混沌なき箱庭 5‐8

混沌なき箱庭 5‐8

 ひたっ。
どこかで液体の滴る音が響いた。
時は深夜。
闇の中、窓から注ぐ月明かりが祭壇を照らしていた。
祭壇に向かい平伏する人物は、狂ったように一途に問いかける。
どれだけ熱心に祈っても、相手が応えを返してくるのは稀であった。
それでも、祈る。
祈る、祈る、祈る。
問いかけ、訴える。

神よ。
偉大なる我らが主神よ。
まだ……。
まだなのですか?
この醜く愚かな世界の破滅は。
素晴らしき理想郷の創造は。
神よ。
神よ。神よ。神よ。神よ。神よ。神よ。神よ。神よ。神よ。神よ。神よ。神よ。神よ。神よ。
神よ!!

果たして、短い応えがあった。

…………あぁ。
邪魔者をまだ排せていないということなのですね。
あぁ、申し訳ございませぬ。
わたくしの早とちりでございました。
えぇ、お任せ下さいませ。
必ずや、必ずや、ご期待に沿うてご覧にいれます。
忌子(いみご)らの命を捧げ、神と新しき世界への供物と致しましょう。
すべては神の御心がままに。

平伏した状態から、更に頭を下げる。
床に擦りつけんばかりに頭を下げ、やがて上げた顔には恍惚(こうこつ)とした表情が浮かんでいた。
どのような言葉であっても、主から言葉を賜るのは至上の幸福であった。
月明かりはその姿かたちも照らし出す。
うっとりとした表情(かお)の中で、その双眸(そうぼう)だけがギラギラと輝いていた。



「ジーク!? どうしたの、その顔!?」
ケヴィンやタイロンと一緒に本拠地へと戻ってきた葉月は、医務室から出てきた弟の顔を見て血相を変えて駆け寄った。
ジークは額と左のこめかみにガーゼ、鼻には絆創膏が貼られていた。
おまけに服の前面は土で汚れている。
葉月はジークの強さをよく知っていた。
首領直属の他の団員との稽古ならば、このような怪我をするジークではない。
ジークに土をつけられる相手は、余程の手練(てだれ)に違いないだろう。
自分が連続殺人事件の捜査に関わっていることを棚に上げ、何か危険な任務に関わったのではないかと本気で心配する。
額や鼻の他、頬にも浅い擦り傷があること見て、葉月は傷を避けてそっと頬に触れた。
ジークはくすぐったいのか照れくさいのか、少しはにかんだように笑って言った。
「ねえさん、お帰りなさい」
「ただいま。って、挨拶は確かに大事だけど、でも、それどころじゃないでしょう。その顔の傷はどうしたの? 他は? 大丈夫なの?」
矢継ぎ早に質問を投げかけた葉月だったが、ケヴィンがにやにやと笑いながらこちらを見ていることに気付き、はっとジークの頬から手を放した。
内心とり乱したことに舌打ちし、表面上は平静をとり繕う。
「ケヴィン隊長、タイロン。申し訳ございませんが、先に行っていて頂けますか。私もすぐに行きますから」
「あぁ、とり乱すお嬢様なんて珍しいもんを一日に二度も見せてもらったから、そのくらいいーぜ?」
余計なことを、と思いながら、葉月は礼を言う。
「ありがとうございます」
にやにや笑いを崩さぬまま、ケヴィンが尋ねる。
「場所はわかるよな?」
「例の事件の捜査本部に使っている部屋でしたら分かります」
「あぁ、その部屋だ。じゃあ、あんま遅くなんなよ」
「先行ってっからな」
ケヴィンは最後までにやにやと笑いながら、タイロンは最後ににかっと笑って捜査本部に使っている部屋へと向かって行った。
いつもならもっと執拗にからんでくるケヴィンがいやにあっさりしていたので、葉月は拍子抜けした気分でその背中を見送った。
葉月の醜態を見て愉快だった、という腹立たしい要素を除いても不気味である。
気を利かせたのだろうか。
と、思いかけて、葉月はその考えを即座に却下した。
あの男がそのような人格者だとは到底思えない。
やはり、それほど時間が惜しい、というのが本当のところだろうか。
にやにやと軽薄な笑みを浮かべていることで忘れがちだが、あの男は実行部の第四隊長で一連の事件捜査の副責任者なのだ。 今日、八人目の犠牲者が出てしまった。
これ以上の失態は<テーラン>の信頼を失墜させ、面子を潰すだろう。
見習いの自分にまで声をかけてきたのは、そのせいだと思う。
あの男のことは嫌いだが、<テーラン>が力を失うのはつまらない。
そしてこれは葉月にとってチャンスでもある。
つわもの揃いの<テーラン>において戦闘で手柄をとることは、葉月にとって難しい。
しかし、その分、謀(はかりごと)や頭脳労働ならば活躍の余地がある。
新参者の出しゃばり過ぎは反感を買うが、今回は第四隊長の指示という名目があるのだ。
が、その前に心がかりは取り除いておかねば。



