混沌なき箱庭 5‐2

混沌なき箱庭 5‐2

 夕暮れ時の路地を一人の少女が歩いている。
お使いにでも出ていたのか、その腕には籠を抱えていた。
その歩みは早く、軽く駆け足になっている。
少女は時折、不安げな顔で後ろを振り返る。
まるで、何かに怯えているかのように。
自分の長い影が伸びる路地を振り返り、誰もいないことに安堵と不安の両方を覚えた少女は、前を向いて足を止めた。
曲がり角から、怪しい男が現れたからだ。
目深に外套(がいとう)のフードをかぶった男は、にたにたと笑いながら少女に近づいてくる。
少女は籠を抱きしめ、後ずさった。
怪しい男は怯える少女に嗜虐的な喜びを感じ、ゆっくりと、だが確実に少女との距離を詰めていった。
そして、ことに及ぼうとしたその時、路地裏に野太い声が響いた。
「おらっ、取り押さえろ!」
その声と同時に、辺りからわらわらと男たちが飛び出してきて、怪しい男を取り押さえた。
「お嬢、大丈夫か?」
飛び出してきた中でもひと際大柄な男が、少女に駆け寄る。
少女は先ほどまでの怯えた顔ではなく、おっとりと笑ってうなづいた。
「はい、タイロン。大丈夫ですよ」
何が起こったのか呆然とする男は、ぐいっとフードを取り去られ、両膝をついて顔をあげさせられる。
その拍子に、外套の前がはだけた。
あり大抵に言うと、男は外套の他に何も身につけていなかった。
下半身も丸出しである。
路地裏の時が、一瞬止まった。
そして、男を取り押さえていた内の一人が、がっかりしたようにつぶやく。
「なんだ、変態か……」
「変態だな」
「ちっ、紛らわしいことしやがって」
取り押さえていた男たちは、口々に不満を言い、あまつさえ取り押さえていた男の腕を放した。
こんなのに構っている暇はねぇ、とでも言うようだ。
露出狂は何故自分が解放されたのか分からなかったが、好機とばかりに目的であった少女の前に踊り出て、外套の前をがばっと開いた。
羞恥に染まる顔や、悲鳴を期待していた露出狂であったが、少女が浮かべたのは薄ら笑いであり、その口から出たのは「で?」という一言だけであった。
露出狂は少女の予想外の反応に戸惑い、一旦外套の前を閉じてから、もう一度ばっと広げて見せた。
少女はちらりと男のモノを見て、「だから?」と冷たい声で言い放った。
その反応に戸惑ったのは少女の傍らに立つ大柄の男も同様なようで、
「お、お嬢?」
と、薄ら笑いを浮かべている少女の顔を伺う。
少女の目は、とても冷ややかだった。
「その汚らしくて粗末なモノを見せつけて、どうしようって言うの?」
「え……あの……」
自分より絶対的に弱者であるはずの少女の口から飛び出す侮蔑(ぶべつ)の言葉に、露出狂は外套の前を開いたまま固まる。
「その貧相な体を見せつけて優越感に浸るの? 幼気(いたいけ)な乙女に一生残る心の傷を負わせて?」
「そ、その……」
蛇ににらまれた蛙の心境というのは、こういうことをいうのだろうか。
露出狂は冷や汗をかきながら、自分の不運を嘆いた。
「こういうのを社会のゴミとか害虫って言うのよね。いえ、人にとっては害虫でも自然としては必要な存在なんだもの。こんなクズと一緒にしたら、虫が可哀想か。こういう底辺の存在自体が害悪で何の役にも立たないカスを表す言葉が見つからないなんて、自分の語彙のなさが情けないわ。あぁ、しかも、こういうヘドロみたいなのに限って、再犯するのよね」
「あ、あ、あ」
露出狂の目にはうっすらと涙が浮かんでいたが、少女は冷たい目で男のモノを見下ろして、容赦なく言い放った。
「いっそのこと、切り落としてしまえばいいんじゃないかしら」
その言葉に込められた本気と冷たさに、露出狂だけでなく周りの男たち全員がさっと内股になった。
タイロンと呼ばれた男も内股になりながら少女の肩に手を置き、
「お、お嬢。もうその辺にしといてあげてくれ」
と、同情に満ちた言葉で懇願(こんがん)する。
