ホワイト・クリスマス。

冬場が乾燥している太平洋側では、滅多にお目にかかれない現象だ。
それだけに街を行きかう人々は、例年よりも浮かれているようだった。
けれど透子(とおこ)には、ホワイト・クリスマスを喜ぶような余裕はない。
彼女の部屋には、飾りつけのされていないモミの木が、無惨にも転がっていた。

 

  


 

透子は一人、冷たい床の上に座っていた。
頬には涙が流れた跡が幾筋も出来ていて、彼女が長時間泣き続けていることは明白だった。
その手には鎖を通したひしゃげた指輪。
もちろんこの指輪は、元からひしゃげていたわけではない。
これを買った本人、透子にプレゼントしてくれるはずだった人は、もうこの世にいない。
クリスマス・イブの為に指輪を買いに行った彼は、その買い物の帰りに横断歩道を渡ろうとして、
赤信号なのに突っ込んできた居眠り運転のトラックにはねられた。
即死だったそうだ。
この指輪は、事故現場に落ちていたのを、鑑識の人が発見したのだという。
指輪の裏には「K to T」の刻印。
それを見つけた彼の遺族が、透子が持っていた方がいいと手渡してくれたものだ。
こんな映画や小説なんかで、よく見かける設定。
使い古され過ぎていて、これが自分の身に降りかかったことでなかったら、
きっと笑い飛ばしてしまっていただろう。
なんて陳腐な設定だ、と。
けれど、透子は笑えない。
起きた出来事を受け入れることが出来ず、心が凍ってしまったようで、
それなのに涙が溢れて止まらない。
彼の葬儀にはなんとか出席したが、それ以来、家を出ることもなく、
こうして暖房もつけずに部屋の隅で膝を抱えている。
折りしも今日はそのクリスマス・イブ。
事故さえなければ、今頃二人で過ごしていただろう。
そう思うと、また涙がぼろぼろとこぼれた。

 

どのくらい、そうしていただろう。
暖房も電気もついていない部屋で、透子の身体は完全に冷え切っていた。
けれど透子はそれを気にすることはない。
もう、そういった感覚もなくなってしまっていた。
コンコン。
窓を叩く音がした。透子の肩がピクっと動いたが、それだけだった。
透子の部屋はマンションの三階にある。
風で飛んできた何かがぶつかっただけだろうと思った。
コンコン。
だが再び、窓を叩く音がした。
それはノックのように響いた。
のろのろと透子は顔を上げたが、窓ガラスは曇っていて外を見ることは出来ない.
コンコン。コンコン。
もしかして、泥棒が家に人がいるのかどうか確かめているのかも知れない。
そう考えても、恐怖はなかった。
もしこのノックの主が泥棒で、顔を見た透子を殺そうとしてもいいと思った。
透子は自暴自棄になっていた。
長時間同じ姿勢でいた為、節々が痛くなっていた。
ふらつきながらも立ち上がると、窓に近寄り、曇ったガラスを手で拭いた。

 透子の息が止まった。
窓の外に、いるはずのない人間が見えた。
かじかむ手で、クレセント錠を開ける。
慌てて窓を開けると、その人物は片手を挙げて、何事もないかのように透子に話しかけてきた。

「よう、透子。お前、泣き過ぎてその顔、かなりヤバイよ?」

「こ、是孝(これたか)・・・?」

そこには、死んだはずの恋人が立っていた。

 

