに足らない者であれば存在自体を無視してやりたいところだ。
しかし、この男は性格は最悪だが、顔の他に頭と剣の腕も良い。
おまけに戦列の<テーラン>実行部第四隊長、幹部である。
無視するには分の悪い相手だ。
「まぁ、心配して下さってありがとうございます。でもあの失態の処分ですし、サラさんが実家に帰っている間だけ、新しい人を雇うよりは良いとお考えになったのでしょう? ならば粛々と勤めるだけです」
葉月は理性を総動員して、邪気のない笑みを浮かべる。
ケヴィンほど嫌みったらしく真っ正面から言ってくる輩はいないが、葉月のこの処分に関しては<テーラン>内でちょっとした物議を醸し出した。
先のおとり捜査で判断ミスにより犯人の一人を死なせてしまった葉月は、その罰として一月の間、再び下働きに戻ることになったのだが、この処分が重過ぎるのではないか、というものだ。
学問所に通うことは許されているとはいえ、タイロンとの朝稽古以外は団員としての活動及び扱いを禁じられ、寝起きするのも母屋ではなく、他の下働きと同じ北の離れの大部屋である。
これは謹慎よりも重い処分だった。
団員とその他の本拠地の屋敷で働く人々との間にはハッキリとした線が引かれており、一時的とはいえ下働きにさせられるということは団員にとってこの上ない屈辱だった。
失態を犯したとはいえ、そんな処分を副長の娘に課すとオズワルドが提案した時は「第三隊長は副長に喧嘩を売ってるんじゃないか」と言う者も現れた程だ。
ブノワは突然現れた娘を存外可愛がっており、髪飾りなどの小物をよく買い与えて娘本人から諭されることもあった。
そのような調子だったから、ブノワがこの処分を認めることはないと思われていたのである。
しかし、ブノワは大方の予想を裏切り、あっさりとこの処分を認めている。
ちょうど下働きの一人であるサラが姉の出産の手伝いの為、一月だけ実家に戻らせて欲しいと申し出てきていた。
屋敷で働く団員以外の人員については勘定部の管轄なのだが、一月の間だけ新しい者を雇うには費用が掛かり過ぎると勘定部長のジェイルが渋っていたことも理由の一つだろう。
<テーラン>もそれほど裕福ではないので、謹慎で人を遊ばせておく余裕はない。
葉月は以前、二月の間だけだが下働きをしていたので、新しく人を雇って一から教えるよりは役に立つだろう。
葉月は一日中働けるわけではないので、他の者の負担が増えるがそこはサラの分の給金で埋め合わせすることで話がついた。
オズワルドの提案は、一時的な穴埋めという意味で合理的で経済的な処分だった。



「それが強がりじゃねーのが可愛くねーよな、お嬢様は。あー、下働きの方が性に合ってるとか?」
「可愛さはここぞという時に使う為に出し惜しんでるんですよ。その方が希少価値がありますでしょう? あと私はサラさんの一時的な穴埋めですよ。サラさんの代わりになんてなれません」
下働きの方がいいならずっと下働きをしていれば? と揶揄するケヴィンに、葉月ははぐらかすようにズレた答えを返す。
葉月にとっても謹慎よりは下働きの方がいい。
何もしないでいるのは苦痛だし、情報を得づらいのも困る。
面子も大事だが、元々見習いのみそっかす扱い。
今は惜しむものでもない。
禊(みそ)ぎになると同時に、周りの同情心を買えるのも大きい。
今は面子より実利を優先させるべきだ。
が、ずっと下働きでいるつもりはない。
自分がどういう人間かは自分が一番知っている。
自分が下働きで終わることに満足など出来ないことも、モップや縫い針よりも杖(じょう)や詭弁(きべん)を弄(ろう)する方が向いていることも、命令する側に立ちたいという欲求も、けれど決してトップの器ではないという事実も、嫌と言うほど思い知っている。
