「え・・・? 今・・・なんて?」

信じられない言葉を聞いた気がした。

そして、世界が崩壊する音を聞いた気がした。

 

 

わたしの世界が砕け散った日

 

 

ゴールデンウィークが終わって、夏休みには程遠い五月半ばの土曜日、

わたしは啓介(けいすけ)とファミレスに居た。

啓介はわたしの家のお隣に住んでいる、いわゆる幼馴染というヤツだ。

そして三ヶ月前からは、お互いの両親公認の彼女彼氏の間柄になった。

物心つく前からずっと近くにいて、見慣れた顔のハズなのに、

今は知らない人みたいに見える。

ストローを持った手が震えてる。

大量に入った氷がカランと音を立てた。

わたしは渇いたのどをアイスティーで潤して、もう一度尋ねた。

「ねぇ、啓介、今、なんて言ったの?」

「ごめん」

「謝って欲しいんじゃない。もう一度、なんて言ったか、聞かせて」

啓介は深く下げてた頭を上げて、罰の悪そうな、でも真剣な顔つきで言った。

「宮香(みやか)、お願いだ、俺と別れてくれ」

この日、確かに、わたしの、世界は、音を立てて、砕け、散った、のだ。

 

 

「・・・どうしてって訊く権利、あるよね」

口では冷静なことを言っても、まだ頭の中では、啓介の言葉がぐるぐる回ってる。

別れる? わたしと?

どうして? なんで? わたし、何か悪いことした?

あまりにショックで、何かせずにはいられなかった。

意味もなく、ストローでアイスティーをかき混ぜる。

半ば呆然としながら、啓介を見つめた。

啓介はすっと視線をそらして言った。

「・・・他に好きなコが出来たんだ」

頭を鈍器で殴られたほどの衝撃って表現があるけど、

わたしの場合は、そんな可愛らしいモンじゃなかった。

頭に核弾頭を打ち込まれたくらいにショックだった。

頭の中が真っ白になって、わたしはアイスティーをかき混ぜる手を止めた。

「好きな・・・コ?」

おうむ返しにつぶやくのが精一杯だった。

まだ、啓介の言葉が理解出来てなかった。

時間が経つにつれ、その言葉がやっと、じわりじわりとわたしの中に浸み込んできた。

「同じクラスのコ?」

明らかに動揺を隠せていない、かすれた声しか出ない。

ごくりと唾を飲み込もうとして、口の中がまた渇いていることに気づく。

震える手で、グラスを持った。

一口、アイスティーを口に含む。

「ねぇ、答えて」

黙り込んだ啓介に問いただす。

啓介は首を横にふった。

「違う」

「じゃあ、誰?」

「同じ塾のコ・・・」

啓介は四月の頭から塾に入った。

今年は高校受験だからって。

わたしは塾に入らなかった。

今年大学生になった優秀な兄がいたから。

わたしも塾に入るべきだった?

「ゴールデンウィーク、全然会えなかったよね。塾の集中講座があるからって。

それって、口実? そのコに会うための」

塾じゃしょうがないって、諦めた。

どうせ家は隣だし、しょっちゅうお互いの家に出入りしてたし。

心配なんか、してなかった。

今まで積み重ねた時間が、わたしに自信を与えていたのに。

お願いっ、違うって言って!

けれど無情にも啓介は、首を縦にふった。

「ホントは、集中講座じゃなくて、勉強会。補習室が使えるっていうから。

だから行きたいヤツだけ、行けばよかったんだけど・・・」

「けど?」

聞きたくない。

それを聞いてしまったら、決定的になってしまう。

でも、わたしの口は止まらなかった。

「けど、なんなの?」

啓介はわたしと視線を合わさない。

苦い顔のまま、続けた。

「そいつが、毎日行くって言うから」

「っつ」

のどが引きつったような声がもれた。

 

 

ヤだ!

ヤだヤだヤだヤだヤだヤだヤだ!

早くココから逃げ出したい!

聞かなかったことにしてしまいしたい!

嘘でしょ!?

冗談だよね!?

なんで! ヤだ! どうして!