「ちょっと、邪魔すんな」
状態が把握出来ず、呆然としている透子の横をすり抜け、是孝が透子の部屋に入ってきた。
透子は慌てて窓を閉め、是孝の後を追う。

「ちょっと待ってよ、是孝。アンタ死んじゃったんじゃなかったの?」

「ん? そうだよ。今の俺はいわゆる『幽霊』ってヤツだな」
あまりにもさらりと言われて、透子は混乱した。

「はぁ? 幽霊? な、何言ってんの?そんな非科学的な!」
疑う透子に、是孝は黙って手を差し出した。

「何?」

「握手してみろよ」

「握手ぅ? 何ふざけてんの」

「ふざけてねぇって、俺は大マジメ。ほら、握手」
透子はおずおずと是孝の手に自分の手を重ねようとした。だが・・・。

「え?」
透子の手は、是孝の手を掴むことなく、すり抜けてしまった。
是孝の姿ははっきりと見えているのに、触れることはできない。
ただ暖かい空気を通った感触があるだけだった。

「な? 言ったろ。俺は幽霊だって」

「で、でも何で・・・」
戸惑う透子に、是孝は意地の悪い笑みを浮かべる。

「そりゃ、あれだよ。透子がいつまでもグスグスべぞべそ泣いてるから、成仏できねぇの。
だから神様にお前の未練、断ち切って来いって言われてやって来たんだよ」

「なっ、ホント?」

「さぁて、どうでしょう? ホントは透子の幻覚だったりしてな」
にやりとはぐらかすように是孝は笑った。
透子は眉間にしわを寄せて、そんな是孝を見上げる。
言いたいことは山ほどあった。
けど、どの言葉も喉につまって出てこない。
その代わりに涙が溢れた。

「おい、透子。泣くなって」
困ったような是孝の声が降ってくる。
涙と一緒に喉をふさいでいたものが流れて、透子は叫んでいた。

 

「何で、何で死んじゃったの、この馬鹿!
一緒にクリスマス祝おうね、って約束してたのに!
あたしがこの数日、どんな気持ちで過ごしてたと思うの!
しかも窓を拭ったら、すぐそこに是孝がいるのが見えて、ものすっごくビックリしたんだから!
しかも幽霊って何? 幻覚とか言ってふざけんな! 是孝の馬鹿! 死んじゃえ、
って、あ・・・ゴメン、無神経だった・・・」
ふっと目を伏せた透子の頬に、そっと暖かい空気が触れた。
それは是孝の手だった。
涙を拭おうとして動く指は、しかしその涙を捕らえることは叶わない。
二人がいる世界は、折り重なることがあっても、決して交わることはない。

「透子、そんなこと気にすんなって。俺は大丈夫だから」

「でも・・・」

ぽろぽろと透子の目から、新たな涙がこぼれた。
それを見て是孝は、触れられないもどかしさをこらえて、透子の背に手を回した。
透子を暖かい空気が包む。
それはゆっくりと、透子の凍っていた身体と心を溶かしていく。

「でもじゃねぇって、透子がいつまでも泣いてたら、俺だって安心して逝けないだろ?」

「・・・やっぱり、行っちゃうんだ?」

透子ははっと顔を上げる。
泣き過ぎたため目は真っ赤に充血していて、まぶたは腫れぼったい。
だが透子にそんなことを気にしている余裕はなかった。
是孝に会えたこと自体が夢のようだったけれど、是孝が夢のように消えてしまったら、
もう耐えられないと思った。

「是孝、行かないでよ。あたしを置いてかないで、一人にしないでよ!」
どんなに是孝にしがみつこうと手を伸ばしても、掴むのは空気ばかりで、透子の手は宙をさまよう。
それが自分と是孝の距離を如実に現していた。
冷え切った室内で、たった一つの暖かいもの。
確かにそこに『いる』のに。こうして自分を包む暖かさを感じているのに・・・。
うつむいた透子の頭を、ぽんぽんと暖かい空気が撫ぜる。
是孝はちょっと困った顔をして、小さな子どもをあやすような口調で言う。

「ゴメンな、透子。一緒に生きられなくて。俺もすっげぇ悔しい。
ずっと透子と一緒にいたい。だけど、それは出来ない。無理なんだよ」

「何で?! 今こうして一緒にいるじゃん! ずっとこのままじゃいられないの? どうして!」
どうして、どうしてと繰り返す透子。
けれどそれは、その理由を知らないからではない。
透子もその理由は分かっていた。ただ信じたくないだけだ。
是孝にはそれが分かっていた。だから諭すように、ゆっくりと話しかける。

