混沌なき箱庭 6‐12

混沌なき箱庭 6‐12

 微かに鼻腔に届くすえた汚物と血の臭いに、葉月は眉間にしわを刻んだ。
本能的な嫌悪感が湧くのを押さえられない、ある意味、死そのものよりも忌まわしい臭いだ。
臭いの大元は、<テーラン>本拠地の端に建つ、西の離れの地下にある。
そこは母屋と北の離れが生活圏の葉月は、滅多に近寄らない場所だ。
庭掃除をしている下男によると、西の離れの近くでは時折、身の毛もよだつような悲鳴を聞くことがあるらしい。
葉月は幸いにも、直接見たり聞いたり嗅いだりしたことは、まだない。
西の離れは、使用人のみならず、剛胆なことで知られる団員たちですら近寄ることを嫌がる、地獄の入り口だった。
その地獄の獄卒であり、悪臭の移り香をまとって平然としている男より、魂を刈っていく死神の方がまだ慈悲深いだろう。
元より苦手な男だったが、男の背筋も凍るような殺気と残虐性を知った今、一段と近寄りたくない相手だった。
ここは母屋の物置に使っている部屋が集まっている区画だ。
人気がないので内緒話にはもってこいの場所だが、この男と二人っきりになる時間はなるべく短い方が嬉しい。
さっさと用事を済ませたい葉月は、不本意だという気持ちを隠そうとせず、たれ気味の目を男から微妙にそらしながら言った。
「気になる噂を聞きました」
男は嫌そうな顔をする葉月の何が面白いのか、にたにた笑いながら続きを促す。
「へー。気になる噂ねぇ。言ってみろよ」
「気の毒な境遇の女性が、次々と姿を消しています」
「不幸な女が家出すんのは、別に変じゃねーだろ。そこに居たって不幸なのは分かりきってんだから、余所に行こうって気にもなんじゃねーの」
「そう考えるのが普通なんですけど、そういう境遇に陥った人は、逃げだそうとも考えられなくなるものなんです。感覚が麻痺してしまうようで。たぶん、心が壊れるのを避ける為なんでしょう」
葉月はふと目を伏せた。
鎖につながれているわけでも、檻に入れられているのでもなく、本気で逃げだそうとすれば出来るはずなのに、まるで奴隷のように虐げられていた人々を思い出す。
他の家族とは差別され、稼いだお金をすべて巻き上げれ、家事も押しつけられる。
お前は出来損ないだ欠陥品だと責められ、言うことを聞いていれば良いと散々言われると、普通の神経をしている人間でも自分が悪いような気になってしまう。
逆らわないように、怒らせないように、ただ怯えて暮らすだけになってしまうのだ。
その人々の話は、別に遠い国の昔話ではない。
現代日本の話だった。
人の本質は、時代や世界を越えてもそう変わるものではないと、葉月は思っている。
善人も下衆(げす)も、同じようにいるものだと。
前世で見聞きした胸糞の悪い話を思い出した葉月は、うんざりした気持ちを押し込め、いっそう淡々と言葉を紡ぐ。
「外の人に説得されて目を覚ますことも、その人物に手助けされて逃げ出すこともあるでしょうが、その外の人がどこの誰なのか、不明なことが多いんです」
「虐げる人間から逃げる為だろ? こっそりやんのが、そんなに不自然か?」
「それはそうですが……。似たような失踪が、この一月で七件起きています。この近辺だけの数ですし、それぞれの失踪者の間に横のつながりはありません」
「七件、ねぇ」
男は顎をなでながら、考えるようにつぶやく。
捜査に乗り気ではないのが明らかだった。
葉月も、男の考えが分からないわけではない。
一月で七件。
一見多く感じるが、新興地区は人の出入りが激しく、実は行方不明になる人物が意外と多い。
本拠地の近辺に限る数とはいえ、七件とは実に微妙な数だった。
戦列の<テーラン>は、常に資金不足の人手不足。
余計な事件に首を突っ込む余裕はない。
それが、人死にもなく、金にならず、おまけに事件とも断言出来ないことなら尚更だ。
「お嬢様は、なんでこの件をそんなに気にするんだ? ほっときゃいーんじゃねーの?」
男は不思議そうに、眉間にしわを刻んだ葉月を見下ろす。
葉月は目を伏せたまま、男の問いに答えた。
「手口といいますか、手際といいますか、どうも似ているんですよ。その七件とも。つまり、各件に共通する裏で手を引いている人物がいるのではないかと。でも、目的が見えないのが気持ち悪くて……」
「娼館に売られたとかか?」
「いえ。それらしき女性は、少なくとも新興地区の娼館には連れて行かれていないようです」
「何故分かるんだ?」
訝しがる男に、葉月はわずかに口角を上げて答える。
「<リスティアータ>の女将さんに、ちょっと」
「はっ、抜け目のねー、お嬢様だ。無理矢理連れてかれたってなら、痕跡が残る。自らついて行くにしても、どーゆー口車に乗せられたかって話だな」
「はい。確かに放っておいても良い気がしますが、知っていて損になる話ではないとも思います」
「根拠は?」
「いえ、特には」
「勘っつーわけだな」
「あり大抵に言ってしまえば……そうです」