わたしの心は悲鳴を上げて、頭は理解することを拒否する。

ぐるぐる意味を持たない言葉が浮かんでは消え、わたしは助けを求めて視線をさまよわせた。

そして少し離れた席に、見知った顔を見つけて、目を見開く。

あれは確か、啓介の友達の橘(たちばな)?

橘と視線があった。

明らかに橘は、こっちの様子をうかがっていた。

ヤベって顔をしてる。

そして橘の向かいには、二人座ってる。

後ろ姿しか見えないけど、わたしはある可能性に思い至って、うろたえた。

啓介はわたしの様子を不審に思ったのか、ハッとした様子で後ろを振り返った。

橘が「悪ぃ」というように、両手を合わせた。

啓介が罰の悪そうな顔でこっちをちらりと見て、もう一度橘の方を向いた。

「橘!」

啓介が橘に合図を送った。

ジェスチャーで、何かを示している。

すると橘は神妙な顔で頷いて、向かいに座ってる人物に、何事か告げた。

奥に座ってる方の人物がそれに答えて、立ち上がった。

わたしは逃げ出しそうになる身体を、なんとか押しとどめた。

本能が叫ぶ。

逃げなさい、と。

知らない方がいい、と。

でもわたしは逃げなかった。

ショックを受けた後に湧いてきた、その感情のために。

顔が強張るのを、押さえることは出来ない。

硬い表情のまま、こっちに向かって来る人物を見る。

啓介がその人物を迎えるために、立ち上がった。

「宮香、紹介する。新村 芹菜(にいむら せりな)さん。

セリ、こっちが福島 宮香」

啓介が早口で言った。

セリと呼ばれた女が、硬い顔のまま会釈する。

わたしは座ったまま、動かなかった。

その代わり、刺を隠さずに短く尋ねる。

「この女?」

女の肩がビクリと震えた。

わたしはその女を、頭から爪先まで舐めるようにして見た。

啓介と並んで立つと、あまり背丈は変わらない。

足元を見るとローヒールのパンプス。

啓介が173センチだったから、170はあるだろう。

一度も染めたことのなさそうな綺麗な黒髪は、耳の下くらいまでのショートカット。

顔立ちは平凡というか、十人並み。

スタイルもスマートというよりは、貧弱。

何、この女! 長細いだけじゃない!

わたしはおどおどしている女を睨みつけた。

勝ち誇った顔して来るヤツよりはマシだ。

けど、やっぱりわたしがこの女に劣ってるとは思わない。

現実を突きつけるかのように、新しい彼女を連れてきた啓介よりも、

啓介を奪って行ったこの女の方に、ふつふつと怒りが湧いてくる。

「宮香、勝手だとは分かってる。けど、許して欲しいんだ。

宮香のことは大事に思ってる。でも、なんていうか、もう、家族みたいなもので・・・」

「じゃあなんで、バレンタインにチョコ受け取ったの。告白にOKしたの」

周りの客が、こっちを注目してることには気づいてた。

でも、止めるつもりはない。

 

 

わたしはこの女よりずっと、啓介のことを知ってる。

啓介だって、この女のことよりわたしのことを多く知ってるハズだ。

わたしは、啓介の初恋がイトコのお姉ちゃんだってことも、

啓介のじいちゃんが大切にしてた盆栽を落とした犯人が啓介だってことも、

皆の前じゃカッコつけてるけど、ホントは甘党だってことも知ってる。

啓介は、わたしの初恋が駅前の交番の妻子もちの警官だってことも、

小学生の時先生の家のポストにカレーせんべいを入れた犯人がわたしだってことも、

皆には内緒にしてるけど、実は十八番が「津軽海峡冬景色」だってことも知ってる。

キスだってした!

それ以上のことは、お互いに中学生でお金ないし、

家には家族の誰かが大抵いるからまだだったけど。

でも、でも、でも!

なんでこの程度の女が、啓介のこと、かっさらってくの!?