「死者は生者と一緒にはいられない。もう、世界が違っちまっちゃってるから。
今日が特別なんだ。ここにいられるのは、夜明けまで。
聖夜だから・・・って俺んちは浄土真宗だけどな」
茶化して笑う是孝に、透子は微かな笑みを浮かべた。

「・・・ウチは日蓮宗だよ、確か。あたしたち、別にキリスト教の信者とかじゃないのにね」

「ま、いいんじゃね? 信じる者は救われるんだよ」
にぃっと笑う是孝。透子もつられて笑顔を返す。

「そう、その笑顔だって。ちょっと腫れてるけどな」

「え?そんなにヤバイ?」
壁の鏡に目を向けるが、薄暗い室内ではハッキリとは分からない。
けれど立ち上がって鏡の所まで行くことはしない。
是孝の暖かさから離れたくはなかった。
それでも首を巡らすと、サイドボードに置かれたデジタル目覚まし時計が目に入った。
その数字を読み取って、透子の目がまた少し潤む。
時の流れは無情だ。冬の朝がいかに遅くとも、もうすぐ夜が明けてしまう。

「是孝・・・」
透子はそっと是孝の背に手を回す。
触れることは出来なくても、抱きしめたいという気持ちを伝えることは出来る。
是孝もそれに応えて、透子をしっかりと包み込んだ。

「・・・もうすぐお別れだ。透子はバアさんになるまで生きろよ。
すぐにこっち来たら、承知しねぇからな」

「うん。是孝よりもカッコよくて優しくて金持ちのイイ男をとっつかまえて、
人生を謳歌してやるからね」
後から後悔しても、知らないからね。と付け加えると、是孝は苦笑を浮かべる。

「いやぁ、そりゃ無理だろ。俺よりイイ男なんて、滅多にいるもんじゃないし?」

「勝手に言ってろ」

いつものやりとりだった。是孝がボケて、透子が鋭いツッコミを入れる。
これからもずっと、そうしたやりとりをしていけると思っていた。
けれどそれはもう、夢でしかない。

二人は無言でお互いの暖かさを確かめ合っていた。
けれど透子には最後にどうしても言いたい言葉があった。

「是孝」

「ん?」

「ありがとね」

「おう」

「是孝といて、楽しかったよ。・・・ムカつくことも多かったけど」

「俺も透子といれて楽しかった。でもさぁ、お前って大概、一言多いよなぁ」

「これがあたしだって」

「そりゃそうだ」
くっくっくと二人は笑い合った。
山の端が段々と紫に染まってきた。
それと共に少しずつ是孝の姿が薄れていく。

「じゃあな、透子。もう泣くなよ」

その言葉を残して、是孝は消えた。一人きりになった室内に、透子の声が小さく響く。

「うん、是孝。もう大丈夫だよ・・・さよなら」

 

雪の舞う夜。彼と過ごした最初で最後の聖夜。
彼の暖かさを、決して忘れたりはしない。
けれど最後まで頑張って生き抜くと約束したから・・・。
透子はあの日から肌身離さず身につけていたひしゃげた指輪を、チェストの引き出しにしまった。
ぱたんと閉まった音が、一つの区切りを告げる。
朝日が上る様子が、曇ったガラス越しに見えた。
いつの間にか、雪はやんでいた。
朝日の眩しさに目を細めながら、透子は窓を開けた。
冬の朝の肌を刺すような冷気が、部屋になだれ込んでくる。
厚手のコートを羽織り、窓を開けたまま刻一刻と色が変わる空をずっと眺めていた。
澄み切った冬の青空は高い。
その空を見上げる透子の顔にはもう、涙の跡はなかった。

 


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