しかし、少女は冷ややかな目でタイロンを見上げた。
「タイロンはこのワラジ虫以下の矮小(わいしょう)な存在の味方なんですか?」
「も、も、も、もちろん、こんな変態の味方なんかじゃねぇよ!」
ぶんぶんと両手と首を横に振るタイロンの言葉にうなづいた少女は、周りの男たちを見回して口を開いた。
「皆さんも、このウジ虫以下の下劣な犯罪者を許したりはしませんよね?」
「も、もちろんだぜ。なぁ?」
「あぁ、許せねぇよ」
「おぅ。絶対に許せねぇよな」
許したりしたらお前たちも同罪で同列だと言わんばかりの冷たい目で見られ、男たちは慌てて露出狂を取り押え、縄で後ろ手を縛り上げる。
その様子を見て、少女――葉月は大きくため息をついた。
葉月とタイロンが作戦に加わってから三日が経つが、捕まえられたのが変態一匹では、ため息も出ようというものだ。
戦列の<テーラン>が血眼(ちまなこ)になって探している犯人は、今もこの黄昏の中、犯行に及んでいるかも知れないのだ。



戦列の<テーラン>は自警集団である。
新興地区の治安を担う、とても簡単に言ってしまえば、ヤクザのような警察、いや、警察のようなヤクザの方が実態に近いだろうか。
基本的には、四つの部隊からなる実行部が実際の調査や取り締まりなどを行う。
諜報部もあるが、こちらは普通の犯罪を調査するというよりは、他の地区の情報を収集する役割の方が強い。
ただし、<テーラン>の組織というのは、それほど厳密な役割の住み分けをしているわけではない。
手柄の取り合いがまったくないといえば嘘になるが、部署同士が手を組むことは普通で、人手や人材が足りない時は、他の部署から応援を頼むことも良くあることだ。
特におとりになるような人材は、とても少ない。
何せ、“戦列の”という語が頭につく組織である。
戦いのために作られた組織であることは疑いようがなく、団員はむくつけき男どもばかりなのだ。
だから、葉月はタイロンと共にブノワに呼び出され事情を聞いた時、自分が選ばれるのは当然の成り行きだろうと思った。
副長執務室に居るのは、部屋の主である戦列の<テーラン>副長のブノワ、その補佐であるトーリスと、呼び出された葉月とタイロンの四人。
呼び出された、と言っても、隣の部屋からである。
副長執務室の隣が、副長直属の配下の仕事部屋なのだ。
以前は同じ部屋だったのだが、配下の内の二人があまりにうるさい為、ブノワがキレて部屋を別にしたという経緯がある。
その原因の内の一人は、もちろんタイロンだ。
現在時刻はお昼もとっくに過ぎ、そろそろ西日が差し始める頃。
陽が射し込む窓を背に執務机に座るブノワの顔は険しい。
組織の運営はもちろん、他の組織や市との交渉も担当するブノワはかなりの多忙だ。
それでもこのような顔をしているのは珍しい。
どんなに忙しくとも、余裕綽々といった顔をしているのがブノワなのである。
傍らに立つトーリスが難しい顔なのはいつものことだが、いつもよりも眉間のしわが深い気がする。
葉月は上長たちを観察し、厄介事が起こっていることを悟った。
二人が並ぶのを待って、ブノワが重々しく口を開いた。
「実行部から協力要請が来ている。葉月に、だ」
「私に、ですか?」
葉月は何故自分が指名されたのか分からず、首を傾げる。
<テーラン>に見習いとして入ってから数週間が経っているが、やっていることは鍛錬と学業と雑用ばかりだ。
何かしらの成果をあげたわけではない。
それなのに他の部署から協力要請とはどういうことだろう。
疑問に思ったのはタイロンも同様のようで、ちらりと葉月を見下ろしてブノワに問いかける。
「お嬢に実行部から協力要請って、何の件で?」
「最近発生している連続誘拐殺人事件のおとりとして、だそうだ。あの事件の被害者は十代、特に女性が多く狙われている。諜報部のアンジェリカも出ているらしいが、おとりが一人だけでは効率が悪いからな」
その事件は、葉月も聞いていた。
もう三週間以上前から発生している事件だ。
