混沌なき箱庭 5‐10

混沌なき箱庭 5‐10

 葉月は己が打った一手が悪手だと気がついていた。
どうやら自分で思っていたよりも、動揺してしまったこと自体に動揺していたようだ。
唐突に理解してしまった事実は、葉月に強い動揺を与えた。
それでも表に出たのは、本当に微かな細波(さざなみ)のような動揺だったはずだ。
これが並の相手ならば、葉月とて焦らずに誤魔化すことが出来ただろう。
しかし、相手は百戦錬磨の<テーラン>の幹部たち。
特にケヴィンは人の弱った所や突かれて嫌な所を正確にえぐってくる。
その認識が葉月を追い込んだのだ。
だいぶ面の皮が厚くなってきたと思っていたのだが、まだまだ未熟者だったというわけだ。
とにかく、一度打ってしまった手はもう戻せない。
反省は後回し、後悔などするだけ無駄なこと。
今はこの一手を利用し、どこまで自分に有利なように事を運ぶか、それを考えるべきだ。
引き際を誤れば、今までの努力が水泡に帰すだろう。
自分だけではなく、ジークまでそのとばっちりを食うことになる。
今、人知れず、崖っぷちに立っている。
そのギリギリ感に、心臓の鼓動はいつもより速くなっていた。
その反面、頭はどんどんクリアになっていくようだ。
背中を走るぞくぞくとした快感に、口角がにぃっと上がる。
考えろ。考えろ。
多少の怪しさを補ってなお、自身の立場を確立するにはどうしたら良いのか。
そもそも、自分はどうしてここに呼ばれた?
頭脳労働? 参謀のヴィリーが参加しているのに?
自分はそこまで賢さを買われているのか?
葉月はその考えを即座に打ち消す。
まさか。あんなアピールでそこまでの評価を得ることはない。
では何故?
求められていることは何か、現在の捜査方針と葉月が確信する犯人を考えた時、カチリとはまった。
なんてことはない。
これはお膳立てされた茶番劇なのだ。
多少、前倒しでシナリオを演じているようだが、大筋では間違いないだろう。
ならば、そのシナリオに乗ってしまえばいい。
もちろん、ただ乗っているだけでは面白くない。
帰結させるべきは犯人の捕縛。
だが、ついでに出来ることはある。
葉月はそれらをわずか数瞬の間に練り上げ、再び口を開いた。
「多少、おかしいとは思っていたんですよ」
浮かべる表情の形こそはにこやかだったが、静かに伝わってくる気迫とも呼べるものは冷え冷えとしており、歴戦の猛者である隊長たちも目を見張った。
「お嬢」
タイロンが引き留めようと葉月の肩に手を伸ばす。
新参者が幹部に盾つくなど、もっての他。
副長の娘という立場を傘に着れば、反発を招くことは必至だからだ。
指導役として止めるのは当然だった。
しかし、葉月は振り返ることなく、ゆらりと半歩斜め前に足を踏み出した。
タイロンの手が空を切る。
かわされたことにタイロンは驚き、目を瞬かせた。
葉月の動きに反応出来なかったからだ。
まるで蜃気楼をつかもうとしたかのようだった。
「お嬢……」
タイロンの位置からは葉月の表情は見えない。
静かな底冷えするような気配が伝わってくるだけだ。
タイロンには何故葉月がこのような行動をとったのか解らなかった。
人前で幹部に楯突くような、己の不利になるようなことは絶対にしない類の人間だ。
それが制止を振り切ってまで、何をしようというのだろうか。
何にせよ、自分の役目は葉月を止めることだ。
そう思い、席を立とうとしたが、羽織の裾を掴まれた。
隣を振り返ると、ヴィリーは興味深そうな顔をして笑っていた。
目配せで『止めるな』と言う。
「おいっ」
タイロンはその手を振り払おうとしたが、すねを蹴られて椅子に座り直した。
抗議の声をあげようとしたが、ヴィリーは既にタイロンの方を見ていなかった。
その瞳はか細い少女の背だけを映している。
おそらく、その頭の中でいろいろな計算が目まぐるしく踊っているのだろう。
この参謀にとって、葉月の行動は望むところのようだ。
それは<テーラン>の為になることだろう。
しかし、葉月の為になることとは限らない。
「ったく、知らねぇぞ」
タイロンは小さく毒づき、腕を組んで事態を見守ることにした。



葉月は凶悪で壮絶な笑みを引っ込め、邪気の欠片もない笑みを浮かべる。
その身にまとう気配が極寒の吹雪だとしたら、春の花園のような笑みだ。
灰青の瞳さえ、底は見えないが柔らかい。
つまり、総合してみるとかなりちぐはぐだった。
己でも相当に器用なことをしていると思いつつ、葉月は続けた。
「おとり捜査というのは、だいたいの犯人像が浮かんでいて、証拠がない場合に実施するものなんですよ。まったくの的外れなところでやっても意味がありませんから。稀にそうした闇雲なやり方をする所もあるでしょうけれど、参謀と隊長たちが揃っていてやるとは思えません」
「お褒めに与り光栄、とでも言っときゃいーのか、お嬢様?」
言葉尻をとらえ、ケヴィンが皮肉で混ぜっ返す。
オズワルドは難しい顔をして黙ったままだ。
葉月はそんな隊長たちを見据えたまま、少し待ったように首を傾げた。
「まさか。私の正直な気持ちですよ。だから、既に目星がついていた、と考える方が自然なんです。それに、実はその手掛かりは三週間ほど前に聞いていたことを思い出しましたから」
葉月はそこで一旦言葉を区切った。
じっと隊長たちを見つめる。
言外にここで言ってしまっても良いのか、という意味をこめて。
すると責任者であるオズワルドが盛大な舌打ちをした。
苦虫を噛み潰したよう、という表現がぴったりな顔だ。
オズワルドはつかつかと葉月との距離を詰め、鋭い目で見下ろした。
葉月が口を開こうとする前に、羽織の襟首を掴み、子猫のように吊るし上げる。
これには葉月も驚き、目を瞬かせた。
しかしオズワルドはそんな葉月に構うことなく、そのまま扉へと向かう。
ドアノブに手をかけたところで唖然としている者たちを振り返った。
「ケヴィンと…………タイロン、ついてこい。ヴィリー、後は任せた」
そう言い置いて、葉月を吊るし上げたまま、さっさと出て行ってしまう。
指名を受けたケヴィンとタイロンが後を追うと、捜査本部内は騒然とした。
犯人像が分かっているのでは? ということうんぬんよりも、“世間知らずのお嬢様”だと思っていた少女が見せた気迫に戸惑っているのだ。
特に葉月の表情がよく見える位置にいた者たちは、表情と気配の落差に得体の知れない恐怖を感じていた。
後姿しか見ていないヴィリーはそんな団員たちをまとめながら、ちらりと四人が出ていった扉を見やる。
タイロンを連れていく辺り、オズワルドにしては配慮をしたな、と思った。
少女のあれがハッタリかどうかは分からないが、どちらにしろ、オズワルドは耳を傾ける気になったらしい。
それが重要だ。
葉月がこちらの筋書きを読んだ上であのような態度に出たのなら、末恐ろしいというべきか……。
姉弟揃って普通ではないな、と思いながら、ヴィリーは今後打つべき手に備え、手早く指示を出し始めた。