混沌なき箱庭 6‐11

混沌なき箱庭 6‐11

 賠償の念書に署名させられた女将は、一気に十歳以上老けたように見えた。
写しを受け取ってうなだれる姿に、食堂で見せたふてぶてしさは欠片もない。
念書に書かれた金額を見てにやにやしているジェイルとは対照的だった。
ケヴィンはそんな女将には頓着せず、ソファにふんぞり返ったまま、面倒くさそうに言った。
「そんじゃまー、話はそれたが、アンタの話を整理するとだな。娼館(みせ)の女が居なくなった。その女はタイロンがよく買ってた妓女(おんな)で、妓女の方も満更ではねーようだった。きっとタイロンが囲う為に逃がしたに違いねーってことでいーんだな?」
「はい。そうです」
「証拠や目撃証言は?」
「……その……体格の良い男と逃げる様子が目撃されているのですが……それがタイロンさんに間違いがないかと言うと……」
「証拠はねーんだな」
「はい……」
縮こまってうつむく女将に、ケヴィンは馬鹿馬鹿しいと吐き捨てる。
「言っとくが、この筋肉馬鹿にゃ無理だぜ? こいつは本拠地(ここ)に住んでんし、どっか囲えるよーな場所を借りる金はねーだろ。ついでに隠し事なんぞ出来る頭もねーよ」
「おい、それ、俺のことかばってるようで実は悪口じゃねぇか!」
ボロクソに言われたタイロンがケヴィンに抗議する。
しかし、それにはうるさそうに手を振っただけで、ケヴィンは話を続けた。
「それになー、<リスティアータ>っつったら女の質は悪かねーが、女の扱いが良くねーことで有名だろーが。足抜けは確かに痛手だろーがよ、逃げられるよーな経営してるアンタが悪ぃに決まってんだろ。それをタイロンのせいにしよーっつう根性が気に入んねーな。ジェイル」
「誹謗中傷の慰謝料の請求だな?」
名を呼ばれたジェイルの目がキラリと光る。
その手には既に紙と羽ペンが用意されていた。
「さすが守銭奴。話がはえーな。ない袖は振れねーだろーから、向こう五年の分割払いにしてやれよ。金額なんかは任せる。生かさず殺さず、でな」
「なるほどな。承知した」
にやにやと黒く笑い合う幹部たち。
ジェイルは喜々として念書の作成に取りかかった。
片や女将は倒れる寸前だ。
放心状態で口から魂が抜けかけている。
徹底的に尻の毛までむしり取られることになった女将は哀れだが、今までの行いを聞くに自業自得だろう。
因果応報ってヤツか、と葉月が感心していると、背後の扉が再び扉がノックされた。
先程のジェイルのノックとは違い、儀礼的な強さだ。
「千客万来だな。また厄介ごとか? お嬢様、開けてやれよ」
「はい」
ややうんざりした顔でケヴィンが命じる。
葉月がそれを受けて扉を開けると、そこに居たのはミケーレだった。
「失礼さんです。嬢(いと)はん、頼まれてたこと、分かりましたよ」
「あー? お嬢様に用? 後じゃいけねーことかよ」
葉月に用と聞き、ただでさえ悪いケヴィンの機嫌が急降下する。
このままではねちねちと嫌みを言われ続けることになるだろう。
葉月はそんなうんざりするような未来を回避すべく、弁明の為に口を開いた。
「ミケーレさんには、今の件について気になることを調べて頂いたんです」
「気になること?」
「はい」
「さいです」
ミケーレがふにゃりと笑い、葉月に何事か耳打ちをする。
「あぁ、そうでしたか。ありがとうございます」
「いえ、お安い御用で」
そう言いながら、ミケーレはちゃっかり中に入って扉を閉めた。
そのまま見物と洒落込むつもりらしい。
ケヴィンがそれを咎めないのを見て、葉月は女将に笑いかける。
「女将さん、一つ、お尋ねしたいのですが」
「な、なんでしょう?」
先程から集中砲火を受けている女将は、びくびくとしながら答える。
葉月は柔らかな笑みを浮かべたまま、ある人物の名前を口にした。
「ガストンという男性に心当たりはございますか?」