わたしの方が啓介と並んだ時バランスいいし、顔だって美人とは言えないけど、

十人に三人くらいは「可愛いね」って言ってくれる。

胸だって絶対わたしの方があるし、天然で茶色い髪は、毎日ちゃんとケアしてるおかげで自慢出来る。

それに何より、わたしの方が絶対、啓介のことが好きだ。

初恋こそ違うけど、わたしはずっと啓介のことが好きだった。

この前のバレンタイン、勇気を出して告白した。

OKもらえた時は、ホントに涙が出るほど嬉しかった。

なのに! なんで!? どうして!?

この程度の女に、啓介を盗られなくちゃなんないの!?

 

 

震える手が、何かにぶつかった。

アイスティーの入ったグラスだった。

氷はほとんど溶けて、色が大分薄くなってる。

わたしはそれを掴んで、立ち上がった。

女の顔に中身をぶちまける。

女が短い悲鳴を上げた。

わたしはその悲鳴をかき消すように叫んだ。

「なんでアンタみたいな女が! 最ッ低! ふざけないで!」

わたしは空になったグラスを置いて、右手を振り上げた。

その手を啓介が掴む。

「宮香! なにすんだよ!」

「ヤだ! 放してよ! その女のこと、殴ってやるんだから!」

「落ち着け! 宮香! 止めろって!」

落ち着いてなんかいられるものか!

視界のすみに橘やその女の友達らしき女や、店員が駆け寄ってくるのが見えたけど、

そんなことにかまってはいられなかった。

自分で感情がコントロール出来ない。

ただ啓介を盗られるのが嫌で、ムカついて、苦しくて、憎たらしくて、情けなくて、

わたしは啓介の手を振り払って叫ぶ。

「どうしてよ! なんでなの! わたしよりその女のどこがいいの!?」

啓介はあの女をかばいながら、呆然とした顔でわたしを見下ろしてる。

こんなに怒ったわたしを見るのが初めてだからかも知れないと、頭の片隅で思った。

当たり前だ。

こんなに怒ったのは、生まれて初めてなんだから。

いつものわたしは、もっと落ち着いてて、大人ぶってた。

だから啓介は、その女をわたしに会わせようとしたのだろうか。

プライドの高いわたしなら、取り乱したりなんかしないと?

納得はしないかも知れないけど、実際に会わせれば諦めるだろうと?

子どもみたいに、駄々をこねたりしないだろうと?

とんだ買い被りだったみたいだね。

自分でも信じらんない。

常識人を気取ってたクセに、真昼間のファミレスで修羅場を演じるなんて。

 

 

わたしは啓介の眼に、驚愕と失望の色を見つけた。

そして悟らずにはいられない。

もう、元には戻れないのだと。

急に怒りがしぼんで行った。

怒りよりも、新たな感情の方が大きくなってきていた。

わたしはバックを掴み、財布から五百円玉を出して、テーブルの上に置いた。

アイスティー代だ。

クリーニング代まで出してやるほど、わたしはお人よしじゃないし、お金もない。

「帰る」

そう一言だけ残して、わたしはその場を後にした。

顔は一度も上げなかった。

誰の顔も見たくなかった。

「宮香・・・ごめん」

啓介の声が聞こえた気がしたけど、わたしは振り向かなかった。

 

 

