混沌なき箱庭 5‐7

混沌なき箱庭 5‐7

 『お前は、葉月のお荷物にしかならない』
その言葉は他のどんな言葉よりも、ジークに強い動揺を与えた。
常には揺るぎない眼差しが嘘のように揺れる。
まるで迷子の子供のようだ。
このように動揺したことなど、二十五年生きてきて初めてだった。
自分が動揺したことそのものに、ジークは動揺していた。
「俺が……弱いから……ですか……?」
やっとのことで絞り出した言葉もどこか頼りない。
カーサはジークの言葉にあっさりと首を横に振る。
「いいや? お前は強いぞ。実行部連中とやりあっても平相手なら勝てるだろうさ。隊長格は……少し難しいか」
お前、チビだしなぁ、とカーサがジークを見下ろしながらつぶやく。
「意志が弱いわけでも、覇気がないわけでもない。誰かを守ることも知っている」
カーサの言葉はジークを更に混乱させる。
様々な可能性を考えるも、答えにはたどり着けない。
「なら、何がいけないんですか?」
ジークの問いに、カーサはにぃっと悪魔のように微笑んだ。
「お前の弱点が葉月だと分かりやすいからさ」
「え?」
ジークが目を瞬かせた。
口に笑みを浮かべたまま、滔々(とうとう)とカーサは語る。
「葉月は見た目はあんなだが、お前よりよっぽどしたたかで怖い女だよ。いまいち温(ぬる)いけどな。上に立つことの意味を知っている。“お嬢様”というのは、あながち嘘じゃないんだろ。あと、腕っ節の方もまぁまぁだ。女だってことを勘定に入れりゃあ、上等な部類だろうさ。何せ、あのタイロンと毎朝稽古していて、まだ五体満足で生きてンだ。葉月は強い。だろ?」
「はい」
ジークはきっぱりと同意する。
葉月は確かに修羅場慣れしていないが喧嘩慣れはしているし、何を考えているか分かりやすいようで底が見えない。
しかし、カーサの言う通り、葉月は温いと思う。
それでも強いのだから、ジークにとって葉月は眩しい存在だった。
自分とは違い、陽の光の下、何事にも恥じることなく健(すこ)やかに生きてきたひと。
だからこそ、温いままでいて欲しい。
汚れて、闇に落ちてしまわないで欲しい。
ずっと綺麗なままでいて欲しいから、守りたいと思う。
温いまま、強く、綺麗で。
それは姉に対する思いというより、何かを崇拝するのに似ている。
葉月は美化し過ぎだと笑うだろうが、ジークは本気だ。
元の世界では生きる意味などとっくに忘れ、惰性で生きていた。
人生の大半の記憶は、血と何かが焼け落ちる臭いと結びついている。
人の肌の温かさより、血飛沫の生温かさの方が身近な日々。
向上するのは人を殺す技術だけ。
そんな人生に、何の意味を見出せるというのだろう。
金も女も武名も、何一つ、ジークの胸を熱くさせることはなかった。
自ら死を選ばなかったのは、遠い日の約束が頭の片隅に残っていたからだ。
『死ぬまで生きなさい』
そんな当たり前のことを言った人は、自分より先に死んでしまったけれど。
その言葉を忘れることはなくても、生きているというよりは死んでいないだけで、本当に死んでしまった時でさえ、ただ終わったと思っただけだったけれど。
それが何の因果か、こうして二度目の生を与えられ、姿を変えられ、違う世界に落とされた。
ここで手に入れた、ただ一つの絆。
おっとりと笑いながら、たわいない話をしてくれるひと。
血に塗れた自分と手をつないでくれるひと。
こんな自分を“弟”と言ってくれるひと。
ジークにとって、葉月は暖かい光そのものだった。



