混沌なき箱庭 6‐2

混沌なき箱庭 6‐2

 『<ゼルディア国>は、主要十都市とその周りに点在する町村から成る国家である。』
葉月はそんな一文で始まる書籍をペラリとめくった。
久しぶりの学問所だが、特に気まずい思いはしていない。
おとり捜査の為、長期に渡って学問所を休んでいた葉月だったが、親の手伝いで繁忙期はまったく通えない子も普通にいるので、特にあれこれ言われることはなかった。
<黄昏の怪人>とちまたで呼ばれていた連続殺人鬼が捕縛されたことは皆知っていたから、「大変だったんだねー」と労われたくらいだ。
学力の方も、算学は元々小学校レベルの簡単なものだったし、文字の読み書きは任務中も学習を怠らなかった。
分からない所はアンジェリカや勤め先の者に聞いて学んだので、むしろ学問所を休む前よりも出来るようになったと自負している。
元々、暗記物が得意だった葉月は、一般的で簡単な文章ならば不自由なく読めるようになっていた。
しかし、先程ジャニス女史から渡された書籍は、堅苦しい表現が多く、難しい字が羅列されている。
同時に辞書も渡されたのでまったく読めないということはないが、明らかに子供向けではない。
例えるならば、専門家が読む、とまではいかないが、大学生がレポート作成の資料として借りるくらいのレベルではあるだろう。
厚みも装丁もそれなりのものだった。
庶民が普通に持っているものではないし、学問所に通う子供相手に用意しておく課題ではない。
本業は学者というジャニスの私物だろう。
葉月の隣席に座るラナも、葉月が渡された課題を覗き込んで『うへぁ』という顔をする。
「うわぁ、何それ。見てるだけで頭痛くなっちゃいそうだね」
既に頭が痛いと言いたげなしかめっ面のラナに、葉月は苦笑する。
開けっぴろげで思ったことが直ぐに顔に出るラナは、葉月にとって可愛い妹のようなものだった。
<テーラン>は基本的に男所帯なので、大分年下とはいえ同性がいる学問所は葉月にとって癒される場所である。
「まぁ、ちょっと難し過ぎるよね。辞書なかったらさっぱり分からないもの」
「あたしは辞書があってもさっぱりだよー。ジャニス先生って鬼だよね。あたしの課題なんて詩作だし。『典雅な表現で』ってぜぇーったい無理っ」
こそこそ愚痴を言い合っていた二人の頭に、丸めた帳面が振り下ろされる。
ぽかりと叩かれたラナは恨めしげな目でジャニスを見上げる。
葉月はとっさに上半身をひねって避けてしまったので、曖昧な笑みを浮かべた。
素直に受けておけば良かったか、とちらりと思う。
どうせ大したダメージはないのだから、避ける方が心象が良くないだろうという打算だ。
しかし、ジャニスはラナの恨めしげな目も葉月の曖昧な笑みも歯牙にもかけず、
「集中しなさい!」
と一喝して行ってしまった。
葉月はラナと一緒に首をすくめて、課題に目を戻す。
辞書を片手にページをめくりながら、ペラ紙に書かれた穴埋め問題のかっこを埋めていく。
この本は<ゼルディア国>の地理や歴史が体系立って記載されているので、表現の堅苦しさを抜きにすれば良い本だろう。
葉月は雑念を振り払って本のページをめくった。



<ゼルディア国>は<ガーデニア大陸>の南西に位置する国家である。
国土の大半は人が住むには適していないので、国土の広さとは比例せず、国力は中堅程度だ。
それでも古い国には違いなく、<ゼルディア国>の主神であるゼルダも副神であるエルフィムも、創造神の中では高位の神々である。
主要な都市の数は十。
それぞれの都市は地理に関係して特色がある。
海が近く漁業が盛んな<エレンティナ>。
複数の鉱山が近く装飾品の生産で有名な<トゥクルド>。
豊かな草原と湖が広がり騎獣の育成に長けた<ゾディアーナ>。
などなどがある。
<ウクジェナ>は<ゼルディア国>の中央部に位置し、他都市への中継地点として交易で栄えている。
この国に王や貴族はいない。
特権階級という社会的階層がないことは、葉月にとって小さな驚きだった。
この世界では神々の名の下、人は皆平等なのだという。
つまり、この世界の国々はすべて、君主国ではなく共和国なのだ。
だが、『特権階級がない』というのは、建前に近いだろう。
いわゆる名家というものが存在していることは聞いていたし、市政を動かす議員たちの多くはそうした名家の生まれだと聞く。
市長を選ぶ選挙権を持つのは、その都市の市民権を持つ者だけだ。
周りの町村の住人には都市の選挙権はないが、市長はその都市の支配下にある町村に対して命令権を持つ。
そして<ウクジェナ>の新興地区に住まう人々には市民権がない。
新興地区は<ウクジェナ>として認められていないのだから、当然な話だった。
その代わり、新興地区は実質的な治外法権と独自の自治組織を有している。
それはもちろん、薄氷を踏むがごとく危な気なものではあるのだが、都市にあって都市どころか正式な町村でさえない奇異な街が存在していることは事実だ。
また、<ゼルディア国>には王がおらず、首都というものもない。
十の都市の内一都市が代表都市となり、その都市の市長が国家代表となる。
普段は代表都市の市長が議長となり、他都市の市長代理や代表議員が代表都市に送り込まれて議会を運営し国政を動かすのだ。
ちなみに代表都市の期限は一都市十年。
百年で一巡りする計算で、市長の任期は五年である。
そして、二年に一度、普段は各都市で市政を行い、国政は代理に任せている市長たちが代表都市に集まる時期がある。
それが都市間会合だ。
今現在、その代表都市はこの<ウクジェナ>。
来年には次の<コーサイド>が代表都市になる。
五度目、今生きている者たちが経験する<ウクジェナ>主催の最後の都市間会合は、半年後に迫っていた。