「で、ジーク、どうしたの?」
ジークを廊下の死角へと引っ張って行った葉月が振り変える。
ケヴィンへ向けたおっとり泰然とした笑みから、再び眉毛が八の字に下がっていた。
その表情にジークは困ったように笑いながら口を開く。
「親分と稽古をしました。でも怪我といってもたいしたことはないんですよ。こんなものはかすり傷です」
「怪我したのは頭でしょう。自覚症状がないだけかも知れないじゃない」
「医療部長も心配ないと言っていました」
「オーマさんだって、頭の中まで見られるわけじゃないもの。頭の中の血管が切れていたりしていたら、後からたいへんなことになるのよ」
葉月がこれほど心配するのは、ひとえにこの世界の医療水準が元の世界よりも劣るからだった。
薬と言えば生薬で、ペニシリン等の抗生物質は発見されていないようだった。
診察にしてもCTも、レントゲンすらないのだ。
麻酔はあるようで、簡単な外科手術くらいなら出来るそうだが、二十一世紀の日本並など望むべくもない。
葉月とて医療部長のオーマが藪医者だとは思っていない。
むしろ文化はごちゃまぜだが時代的に言えば中世から近世程度だろうと推測するこの世界では、腕がよい方なのではないだろうかと思っている。
常に怪我人が出やすい<テーラン>だから、経験を積みやすいだろう。
それにこの近隣の住民から頼まれて往診も行っているという。
だが、この世界では輸血が一般的ではない。
大怪我をしたり大病を患ったりすれば、死に直結する。
交通事故で即死だった葉月はその恩恵に与(あずか)れなかったわけではあるが、医学が発達しインフラの整った日本では助かるような怪我や病気でも、ここでは助からない。
エルフィムは言及しなかったが、おそらく二度目のチャンスはないだろう。
ここで死んだら、本当に終わりだ。
葉月は、それを恐れている。
「頭の怪我を甘く見ないで」
ジークは強い語調の葉月に首を傾げた。
戦場では自分で適当な治療をしていたし、町や村でもきちんとした医者にかかるには金がかかった。
この世界の住人よりもだいぶ丈夫な体をしていたとはいえ、稼業が稼業だ。
怪我をするのも日常茶飯事だった。
そのジークからすれば、こんな怪我など本当にかすり傷に過ぎない。
ガーゼや絆創膏など大げさでもったいないと思ったし、葉月が何故ここまで心配するのか、理解出来ずに困惑する。
葉月はまったく危機感がないジークに眉をひそめた。
いつもより幾分低い声でジークの名を呼ぶ。
「ジーク」
「はい」
「耳を貸しなさい」
そう言って、葉月はさっと辺りの気配を探り、盗み聞き出来る範囲に人がいないことを確かめてから、ジークの耳に唇を寄せた。
「いい加減に今の体に慣れなさい。元の体はどうだったか知らないけれど、今の体はやわだっていうことを忘れちゃ駄目でしょう。絶対に無茶するな、とまでは言わないけれど、あなたは無頓着過ぎるのよ」
「……はい。気をつけます」
ジークが悔しげな顔でうつむく。
元の体だったら……などと考えているのだろう、と葉月はこっそりとため息をついた。
そして、自分より頭半分小さい体を抱きしめる。
「ねっ、ねえさん!」
珍しく慌てた声を出すジークに、葉月は口元だけで笑う。
しかし、そこからこぼれた声は、当の葉月でさえ驚くぐらい真摯な響きを持っていた。
「あなたは自分を大切にしなさ過ぎる。あなたが私を心配してくれるように、私もあなたが心配なのよ」
ジークの肩に顎を乗せ、ぎゅっと抱きしめる。
細い、子供の体だ。
それでも強い。
強くて、脆い、アンバランスな体。
元が強過ぎたせいか、ジークがこの体を厭(いと)うているのはなんとなく分かる。
そして自分を軽視して、葉月のことばかり心配していることも知っている。
これぐらいやって、これくらい言ってやらないと、きっと自愛などしないだろう。
ジークの強さとはつまり、自己の顧みなさなのだ。
肉を切らせて骨を断つどころではない。
肉が切られるとも思わずに、一切の躊躇(ちゅうちょ)もなく突っ込んで行ける潔さ。
それは無謀とは紙一重で違うが、本当に紙一重でしかない危うさだった。
繋ぎとめる為の、枷(かせ)が必要だ。
その枷がジークの強さを削ぎ、逆に死に至らしめてしまうかも知れない。
それでも…………。
「お願い……私より先に死んだりしないで」
ジークの体がびくりと強張る。
そろそろと上げかけられた手は途中で止まった。
いくらかの逡巡(しゅんじゅん)の後、ジークが答える。
「じゃあ、ねえさんは俺の知らないところで死なないで下さい」
「うん。分かった。約束ね」
葉月は不自然ではない程度の間を置いて答えた。
ジークに見えない顔に、自嘲的な笑みを浮かべながら。



ジークと別れた葉月は、早歩きで廊下を進んでいた。
ゆらゆらと手に持つ灯りが揺れる。
思っていたよりも時間を食ってしまった。
捜査本部に使用している部屋は母屋の一階にあったが、入口に近い医務室からはやや遠い。
この屋敷は前の持ち主の趣味だか自己顕示欲だかで無駄に広く、やたらと入り組んでいる。
部屋数もそれなりに多いのだが、団員も多くなり埋まっている部屋も多い。
そもそも捜査本部を立てるほどの事件など、かなり稀なことであるらしい。
急ごしらえで空いている部屋を探したら、こんな遠くしかなかったということだ。
物置になっているような部屋ばかりの一帯で、扉の下の隙間から光が漏れているのが見えた。
ここだ。
呼吸を整え、扉をノックする。
すぐに「誰だ」と低い声が返って来た。
「葉月です」と答えると、
「あぁ、入れよ」
「いらん。帰れ」
と、相反する声が聞こえた。
どうしようか、と葉月は自身の顎に触れ小首を傾げた。
呼ばれて来たのに、ここで帰るわけにもいくまい。
「失礼します」
とりあえず、後者の声は無視して扉を開けると、一人の男が立ちふさがるように立っていた。
ぎろりと葉月を見下ろす目は鋭い。
葉月はちょっと困ったように笑いながら、男を見上げる。
先ほどの後者の声の主は、この戦列の<テーラン>実行部第三隊隊長オズワルド、その人だった。