男はしばし考え込んだ。
自分は気になる噂を持って来いと言ったが、このお嬢様が持ってきたのは、本当にただの噂話だ。
確かに妙な気もするが、手柄にも金にもなりそうにない。
お嬢様もその辺りはきちんと認識しているようで、いつもと違って歯切れが悪かった。
調べるべきだと、ごり押ししてくることもない。
だが<リスティアータ>の女将に探りを入れる程度には気にしている。
このお嬢様が、だ。
それをどう判断するべきか……。
「ま、ついでに調べるくれーはしてもいーか」
男はあっさりと呟いた。
昔の自分であれば、勘なんぞ信用しないが、今は親分という実例を知っている。
お嬢様の勘が親分ほど当たるとは思わない。
だが、男の隊はこの近辺の治安維持が主な任務だ。
そのついでに探る程度なら、このお嬢様の言う通り、損をする話でもないだろう。

「動かれるんですか?」
葉月は意外な気持ちで男を見上げた。
まさか、噂話程度で動くような男だとは思わなかった。
葉月自身、事件だと確信を持っているわけではないのだ。
てっきり馬鹿にされるとばかり思っていたのに……。
予想外の男の言葉に、葉月は目をぱちくりさせている。
真意を問う葉月の視線を受けて、男はうるさいと言いたげに手を払った。
「ついでだ、ついで。本腰入れて調べるわけじゃねーよ」
「それでも、ありがとうございます?」
「なんで疑問系なんだよ」
「いえ、言いかけてから、ここでお礼を言うのも何かおかしい気がしましたので」
「ちっ」
煩わしげに舌打ちして、男が踵を返した。
「続報や別の面白い話があったら持って来い」
すえた汚物と血の臭いを連れて、男が去っていく。
それを見送った葉月は、男の背中が見えなくなったとこで、はぁっと大きく息を吐いた。
無意識の内に、なるべく息をしないようにしていたようだ。
「……忌々しい」
ぽつりと葉月の口からこぼれた言葉は、去って行った男に向けてなのか、はたまたそんな男に委縮してしまった自分に対してなのか……。
ただただ重苦しい何かを腹に抱えて、葉月は男とは逆の方向へと足を向けた。



