混沌なき箱庭 5‐6

混沌なき箱庭 5‐6

 葉月たちがケヴィンと合流した時から、時間は少し巻き戻る。
沈む夕日に照らされて赤く染まった<テーラン>の本拠地の窓から、街を見つめるひとつの影があった。
ジークである。
毎日学問所から帰ってきた後は、首領直属の他の団員と剣の稽古をするか、仕事場で雑用に追われているかだったが、まれにぽっかりと暇になる時がある。
そんな時は文字の書き取りをすることになっているのだが、ここ三日はその手が止まりがちだった。
首領直属の団員たちの仕事場の中でジークの席は比較的窓側にある。
窓の外を見つめるジークの目には、不満と焦燥が渦巻いていた。
「ジーク。手が止まってるぞ」
向かいの席に座っているジークの指導役であるライナスが、手元の書類から目を離さずに言う。
「……すみません」
答えるジークの声は暗い。
分かりやすいヤツだなぁ、と思いながら、ライナスは顔を上げた。
「そんなに姉さんが心配か?」
「はい」
あまりにきっぱりした返答に、ライナスの顔に苦笑が浮かぶ。
「心配しなくてもタイロンや実行部の連中が一緒だ。それに嬢だって弱くはないだろ」
それはジークも分かってはいたが、納得出来ているかというと話は別だ。
葉月が実行部からおとり捜査の協力依頼があったと聞いた時、ジークは自分も参加すると訴えた。
しかし、ジークの訴えは、おとり捜査を指揮するケヴィンにあえなく却下されてしまっている。
『お前くらいのガキは被害にあってない』『むさくるしい野郎ばっかりの中にガキが混じっていると余計に目立つ』『目の前でお嬢様が襲われたら、生け捕りにしないで殺すだろ』と言われ、ジークも反論出来なかったのだ。
ケヴィンがジークの参加を拒んだのは、特に最後の理由が大きい。
<黄昏の怪人>と呼ばれる犯人は、殺害だけではなく誘拐の容疑もかかっている。
行方不明者の居場所を吐かさずに殺すことは出来ない相談だった。
葉月自身にも諭され一応は引いたものの、心配は日毎に大きくなるばかりだ。
「相手は殺人鬼です。あちらは殺すことに抵抗がないのに、ねえさんたちは生かして取り押さえなければならないでしょう? 心配するなと言われても無理です」
「まぁな。けど、よっぽど」



ライナスの『姉さんが大事なんだな』という言葉は、勢いよく開いた扉の音にかき消された。
首領直属の仕事部屋の扉をこれだけ乱暴に開けてくる者は一人しかいない。
彼らの上司。戦列の<テーラン>の女首領、カーサである。
ライナスは、もっと静かに開けてください、という文句を寸でのところで飲み込んだ。
首領補佐のゾルが口を酸っぱくして言い続けても聞かない相手だ。
平のライナスが言っても詮のないことだろう。
<テーラン>の中では割とまともな部類に入るライナスは、その分苦労性であった。
カーサはそんな部下の心情を知る由もなく、殺風景な部屋を見回し、落胆の声をあげる。
「なんだ。お前ら二人しかいないのか……」
「皆それぞれの用事で出払ってますよ。もうすぐ都市間会合の時期ですし、例の事件の件もあって市との調整やら苦情処理やらなんやらで忙しいんです」
「ふぅん。で、お前暇?」
のんきにもほどがあるカーサの言葉に、ライナスの眉間がひくつく。
理性を総動員しているが、答える声は低かった。
「見ての通り、始末書の確認中です。あとこちらの山は親分の承認が必要な書類ですからね」
たんまりとした書類の山を示され、カーサの顔にはありありと『うんざりだ』という表情が浮かぶ。
「そういう面倒なのはブノワかヴィリーの仕事だろ?」
「面倒なところはおっしゃる通り、副長や参謀が処理されてますよ。あとは親分の確認と承認だけです」
「なのにこんなにあんの?」
恨めしげな視線を書類の山に向けるカーサに、ライナスはぴしゃっと言い切る。
「貯めてる親分が悪いんです。コツコツやっていればこんなには貯まりません!」
「だってさぁ、面倒だろ」
毎度同じようなことをゾルに言われているカーサだったが、改善された試しがなかった。
今回もまるで懲りた様子はなく、本当に面倒で仕方なさそうだ。
<テーラン>の中では常識人のライナスだったが、事務仕事の分野で上司に遠慮すると自分に余計な火の粉が降りかかってくることをよぉく承知していた。
むしろ、これは首領直属の中では常識に近い。
「おーやーぶーんー」
ドスの利いた声と座った目の部下に、カーサは肩をすくめてみせた。
「わぁったよ。体動かした後でな」
全ッ然わかってない、と頭を抱えるライナスを尻目に、カーサは黙って二人のやりとりを見ていたジークへと目を向ける。
「ジーク。お前は暇だろ?」
「出来る仕事がないと言えばその通りですが……。やらなければならないことという意味なら書き取りがあります」
そう答えたジークは、ちらりとライナスに視線を向ける。
視線を受けたライナスは、盛大なため息をついた。
彼の中で目まぐるしく計算が働いたが、結局はジークを人身御供に差し出すことにしたようだ。
「もうすぐ暗くなります。手短に。あとジークは怪我が治ったばかりですので、お忘れなく」
それでも指導役として、釘を刺すことは忘れなかった。
その親心を知ってか知らずか、カーサはにんまりと笑う。
「真剣じゃなくて、刃ぁ潰したのにすっから心配すんなよ」
「刃を潰していたって、親分の馬鹿力で振るわれた剣を受ければ死にます。ジーク、気をつけろよ」
真剣な眼差しのライナスに、ジークは深くうなづいた。
「はい。親分の剣は一度となく見ています。あれを見て油断出来る者がいるとは思えません」
カーサの剣はまさしく豪剣だ。
元の体でもあれを正面から受けろと言われたら、少々ためらう。
ましてや非力で軽いこの体では、正面からどころか、カーサがどんな体勢でも一太刀受ければ吹っ飛ぶに違いない。
首領直属の団員たちとの稽古で、この体での戦い方を掴みかけていたジークではあったが、カーサ相手では稽古といえども命がけだ。
副長直属のタイロンは手加減が苦手であるが、カーサは手加減をする気がない。
戦列の<テーラン>の団員には戦闘狂が多い。
ケヴィンなどもその手合いだ。
しかし、<テーラン>の中で一番戦いに飢えていて、一番危険なのは、間違いなく首領であるカーサだった。