「え、あの、その」
“ガストン”という名前を聞いた途端、女将は明らかにうろたえていた。
顔面蒼白で意味を持たない言葉を発しながら、ちらちらとジェイルの方を見ている。
ジェイルは女将には目もくれず、実に楽しげに算盤をはじいていた。
葉月はちらりと、ケヴィンを見る。
ケヴィンは目を据わらせて、あごをしゃくって続けるように促した。
葉月はそれに小さく頷くと、女将に向き直る。
「ご安心ください。ただの事実確認ですから。女将さんは事実を正直にお話下さい。よろしいですね?」
「はい……」
「では改めてお尋ねします。女将さんが<テーラン>の本拠地へ入ったのは、ガストンという人物の手引きで間違いはありませんか?」
「間違いありません」
「ガストンとの関係は?」
「娼館(みせ)のお客でした。だいぶツケが溜まってましてね。付け馬に回収させようにも、ない袖は振れないということで……その、いろいろと便宜を計ってもらっていました」
「今回もその一環で?」
「はい。裏口を開けて、入れてもらいました」
「なるほど。よく分かりました。ありがとうございます。……ケヴィン隊長、いかがなさいますか?」
「ガストンの身柄は?」
葉月が振り向くと、ケヴィンがぞっとする程低い声で尋ねた。
いつもの軽薄さは鳴りを潜め、ケヴィンの周りには殺気を帯びた冷たい空気が漂っている。
葉月も思わず冷や汗が出てくる迫力だ。
それなのに、問われたミケーレはふにゃりと、いつもの柔和な笑みを浮かべて答えた。
「なんやかんやと理由を付けて、取調室に隔離しとります。副長直属(ウチ)のバートラムはんとマルセルを見張りに付けとりますよって、逃げ出すなんて阿呆なことはない思います」
「上等だ。……お嬢様」
「はい」
ゆらりとソファから立ち上がったケヴィンに呼ばれた葉月は、後退りしそうな足を必死に留めて返事をする。
普段から近づきたい人間ではないが、こうして殺気を撒き散らしているケヴィンと同じ部屋にいるのは、まだまだ本当の意味での修羅場経験が足りていない葉月にとって、拷問に近かった。
お嬢様然とした笑みも引きつり気味だ。
ケヴィンはそんな葉月には頓着せず、早くも腰の剣に手を添えながら戸口へと向かう。
葉月の隣を通る時、色は灰青だというのに血に濡れた刃を思わせるような鋭い目で葉月を見下ろし、ケヴィンは短い命令を下した。
「後はお前がなんとかしろ」
「承知致しました」
ただの下働きうんぬん命令系統がうんぬんと言える雰囲気は一切なく、葉月は即答していた。
今のケヴィンに逆らうなど、蛮勇を通り越してただの馬鹿だ。
葉月とて、命は惜しい。
扉の側にいたタイロンやミケーレも、その思いは同じようだ。
さっと避けて、ケヴィンの進路を開けている。
ケヴィンはそのまま、一切振り返ることなく部屋を出ていった。



ぱたん。
ケヴィンの迫力に反して静かに扉が閉まると、一気に部屋の空気が弛緩した。
葉月ははぁっと大きな息を吐いて、胸を押さえる。
(まだ心臓がバクバクいってる。ものすごく怖かった)
ここまで恐怖を覚えたのは、あの街道で死にかけて以来だ。
軽薄でチャラチャラした男だが、戦列の<テーラン>の実行部第四隊長の肩書きは伊達ではない。
「あー、ありゃ、ガストンの野郎、楽にゃ死ねねぇな」
「さいですねぇ。さっさと死ねた方が一千倍くらいマシな目に遭わはりますやろ」
「ま、自業自得だな」
タイロン、ミケーレ、ジェイルが口々に感想を述べた。
三人とも気楽な様子なのは、ガストンがどんな目に遭おうとジェイルの言う通り、自業自得だと思っているからだ。
葉月もそこのところは同感である。
本拠地に部外者を無断で招き入れるなど、最大級の裏切り行為だ。
今回は女将がタイロンを追いかけ回して、食堂の物が壊れる程度の被害で済んだが、これで侵入者がもっと悪意を持った相手だったらと考えると、到底許されるものではなかった。