葉月が死神よりも恐ろしい男と会っている頃、ジークは首領補佐のゾルから指示を受け、新興地区の自治組織に書類を届けに行っていた。
自治組織の本部がある地区は、戦列の<テーラン>の本拠地からは離れた、新興地区の中区にある。
十の子供を使いに出すにはやや遠いが、首領直属の人間でジークのことを心配する者はいない。
それはジークが嫌われているわけではなく、心配するようなことはないと思われている証だ。
ジークはその期待に背くことなく、無事目的の部署に書類を届けた。
その帰り道である。
午後の中区は、意外と人通りが少ない。閑静な住宅街が多いからだろう。
新興地区は、表、中、奥で、まったく違う顔を見せる。
中と<テーラン>の本拠地がある表の境まで来ると、庶民相手の商店が増え、だいぶ賑やかになって来た。
ジークはどちらかといえば、中よりも表の猥雑さの方が性に合っていた。
郷愁とは無縁の前世を送ってきたジークだったが、今世では段々と本拠地が“家”のように思えるようになってきている。
これは戸惑いと心地よさを同時に感じる、大きな変化だった。
そして何より、あそこには姉と慕う葉月がいるのだ。
「――――――――――」
ほっこりとした気持ちを覚えながら速足で“家路”を急いでいるジークの耳に、微かながら聞き覚えのある声が届いた。
ジークのいる大通りは大勢の通行人の声が飛び交っている。
人並み外れた聴覚を持つジークだからこそ、聞き分けられた声だ。
これが普通の声ならば、ジークは気に留めつつも、誰かと会話しているのだろうと通り過ぎる。
しかし、どうも声の主は泣いた後のような鼻声だった。
ジークの足は、声が聞こえてきた路地の前で止まっていた。
行くべきか行かざるべきか、ジークは逡巡する。
以前のジークなら、間違いなく足を止めることすらしなかっただろう。
前世においては自身を含めて大切なものなど一つもなく、今世においても葉月以外はどうでも良かった。
しかし、それでは葉月を危険にさらすと言ったのは、首領であるカーサだ。
ジークはジークなりに考えて、もう少しだけ世界を広げてみようかと思い出している。
それが、葉月を守ることになるならば、と。
当の葉月にも女性には優しく、と厳しく言われている。
ここで通り過ぎるのはよろしくないだろうと、ジークは決断を下した。
一度決めてしまえば、思い切りが良いのがジークという男だ。
さっさと路地へと入って行く。
大通りの喧騒とは打ってかわり、路地はほとんど人気がなかった。
その路地の脇に、二人の女性がしゃがみ込んでいる。
ジークに背を向けている女性は、上物の羽織を羽織っている。
嗅いだことのない匂い。どうやら、ジークの知らない誰かのようだ。
その女性が慰めているように見える奥の人物の方は、ジークが知っている匂いだった。
とりあえず手前の人物が誰かということは置いておいて、ジークは奥の女性に声をかける。
「サラさん」
「ジークちゃん?」
呼びかけられて顔を上げた女性は、十代後半、女性というよりも、まだまだ少女といった言葉が合う雰囲気だった。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔でジークを呼ぶこの少女は、戦列の<テーラン>本拠地の使用人の一人、サラだ。
サラは姉の出産の手伝いで実家に帰っていた。
葉月は処罰の為もあったが、サラの穴埋めとして、使用人の仕事をしているのだ。
サラが実家から戻るのは、もっと先の予定だったはず。
それに、どうしてこんな所で泣いていたのだろうか。
ジークがそれを問う前に、手前の女性が立ち上がった。
「あら? お迎え?」
振り返った女性は、ジークの姿を認めると浮かべていた優しげな笑みを更に深めた。
自身に向けられた慈愛に満ちた笑みに、ジークは面食らう。
母を覚えていないジークにとって、馴染みの薄い表情だ。
女性は戸惑うジークにふふっと笑いかけ、視線を元に戻すとサラの頭をひと撫でする。
「さぁ。涙の時間は終わりよ。あなたはきっと、笑顔の方が可愛いわ。ではね」
サラは慌てて立ち上がり、女性に向かって勢いよく頭を下げた。
「あ、ありがとうございました!」
「わたしはたいしたことはしてないわ。でも、あなたが望む所にあなたの居場所があることを思い出せたなら、それはとても素敵なことね」
女はサラににっこりと笑いかけてから、ジークの方へと歩いてくる。
何がどうなったのか分からず、ジークはこちらへ向かってくる女性を凝視する。
ジークは人の美醜や年齢を判断することが出来ない。
ただ、優しそうな女性であることは、なんとなく雰囲気で分かった。
少なくとも、悪人ではなさそうだ。
すれ違い様、女性は小さくジークに会釈する。
ジークはつられて会釈を返す。
横を通り過ぎていく女性からふわりと香る匂い。
何かしらの香だろう。
嗅覚の鋭いジークは、香水の類が苦手だった。
しかし、女性から漂う香りは、決して不快ではない。
押しつけがましくない甘い香りといい、優しげで上品な立ち振る舞いといい、好ましい要素ばかりを持っているというのに、素直に好ましいと思えない。
なんとも言えない気持ち悪さ。 得体が知れない違和感を覚えたジークは、悠然とした足取りで去っていく女性が人ごみに消えるまで、その背中を見送っていた。