西日が差す庭の一角にある稽古場は、いつもなら何羽かの鳥がねぐらとして戻って来ている頃だったが、今は一羽たりとも姿がなかった。
ピリピリした殺気に満ちた稽古場に、好き好んで近づく野生生物はいない。
風で揺れる木々の他に、動く影は二つだけだ。
なぎ払うように振るわれたカーサの剣を、ジークはあえて相手の懐に入るようにして避けた。
ジークの武器は二振りの短剣だ。
身長差なども相まって、ジークの間合いは狭い。
それを補うのは、機動力と度胸だ。
脚の腱を狙うように低い体勢でカーサへと突っ込む。
カーサは剣を戻すより蹴りを選んだが、ジークはそれも読んでいた。
カーサの利き手の左とは逆に転がり、全身をバネのようにして飛び上がる。
狙いは首だ。
カーサは小さく舌打ちし、あえて右へと体を捻った。
ジークの短剣を避けながら、刃ではなく柄の先でジークのこめかみを打つ。
手ごたえは浅かったが、金具が引っ掛かったのか、小さな血飛沫が舞う。
ジークは後ろに飛びすさり、袖口でぐいっとこめかみを拭った。
頭は怪我自体が大したことがなくても、血がよく出る。
額でないのが幸いだ。
額が切れると、血が目に入る可能性がある。
ジークは荒い息を整えながら、攻めあぐねていた。
カーサは強かった。
今も息ひとつ乱さず、にやにやとジークを見て笑っている。
あの街道での戦い以外にも、何度か他の団員たちを相手に戦うカーサを見たことはあったが、実際に戦ってみるとよく判る。
元の世界でもここまで強い者はいなかった。
カーサは確かに女性としては長身な方だろう。
だが、ブノワのように背が高いわけでも、タイロンのように厚い筋肉をまとっているわけでもない。
体格で言えば、ケヴィンにも劣るだろう。
それでも、カーサが最強だ。
荒くれ者たちが女性であるカーサを親分と慕うのは、この圧倒的な強さが彼らを惹きつけてやまないからだ。
強い者に惹かれるのは、本能だろう。
ジークにもそれはよく解る。
しかし、カーサにこうも遊ばれているようでは、ねえさんを守ることなど出来ない。
ジークは焦る気持ちを抑えようと歯を食いしばった。
奥歯がぎりっと音を立てる。
その途端、面白がるように笑っていたカーサが、さぁっとつまらない物を見るような目になった。
ジークがその落差に驚くと同時に、突風が稽古場に吹き込んだ。
土埃が舞い上がり、ジークは思わず目を細める。
土埃に紛れ、カーサの姿が消えたことに気付いたジークは、ぞくりとした悪寒を感じてその場から逃れようとした。
が、遅かった。
後頭部を後ろから掴まれ、勢いよく地面へと叩きつけられる。
背中を踏まれ、後頭部の髪を掴まれて顔を上げさせられたジークの顔が苦痛と混乱で歪む。
何がカーサの気に障ったのか解らない。
ジークは混乱したまま、傍らにしゃがみ己を踏みつけているカーサへと視線を向けた。
カーサが心底つまらなそうな顔で口を開く。
「お前さ、今、くっだらねぇこと考えてただろ」
疑問ではなく断定で突き付けられた言葉にジークが反駁(はんばく)する間を与えず、カーサは言葉を重ねる。
「どうせ葉月のこったろうが、今のままじゃ、お前、葉月のお荷物にしかならねぇぞ」
ジークの瞳が見開かれる。
その言葉はどんな刃より鋭く、ジークの心をえぐりとっていた。