ジークは誓いを新たにする。
初めて手に入れた守りたいものだ。
誰が何と言おうと、守り抜く。
ジークの顔つきが変わった。
それを見たカーサは更に笑みを深くして続ける。
「そう、葉月は強い。そして賢い。周りを使うことを知っている。だが……無敵でも不死身でもない」
カーサはそこで一旦言葉を切り、ジークの髪をぐいっと引っ張り顔を上げさせた。
横からジークの顔を覗き込む。
カーサの薄茶色の瞳を、ジークはまっすぐに見返した。
西日に照らされ、二人の影が長く赤く染まった地面に伸びる。
そして何もかも見透かしたように、悪魔がささやいた。
「お前のその誓いが、葉月を殺すんだ」
「なっ……」
ジークの目が大きく見開かれる。
頭を鈍器で殴られたような衝撃を受け、カーサの声もどこか遠くから聞こえてくるようだった。
しかし、あまりにもはっきりと、ジークの脳髄を揺さぶる。
「お前は強い。面白いぐらいに強い。これからまだまだ強くなる。並みの輩じゃ倒せなくなる。じゃあ、お前を殺したいヤツはどうするか。簡単だ。葉月を狙う。お前が葉月を大事に思えば思うほど、守りたいと思えば思うほど、敵は葉月を狙う。葉月を狙えば、お前は自分よりも葉月を守ることを優先するだろう。その結果、お前は傷つき、葉月を危険にさらし……そして、お前も葉月も死ぬ」
再び、稽古場に風が吹き込んだ。
先ほどよりは弱い風だが、木々はざわざわと音を立てて揺れる。
その音にかき消されそうなほど、弱々しい声がジークの口からこぼれ落ちた。
「ねえさんを……守るな……と言うのですか……」
「いいや。いいんじゃねぇの」
カーサはあっさりと否定する。
それどころか組み敷いていたジークの背から足を下ろし、さっさと立ちあがった。
ジークは混乱したまま、ぼんやりとカーサを見上げる。
逆光でその表情まではよく読みとれないが、物騒な気配はなりを潜めている。
蔑むのではなく、嘲笑うのでもなく、強いていえば何かを懐かしむような気配をまとったカーサは、地べたに這いつくばったままのジークを見下ろして言う。
「ただ、その矛盾と危険だけは知っとけってこった。あと、お前の姉ちゃんは一方的に守られているような軟弱な女じゃねぇよ。言ったろ? したたかだって」
「はい。それは……わかっていますが……」
「じゃあ頼ってやれ。弟は姉に迷惑かけてナンボなんだよ。お前が葉月を守りたいと思うなら、貫き通してみろ。その結果、葉月に迷惑がかかったって揺らぐなよ。お前に足りない分は葉月が補うだろ。葉月に足りないものをお前が補ってやればいい」
そう言って、カーサは母屋へと戻って行った。
もう暗くなるし、ちゃんと医務室行っとけよ、という言葉を残して。



ジークはその後ろ姿を、狐につままれたような気分で見送った。
唐突で乱暴な方法だったが、自分は諭されたのだろうか。
ねえさんを守るというのは、直接的な意味だけじゃないということを気付かせようと、わざと残酷な言葉を選んだと?
一筋縄ではいかないと聞いていたが、本当によくわからない人だ。
よくわからないといえば、今の自分の状態もそうだ。
あれほど動揺したのが嘘のように落ち着いている。
余計な憑きものが落ちたというか、覚悟を決めさせられたというか……。
ぼんやりとしているのに感覚が研ぎ澄まされている。
この体になって、忘れてしまっていた感覚だ。
この世界に来て、親分に拾われて、元の世界に比べればずっと平穏で、ぬるま湯のような生活に慣れかけていたところに、冷水を思いっきり浴びせかけられて目が覚めた、というところだろうか。
思いっきりついた土埃を払いながら、ジークは立ちあがる。
陽は完全に落ちた。
黄昏の時間は終わりだ。
もう少ししたら、おとり捜査の面々はこの屋敷に戻って来るだろう。
ねえさんは、きっと無事だ。
根拠はないが、なんとなく確信はある。
今だって心配には違いないが、先ほどまでの焦燥感はなりを潜めている。
なんとなく、無性に、ねえさんの顔が見たくなった。
ジークは小さな笑みを浮かべると、こめかみの傷の手当てをしてもらう為、医務室へと足を向けた。