混沌なき箱庭 5‐15

混沌なき箱庭 5‐15

 ギリッという奥歯が軋む音がする。
葉月は、自分自身に対する腸(はらわた)が煮えくり返るような憤(いきどお)りを、既(すんで)の所で呑み込んだ。
今ここで怒りに呑まれるわけにはいかない。
怒りはよい結果を決して生まない。
その場はよくても、残るのは後悔だけだ。
気持ちを切り替えるべく、短い息を吐いて、自身の頬を張り倒す。
痛い。
しかし、じんじんとした痛みと共に、胸の奥にある重く苦しいものが少しだけ薄らいだ。
今は、それでいい。
隣のアンジェリカやジークが驚いた顔をしたが、葉月はそれに構うことなく、倒れた黒外套の男の首に指を当てる。
肌はまだ生きているのと同じ温かさであるが、伝わってくるはずの脈動は感じられない。
常にはハの字に下がっている眉をひそめ、確信する。
即死だ。
心臓は肋骨によって守られているが、矢はどうやら的確に骨の隙間に入ったらしい。
しかも左胸だけではなく、ご丁寧に喉まで狙っている。
口封じが目的なのは明らかだった。
腹の底から再び込みあがってくる怒りを抑えながら報告の為カーサたちの方を振り向くより早く、葉月の隣を黒い風が駆け抜けた。
「オズワルド、ここは任せた! タイロン、ジーク、ついて来い!」
カーサは一度も振り返ることなく、道を駆けて行く。
「うっす」
短い応(いら)えを返して、大剣を担いだタイロンがその背を追った。
二人ともえらく速い。
長身で筋肉もついているのにしなやかなその走りは、野生の獣を彷彿(ほうふつ)とさせる。
タイロンと共に名前を呼ばれたジークは、一瞬不安げな顔で葉月を振り返った。
その視線を受けて、葉月は珍しく鋭い声を上げる。
「私に怪我はない。早く行きなさい!」
「! はいっ」
葉月の声に弾かれたようにジークが駆け出した。
体に似合わぬ速さで、小さな背が遠ざかる。
あれならば、何とか先に行った二人とはぐれることはないだろう。
そっと息を吐いてその背を見送った葉月は、近づいて来る足音に裾を叩(はた)いて立ち上がった。
振り向くと同時に、低い声が降ってくる。
「報告しろ」
オズワルドが鋭い目でおとり役の二人を見下ろしている。
視線と同じく鋭い声に、自然と背筋が伸びた。
葉月とアンジェリカではアンジェリカの方が先輩格だが、黒外套の男の死を確認したのは葉月である。
短く簡潔な命令に、葉月も枝葉を落とした報告を述べた。
「この男は即死です。脈がありません」
「そうか……死体は荷車を用意するから置いておけ。残る黒外套の奴らは無事だが、団員の中に流れ矢にあたったのが何人かいる。見たところ命に別状はなさそうだが、遅効性の毒の可能性は否めん。早々に引き上げるぞ」
「「はい」」
本拠地への引き上げは二手に別れるとのことで、葉月とアンジェリカの二人はケヴィン側に行くように指示された。
黒外套たちの護送中に再び襲撃されないとも限らない。
市街地では人数が多過ぎると乱戦になった場合に混乱する可能性が高い。
タイロン側に居た団員を二手に分けるにしろ、戦力として心許ないおとり役の二人は主犯格とみられる女よりも手下の男の方に付けておこうという判断だろう。
それは正しいと、葉月も思う。
踵を返して戻り行こうとしたオズワルドに、葉月は、
「申し訳ございませんでした」
と言って深く頭を下げた。
重要参考人を死なせてしまうという失態は、明らかに葉月の判断ミスのせいだ。
しかし、オズワルドは歩みも止めず、一言だけ返してきた。
「話は後で聴く」
「はい」
頭を上げた葉月の顔には、硬い表情が浮かんでいた。