被害者の多くは十代の若者で、特に女性の数が多い。
数日間行方不明になった挙句、人通りの少ない路地裏で滅多刺しの惨殺死体が発見されるという。
中には行方不明のままの者もいるようだが、その残忍な手口と行方不明になる時間帯の多くが夕方ということで、ちまたでは<黄昏の怪人>と呼ばれているらしい。
<テーラン>が見回りを強化しているにも関わらず、この短期間に遺体は発見されているだけで七人。
行方不明者を含めれば二十人以上と言われている。
コケにされた形の<テーラン>実行部はかなりピリピリしていて、犯人検挙に全力をあげていた。
「むやみやたらなおとり作戦にはあまり乗り気はしないが、あの事件のせいで<テーラン>に対する風当たりが強くなってきているからな。やってくれるか、葉月」
ブノワがひたと葉月の目を見つめて言う。
文体としては問いかけだが、実際には命令だ。
葉月はそれを承知で、うなづいてみせた。
「えぇ、もちろんです。お父様」
葉月の返答に、ブノワは満足げにうなづく。
「で、俺は何で呼び出されたんだ?」
いまいち分かっていない様子のタイロンを、ブノワが半眼でにらみつけた。
「話の流れで解れ、馬鹿。実行部は人手不足なんだ。どうせお前は書類書きには向いてないんだから、体を動かせ。葉月と一緒に実行部に協力しろ」
「……おっさん、俺とお嬢じゃ態度が違わねぇか?」
「上司をおっさん呼ばわりする馬鹿に対するのと一緒の態度で娘に接する父親がどこにいる」
ブノワがきっぱりと言い切った。
なんだかんだ言って、ブノワは父親役を楽しんでいた。
葉月の着ている服や小物の大半は、ブノワが選んで買ってきたものだ。
女ったらしなだけはあって、その趣味は良く、葉月の雰囲気に合った、華美ではないが少し大人っぽいものが多い。
女性に服を贈る場合、受け取るにも普段着るにも困る高価な服を買い与えるという話は良くあるが、ブノワの場合はその辺りもよく分かっていて、この年頃の少女がよく着ている服を選んでいる。
だからといってブノワが葉月を溺愛しているかというとそうでもない。
やはり父親役を楽しんでいる、と言うのが適切だろう。
必要とあれば、危険な任務を割り振ることもためらうことはない。
ブノワというのは、そういう男だった。



そんなわけで葉月とタイロンは、実行部に協力しておとり作戦を実行しているわけだが、その成果は芳(かんば)しくない。
聞くところによると、もう一組の諜報部のアンジェリカをおとりにした方も、似たような状況らしい。
せめて目撃情報でも得られれば手がかりになるのだが、そちらも有力な情報がなかった。
まさしく怪人のごとく、誰にも見られることなく、犯行が行われているとしか考えられない。
被害者の共通点といえば、十代の若者である、というくらいしかないのだが、もしかしたら何か見落としがあるのだろうか。
葉月やアンジェリカがおとりではいけない理由が。
そこで、葉月ははたと気づいた。
葉月はアンジェリカに会ったことがない。
いったい、どういう人物なのだろうか。
諜報部の人間は、部長であるチェスターを含めて、屋敷どころか新興地区にいること自体が少ない。
他の地区や都市への潜入調査が主な任務なのだ。
実はアンジェリカの名を聞いたのも、今回の作戦が初めてだった。
「タイロン、アンジェリカさんって、どういう方なんですか?」
葉月が傍らのタイロンに尋ねると、タイロンは困ったように目を泳がせた。
「あー、あいつか。あいつはなんていうか……あれとは違った意味で……変態だな」
「は? 変態……なんですか?」
目をぱちくりして、葉月はタイロンを見上げる。
変態とは、予想だにしていなかった人物像だ。
「おう。確かに顔は可愛い。可愛いが……変態だ。俺、あいつは苦手なんだよなぁ」
「はぁ」
遠い目をするタイロンに、葉月は首を傾げざるを得なかったが、タイロンの言葉の意味を知るのは、このすぐ後のことだった。