ガストンは恐らく、生きて外に出ることは出来ないだろうが、それをやり過ぎだと批判する程の正義感を葉月は持ち会わせていない。
<テーラン>には<テーラン>の流儀があるのだ。
郷に入れば郷に従えという。
葉月の考え方も、だいぶ<テーラン>に染まってきているようだ。
それに、葉月はガストンとは殆ど関わりがない。
何かメリットがあるわけでもないのに、たいして親しくない人を庇える程、葉月はお人好しでもなかった。
「それにしても、あんなケヴィン隊長は初めて見ます。怒鳴り散らしたりしないのが、余計に怖くて……」
「まぁな。あぁなんのは、マジでブチ切れた時くれぇだろ。今回は自分の隊の部下がやらかしたことだからなぁ」
「部下の不始末は、上司の管理不行き届きだ。ケヴィンの第四隊は他に比べて緩いが、何かあった時の制裁は他の追随を許さん。それで規律がある程度は保たれているんだ。それを忘れたガストンが馬鹿だっただけだろう」
ジェイルがそう言いながら、ガタガタと恐怖で震えている女将に慰謝料請求の念書を差し出した。
「ここと、ここに署名を。言っておくが、夜逃げなんて考えるなよ? 逃げればどうなるか……分かるだろう?」
ジェイルが腹の底から黒い笑みを浮かべる。
女将は壊れたからくり人形のごとく、何度もコクコクと頷く。
自分が敵に回そうとしていた組織が、どれ程ヤバイ連中だか身に染みて分かった。
ここはとんだ伏魔殿だ。
女将は一刻も早く逃げ出したい一身で、多額の慰謝料が記載された念書に署名する。
ジェイルは女将が署名した念書を受け取りニンマリ笑うと、用は済んだとばかりに立ち上がった。
「ふん。確かに。嬢、俺は部屋に戻るぞ」
「はい。お父様とおばちゃんへの報告は、こちらでしておきます」
「あぁ、頼んだ」
予定外の収入をどう予算配分するか呟きながら、ジェイルが部屋を出ていく。
葉月はそれを見送って、ミケーレに声をかけた。
「ミケーレさん、申し訳ないですが、もう一つ頼まれて下さいませんか?」
「えぇですよ。なんです?」
快く請け負ったミケーレに、葉月はほっとした笑みを浮かべた。
「女将さんを門までご案内して頂きたいんです」
「それくらいやったら、お安い御用ですわ」
「ありがとうございます。後はもう、大丈夫ですから」
よろしくお願いします、と葉月が頭を下げる。
ミケーレは「嬢はんも、ご苦労さんですなぁ」と労いの言葉をかけて、女将の方へと向かう。
それを受けて、扉の横に居たタイロンが、葉月の前まで寄って来た。
「お嬢、俺も何かあるか?」
「えぇ。タイロンは私と一緒にお父様とおばちゃんの所へ行って下さい。女将さんの勘違いとはいえ、騒動の発端はタイロンですから」
葉月がそう言うと、タイロンが苦虫を噛み潰したような顔をする。
「俺のせいじゃねぇってのに」
「まぁまぁ、落ち着いて下さい。だからこそタイロンの口からも説明しないといけないんですよ。不本意だとは思いますけど、当事者ですからね」
葉月はタイロンをなだめながら、別のこと考えていた。
(タイロンが妓女を連れ去ったのは勘違いだとしても、妓女が姿をくらましたのは少し気になるかも……)
新興地区で多発している若い女性の失踪事件と、何かしら関係があるのだろうか?
つらい境遇にある女性という点では、共通項がないわけでもないし……。
考えこんでしまった葉月に、タイロンが不思議そうに声をかける。
「お嬢? どうかしたか?」
「え? あ、いえ。大丈夫です。さぁ、行きましょうか」
葉月は一旦考えを打ち切って、おっとりとした笑みを浮かべる。
考えるのは、この件の後始末を終えた後だ。



副長のブノワとマルゴへの説明、そして食堂の片付けの手伝いをするはめになった葉月とタイロンが朝食にありつけたのは、結局、昼近くになってのことだった。