アンジェリカはケヴィンの元へ向かう途中、ちらりと傍らの葉月を見下ろした。
いつものおっとりとした笑みはなく、たれ目がちな瞳には微かな苛立ちが浮かんでいる。
随分と大人びて見えるから、こういう時に感情を表に出す類の人間ではないと勝手に思っていたので少し面食らう。
一応は年下であると思っている少女の意外な一面を知って、アンジェリカは慰めの言葉を口にした。
「えーと、あれは葉月のせいじゃないよ」
すると葉月はぴたりと足を止めた。
つられてアンジェリカも足を止める。
葉月はまじまじとアンジェリカの顔を見上げた後、ふわりと微笑んだ。
人を安心させるような、優しい笑みだ。
その口から出てくる言葉の口調も優しい。
ただ、中身だけが硬く厳しいものだった。
「ありがとうございます、アンジェリカ。ですが、あの男が死んだのは私の判断違いのせいです。責任は私にあります」
「えっ、いやっ、でも……」
「アンジェリカ」
慌てて否定しようとしたアンジェリカを、葉月が名を呼んで制する。
アンジェリカに向けられた灰青の瞳に先程まで見られた苛立ちはなく、一見穏やかに見えた。
しかし、アンジェリカとて市井に紛れて諜報活動をしている身だ。
心の機微には敏い方だと自負している。
葉月の穏やかな瞳は蜃気楼のようなものだ。
それ自体に実体がない。
温かみのある優しさの奥に、凍てつくような厳しさが潜んでいる。
それを感じ取ってしまったアンジェリカの首の後ろがぞわりとした。
たとえ自分に向けられたものではなくても、その静かな冷たさは恐ろしい程だ。
アンジェリカが目を丸くして息を呑むと、それに気づいた葉月がふふっと笑い、目を細めた。
「アンジェリカだって、分かっていますよね」
何が、とは言わない葉月だったが、意味が読み取れないアンジェリカではない。
しかし内容に同意するうんぬんの前に、気がつけば勢いに押されてうなづいていた。
「……うん」
アンジェリカの答えに、葉月はにっこりと笑う。
「さぁ、行きましょう。ケヴィン隊長を待たせるとまた怒られてしまいますからね」
そう言ってさっさと歩き出した葉月の背を追いながら、アンジェリカはこの少女の本質に気づいた。
恐ろしく気位が高く、自身に厳しい。
相手を自分の思い通りに動かす術を知り、自身の一挙一動に意味を込められる人間。
間違いなく、人の上に立つことを要求されてきた者だ。
(蛇……か)
アンジェリカの上司である諜報部長チェスターが言っていた。
カーサが葉月のことを『蛇』と称した、と。
女の子相手に酷いなぁと、その話を聞いた時は思ったが、今は違う。
やはり親分は本質を掴むのが上手い。
年下の少女相手に、蛇に睨まれた蛙の気分を味わうとは思ってもみなかった。
あれで十三だというから、末恐ろし過ぎて身震いしそうだ。
アンジェリカが知っている十三の娘というのは、生意気だったり口達者だったりしても、もう少し可愛げというか甘さがあるような気がする。
(さすがは副長の娘、っていうべきかな……)
アンジェリカは若干の違和感を抱きつつ、自身の精神衛生上そのように思い込むことにした。