どこをどうやって帰ったのか、わたしは気がつくと家の前にいた。

乱暴に靴を脱ぎ捨て、階段を上がって自分の部屋に向かう。

足音で気づいたのか、おにいが自分の部屋から顔を出した。

そしてにやにや笑いながら、興味津々と訊いてくる。

「おっ、どうした、早いな。あぁ、その顔はあれだな。啓介と喧嘩でもしたのか?」

「・・・た」

「あ?」

「・・・たの」

「何だって? お前声が小さくて聞こえねぇぞ」

「だから別れたの!」

「はぁ?」

おにいがマヌケな声を出した。

わたしは叫んだと同時に、我慢してた涙がダーっと流れ出てきていた。

「だっ、けいすけっ、ほかにっ、すぎなこがっ、できだっでっ」

しゃっくりを上げながら、小さな子どもみたいに泣きわめく。

止まらなかった。

悲しくて、みじめで、胸が痛くて、自分が可哀想で、わたしは泣いた。

おにいはいつも生意気で大人ぶってる妹が、うわんうわん泣くのにビックリして、

どうしていいか判らないみたいだった。

わたしはそんなおにいに構わず、泣き続けた。

「なっ、んでっ、わだしぢゃっ、だめっ、なのっ、ヤっ、だっ、ヤだよぅ、ひっく」

いつも意地悪で性格破綻者だと思ってるおにいが、優しいだなんて気持ち悪い。

だから慰めはいらない。

ただ、話を聞いて欲しかった。

そこに居てくれれば、それで良かった。

感情をぶつける相手が必要だったのだ。

おにいはそれが解ったのか、どうなのかは知らないけど、ずっと黙って側にいてくれた。

 

 

泣いて、泣きわめいて、泣き疲れて、わたしはいつの間にか眠ってたらしい。

おにいが運んでくれたのか、目が覚めたら自分のベッドの上だった。

だるくて、寝返りをうつ気にもならない。

茫然と壁紙を見つめて、あれは夢だったのかと思った。

夢だったらいいのに。

夢であって欲しい。

でもその気持ちを裏切るかのように、まぶたが腫れぼったくて、熱を持ってるのが分かった。

散々泣きわめいた証拠に、のどもかれている。

部屋はもう暗くなってた。

のどはカラカラだったし、泣くのは体力を消耗するから、お腹も空いていた。

もう、どうでも良かった。

わたしが今まで十四年と数ヶ月の間に積み上げてきた世界は、粉々砕け散ってしまった。

わたしの世界の大部分を、啓介が占めていたんだから。

自分が世界で一番不幸な人間に思えた。

ぎゅるるるる。

マヌケな音が響いた。

わたしの腹の音だ。

どんなに気分が最低で、ご飯なんか食べたくないって思ってても、

身体は正直に空腹を訴えるものらしい。

わたしは思い切って、身体を起こした。

頭がくらくらする。

やっぱり泣き過ぎたかも。

頭を軽く振って、部屋の中を見回すと、勉強机の上に、500mlの烏龍茶のペットボトルと、

ラップでくるんだ不恰好な握りこぶしみたいなおにぎりが二つ、並んでいた。

おにいが作ってくれたのかな。

だろうな。母さんだったら、もっとキレイな三角形だもの。

わたしは烏龍茶を一気に飲み干した。

散々水分を流した後だったからだ。

普段だったら、そんな一気には飲めない。

不恰好なおにぎりに手を伸ばした。

ラップをはがして、かぶりつく。

 

 

なんでこうなっちゃったんだろう・・・。

今朝は久しぶりのデートだって、浮かれてたのに、今はこんなに不幸のどん底で落ち込んでる。

それにしても、世界って薄情だったんだ。

いくらわたしの世界が崩壊しようと、現実世界は何事もなかったかのように動き続けるし、

どんなに泣きわめいても、夜は来るし、幸せだった時間は戻らない。

死んじゃいたいくらい不幸だと思ってるのに、お腹は勝手に空いて、

生きるための糧を摂取したいと催促する。

ホントに最低。

矛盾だらけの自分も大っ嫌いだ。

・・・明日からどんな顔して、啓介に会ったらいいんだろう?

会わないなんて選択肢は、存在しない。

親同士も仲いいし、最悪なことに同じクラスだ。

わたしたちが付き合ってたことを知るヤツは、山ほどいる。

いっそのこと、ひきこもってやろうか。

責任感じて、啓介が戻ってきてくれるかも・・・。

「なーんて、馬ッ鹿みたい。んなワケないじゃん」

かすれた声でひとりごちる。

あの啓介が新しい彼女と引き会わせてまで、わたしと別れようとしたんだ。

どんなことをしようと、戻ってくるハズがない。

それが解ってしまうほど、わたしは啓介のことを知り過ぎていた。

「っく」

とっくに枯れ果てたと思ってた涙が、頬を伝った。

嗚咽を堪えて、おにぎりの最後の一口を口に放り込む。

 

 

そのおにぎりは、涙の味がした。




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