今は雌伏(しふく)の時というだけだ。
それらを口に出しては言わない。
葉月はだだ、笑う。
たれた眉と目尻も、笑みの形に作られた唇も、表情は先ほどまでと何一つ変わらない。
ただ、目だけが少し違う。
油断しているとお前も丸飲みにしてやるぞ、というような挑発的な目だ。
その視線を受けて、ケヴィンは空いた方の手で腹を抱え、愉快そうに声を上げて笑う。
「うひゃっひゃっひゃ、やっぱりなー。お嬢様は“こっち側”の人間だよ。間違いなく、な」
一頻(ひとしき)り笑い転げると、にぃっと人の悪い笑みを浮かべ、小脇に抱えていた駕籠を押しつけながら、葉月の顔をのぞき込む。
「うちのスズメどもはピーチクパーチク喧(やかま)しいが、その分耳が広い。面白い話を聞いたら俺のところへ持ってこい」
ケヴィンの言葉に、もはや不機嫌を隠さず、葉月は嘲(あざけ)り混じりの声を返す。
「私はあなたの部下ではないんですけどね。おとり捜査の時は一時的にあなたの下につきましたけど、もう戻りましたし。それに私は団員としての活動を禁じられてるのですが?」
『命令すんな』という意味を穴だらけのオブラートに包んで、葉月は薄笑いを浮かべる。
いつものおっとりとした笑みとは違う、相手を小馬鹿にするような笑みだ。
ケヴィンは愉快そうに目を細めて、獰猛に笑う。
「だからだよ。お前の上司である“お父様”とも距離をおいておくんだろ? ケジメがつかねーからな」
「タイロンとの朝稽古は続行しますから、伝(つて)がないわけではありませんよ」
「あの脳筋は腕は立つが、そーゆー世間話から裏を読み取るなんて芸当にゃ向いてねーよ」
「……それは……そうですが……」
戦いぶりを知る者からは“猛虎”と恐れられるタイロンだったが、致命的なまでに頭脳活動に向いていない。
もちろん、『これこれこういう話があって、こういう事情がありそうで怪しい』とハッキリ伝えればブノワの元に情報を届けてくれるだろうが、タイロンと稽古するのは裏庭。
どこに耳があるか分からない。
団員としての活動を禁じられている身で、こそこそ嗅ぎ回っていると思われるのはよろしくないだろう。
かと言って、さりげなく『こういう話を聞いたんですよ』と世間話を装っても、『へー』で終わりだ。
他の団員とは下働き中は接する機会が少ない。
ケヴィンの言う通り、ケジメがつかないからだ。
もちろん、ケヴィンと接するのも厳密に言えば問題があるだろうが、この男のことだ。
そこは上手くやるだろう。
葉月の脳裏に、先ほどの騒ぎが過(よぎ)る。
少し考えるように間を置いて、ケヴィンを見上げた。
「面白いお話は、もちろん私も聞かせて頂けるんですよね?」
「あぁ、互いに面白そーな話を持ち寄って世間話するってこった」
葉月は精一杯譲歩したというようにわざとらしいため息をつく。
「分かりました。世間話程度ならば差し障りないでしょう」
「よろしく頼むわ」
ケヴィンはにぃっと笑って葉月から離れ、そのまま行こうする。
葉月に服の入った駕籠を押しつけたまま。
慌てて葉月はケヴィンの背中に声をかける。
「ケヴィン隊長、この駕籠!」
「それ繕(つくろ)い物。持ってってくれよ」
ケヴィンはそう言って振り返ることもせず、足早に去って行った。
葉月はその背中を思いっきりにらみつける。
あの男の言動はいちいち癇にさわって仕方がない。
常なら受け流せるのに、うっかり挑発に乗ってしまった。
「気に食わない男」
葉月は小さくはき捨てるように呟いて、踵(きびす)を返す。
これが同族嫌悪であることは、葉月にも分かっていた。