戦列の<テーラン>の本拠地の中で幹部が集まって会議をするのは、大抵の場合は副長の執務室と相場が決まっていた。
首領であるカーサの執務室が面積的には一番広いのだが、本人がデスクワーク嫌いの上、首領補佐のゾルも無益なことをしないタイプなのでカーサを執務室に押し込めるようなことはしていない。
その結果、首領執務室はカーサの私物や首領直属部隊の備品等で溢れかえって雑然としており、半分物置のようになっている。
副長執務室の一角を占めている楕円の卓を囲んで座っている幹部たちの表情は一様に渋い。
「……ており、射手を確保することは出来ませんでした。なお、親分とオズワルド隊長が射手であろう影を目撃した現場から約三十リウほど離れた建物の屋上ですが、弦の切れ端が落ちていました。射手が意図的に残していったものと思われます」
幹部たちの中で一番の若手であるヴィリーが報告書を読み上げる。
三十リウというと、メートル法に直せばだいたい百メートルといったところだろうか。
そこから黒外套の男の喉と心臓を射ぬいたのだ。
オズワルドやケヴィンが弾いた矢も、残る黒外套たちの急所を的確に狙っていたらしい。
こちらの弓とは多少構造が異なるものの、日本の弓道の遠的とて一般的な射距離は六十メートル、一番遠いもので九十メートルだ。
建物の屋上から放ったのだから飛距離は伸びるとして、的は急所、あまりに小さい。
文字通りの矢継ぎ早の連射といい、恐るべき肩と技術を持った射手である。
「次に確保した黒外套たちの供述ですが、やはり<ゼルダの使徒>のようです。被害者たちを忌子(いみご)、つまり<世界の落とし子>とみなして殺害したと吐きました。行方不明になった日と殺害日がズレている件については、ゼルダへの供物とするのに良い日を選んだとのこと。ただ、現在行方不明になっている数名のことは知らないと言っています。アジトの場所を男の方が吐いたので、朝を待ってオズワルド隊長とケヴィン隊長が十五名ほど率いて調査に向かう予定です」
ヴィリーが「以上です」と言って座ると、諜報部長のチェスターが左手を上げた。
チェスターは三十代半ばくらいの、これと言って特徴のない男である。
強いて言えば柔和な雰囲気の持ち主であるが、後からこの男の似顔絵を書けと言われたら戸惑うことは間違いない。
どこにでも居そうで、すれ違っても気にとめることはないだろう平々凡々な姿をしている。
一見ただの印象の薄い男であるが、優秀な諜報員で情報のプロだ。
ブノワに促され立ち上がったチェスターは、ちらりと手元の資料に目を落としてから口を開いた。
「先程入った情報ですが、他の都市でも<ゼルダの使徒>の活動が活発化しているようです。ちょうど半年後の都市間会合の頃がゼルダの大祭に当たりますから……<ウクジェナ>はゼルダが造った街ではないとはいえ警戒が必要でしょう」
チェスターは淡々と報告を述べて、席に着いた。
ただ一人、円卓に加わらずソファにふんぞり返ったカーサが、ぐいっと後ろに倒した顔だけをブノワの方に向ける。
「俺らだけで対応出来ると思うか」
形は問いかけだが、自分はそうだとは更々思っていない声音で尋ねる。
いつも飄々(ひょうひょう)としているカーサだったが、今日ばかりは不機嫌さを隠そうともしない。
射手に逃げられたことが余程面白くないらしい。
そんなカーサに、ブノワは肩をすくめ、
「番号付街と連携する必要が出てくるだろうな。まぁ、あちらさんがどこまで連携してくれるかは分からんが」
と前置きしつつ、まぁ、それは何とかしようと請け負った。
外との交渉は、副長の職務の一つである。
カーサはその答えににやりと満足気にうなづいた。
「新興地区(たんこぶ)は俺らの縄張りだ。上手くやれよ」
「言われるまでもないさ」
ブノワもにやりと不敵な笑みを浮かべる。
「うっし」
と、短い気合を入れて、カーサは腕の力で跳ね起きた。
腰に手を当てて居並ぶ幹部たちの顔を見回す。
「なかなか面白いことになってるが、おそらくこれからはもっと面白いことになるぞ」
ここにいる幹部の中で、カーサの言う『面白い』が『大変なこと』であることを知らない者は居ない。
ため息をつく者、愉快そうに笑う者、顔色一つ変えない者、反応は十人十色であるが、共通するのは強い意志を持った目。
多かれ少なかれ、ここには闘争本能の強い輩ばかりが集まっている。
所詮は『戦列の<テーラン>』という名を冠する集団に属する者たちだ。
世間のはみ出し者たちの代表は、獰猛な笑みを浮かべて腕を組む。
そして、腹の底から大きな声で発破をかけた。
「テメェら、気合入れて行け!」
「「「うっす」」」
男たちの気合の入った返答に、蝋燭(ろうそく)の灯りがゆらりと揺れた。



世界は停滞を止め、変化を始めた。
ある所では劇的に、ある所では粛々(しゅくしゅく)と。
もう誰もその変化を止めることは出来ない。
たとえ、神、それもこの状況を作り出したエルフィムでさえ、止めることはおろか望む形へ持って行くことさえ出来ない。
熟した世界の行く末は創造神の手を離れ、住む者たちの手に委ねられる。
熟す前に腐り落ちようとしていた箱庭の運命は、くるくると回り出した。
無事に熟すのか、結局腐り落ちてしまうのか、その結果を知る者は誰一人、ただの一柱もいやしない。
誰も知らないまま、ただただ、運命は回り続けていく。
激しく、静かに。
くるくる、クルクル、と。