昼が近くなり、ペラ紙の課題を三分の二ほど埋めたところで、午前の授業が終了した。
昼食を自宅で食べて再び午後の授業に出る者もいるが、葉月とジークは<テーラン>で仕事の予定だ。
この学問所では、終わらせられなかった課題は宿題として次の日までにやってくるルールがある。
授業終わりの解放感が溢れた教室は、どの世界でも変わらない。
葉月はざわつく教室内を縦断し、教卓で片づけをしていたジャニスに声をかけた。
「ジャニス先生、課題は終わっていないんですけど、この本はお返しした方がよろしいですよね」
装丁や中の紙の質から考えて高価であろう書籍を生徒に持って帰らせるのはまずかろうと思いながら、葉月が尋ねる。
声をかけられて顔を上げたジャニスは、葉月が差し出した書籍をちらりと見てあっさりと言い切った。
「あぁ、持って帰っていいよ」
「え? よろしいんですか?」
驚く葉月に、ジャニスはけらけらと笑った。
「奥付は見た?」
葉月は促されるまま、裏表紙をめくる。
そこに共同著者としてジャニスの名があった。
葉月だけではなく、葉月の後ろで待っていたジークも驚いたように目を丸くする。
「先生もお書きになったんですか?」
「そ。第六章は私が書いたの。だからその本は予備が何冊かあるのよ。葉月ならその本の内容は理解出来ると思うから、しっかり読んで頂戴ね。本は明日、課題と一緒に渡してくれればいいわ」
わざとでなければ弁償とか考えないでいいからね、と茶目っ気たっぷりに笑うジャニスに、葉月はふわりと笑って頭を下げる。
「はい。そういうことでしたら、有り難くお借りします。ありがとうございます」
この世界の情報に餓えている葉月にとって、この書籍は貴重な情報源だ。
知識は武器にも防具にもなる。
エルフィムが言った『この世界を救って欲しい』と言う言葉は、葉月やジークがこの世界の行く末を左右するような事態に巻き込まれることを示唆(しさ)していると考えるべきだ。
『思うがままに生きろ』と言われたとしても、のほほんとしていられるほどおめでたくはない。
備えあれば憂いなし。
それは葉月とジークの共通認識だった。



とはいえ、差し迫っての問題はというとたいしたことはなく、今日の昼食はどうしようとかそのようなものだ。
いつもは<テーラン>の食堂で食べるのだが、今日の昼間は料理人のマルゴがどうしても外せない用事があるとかで、昼食は各自で調達することになっていた。
「ねえさんは何か食べたいものありますか?」
学問所からの帰り道を歩きながら、ジークが隣の葉月に尋ねる。
葉月はちょこんと首をかしげて、
「特にはないけど、どこかに入るより屋台の方がいいかな」
と答えた。
「そうですね。ヒューゴたちから美味しい焼き飯の屋台を教えてもらったんですけど、その屋台の近くに食べるところもあるみたいですよ」
「いいね。そこにしようか。場所はわかる?」
「はい。こっちです」
ジークの案内で入り組んだ道を抜けて大通りに出た。
新興地区の大通りには、いくつもの屋台が出て賑わっていた。
学問所に通う生徒たちも、ここいらで時々買い食いをしている。
安くて美味しい屋台の情報交換は、おこづかいの少ない生徒たちにとって楽しみの一つだった。
学問所からそう遠くない屋台群は、そこそこ賑わっているようだ。
いくつかの屋台が共同で置いている席も九割方は埋まっているし、件(くだん)の屋台の前には数人の行列が出来ていた。
「ねえさんは席をとっておいてもらえますか? 俺が買ってきます」
値引き交渉やら何やらは、ジークの方が得意なのでこういう時は任せるようにしている。
葉月はうなずいて、自分の分のお金を渡してジークの荷物を預かった。
「うん。探しておくね。買い出しよろしく」
「はい」
早足で行列の最後尾へと向かったジークを見送って、葉月も席を探し始める。
二人掛けの席はほとんど埋まっているので、相席出来そうな四人掛けや六人掛けが狙い目だ。
見た目は子供の二人連れなので、絡まれそうな柄が悪い連中がいるところは避けようと思うと、なかなか見つからない。
ジークが焼き飯を買い終える前に見つけないといけないので、ちょっぴり焦っていたそんな時、後ろから明るく調子の良い声がかかった。
「そこのセテライの髪飾りのお嬢さん」
早足で狭い席の間をすり抜けるように歩いていた葉月は、その声に足を止める。
セテライは花弁の白い優美な花で、葉月が髪に留めているのはブノワに買ってもらったセテライを象った髪飾りである。
『そこのお嬢さん』くらいならば無視して通り過ぎる葉月であるが、ここまで特定されて呼ばれては無視しづらい。
なんとなく面倒事のにおいを感じながら振り向いた葉月の目に飛び込んで来たのは、この世界で初めて見る、燃え盛る炎のように鮮やかな赤毛だった。