「たとえば、運動オンチのクセにバスケ部に入ったり、

コンタクト入れるのが怖いからって分厚い眼鏡をしてたり、

一度も染めたことがない柔らかいねこっ毛が寝ぐせでハネてたり、

今どき集めたノートを廊下にブチ撒けたりするような、

そんなオトコノコが私は好きだと言ったら、君はどうする?」

と、学級委員長は微笑んだ。

 

稔は、ぽかんとした顔で、目の前にいる人物を見上げた。

そして、なんの冗談だろうと思う。

放課後の廊下には、稔と委員長の他には誰もいない。

委員長の言った言葉が、稔に向けられているということは理解出来たが、

その言葉の内容については、これっぽっちも理解出来ない。

ばら撒いてしまったノートを拾い、たまたまその場に居合わせた委員長が数冊拾って渡してくれた。

ただ、それだけだったハズだ。

冷たい廊下に座り込んだまま、稔は優しく微笑む委員長を見上げる。

(今、委員長はなんて……?)

からかわれているのだろう、と稔はやっと思い至った。

差し出された数冊のノートをひったくるようにして奪い、立ち上がる。

その顔は羞恥で赤く染まっていた。

「有難う、古瀬村さん。大丈夫だから、もう行くね」

うつむいたまま早口でそう言って、稔は職員室へ向かおうとする。

その行く手を、委員長が遮った。

「椎野くん、半分持つよ。重たいでしょう?」

「だ、大丈夫だって。僕は男なんだよ……」

今にも消えそうな声で、稔は「一応」と付け足した。

確かに稔は背が低い。

160センチにわずかに届かない。

高二男子としては小さい方だ。

筋肉も薄く、腕も細い。

これでも中学の頃からバスケ一筋なのだが、未だ成長期の気配はない。

そのことにコンプレックスを感じているが、たった35冊の国語のノートが運べないほどでもない。

今だって、ちょっと蹴つまづいてしまっただけなのだ。

オンナノコに持ってもらうなど、恥ずかしくて出来やしない。

それに、古瀬村とて怪力というワケではないハズだ。

部活は何だか思い出せないが、おそらく文化部だろうと稔は考えた。

「いいから、大丈夫だから」

稔はうつむきながら、ボソボソと言う。

本当はハッキリと拒絶したいが、性格的に出来なかった。

バスケ部の練習の時も大きな声が出ずに、怒鳴られてばかりいる。

委員長は「そう?」と引いて稔の横に並んだ。

「私も職員室に用があるの。一緒に行ってもいい?」

稔は声を出さずに、コクリとうなづいた。

ここで断って、「何故?」と問われる方が億劫だった。

 

二人並んで廊下を歩き出す。

放課後の廊下には西日が差していて、辺りを赤く染めていた。

稔はちらりと、隣を歩く委員長を見た。

同い年とは思えないほど、大人びている。

いつも穏やかに笑いながら、クセのある者が多いクラスをまとめている。

彼女のことを、クラスのお姉さんと言ったのは、誰だったろう。

委員長は男女問わずに慕われ、教師も一目置いている存在だった。

とろい稔のことも、いつもさり気無くフォローしてくれるのだ。

自分とはなんて違うんだろう、と稔は思った。

「何?」

稔の視線に気付いた委員長が笑いかける。

稔はビクリと肩を震わせた。

それを見た委員長は、その笑みを苦笑に変えた。

「やだ、そんなに怖がらないでよ」

「ゴメン……」

稔が消え入りそうな声で答える。

稔は委員長がどうにも苦手だった。

ダメな自分にどうしてこんなに良くしてくれるのだろうと、変に勘ぐってしまう。

自分の言動が他人をイライラさせてしまうということを、稔は知っていた。

それが更に稔の自信を奪い、余計におどおどしてしまう。

悪循環だった。

最近は妹にも馬鹿にされる始末。

どんなに怒鳴られてもしごかれても、バスケだけはずっと頑張ってきたけれど、

それさえも、もう辞めてしまおうか、と思う。

委員長はそんな根性なしの自分にも優しい。

だから、苦手だ。

自分のダメさを思い知らされてしまうから。

 

「椎野くんは」

後もう少しで職員室というところで、委員長が口を開いた。

稔の肩が、またビクリと震える。

呆れられただろうか、またイライラさせてしまったんだろうか。

自分では委員長のことを苦手に思いながら、委員長にさえ見放されるのは怖かった。

そんな卑怯な自分が、また嫌になる。

委員長は顔を強張らせた稔に優しく微笑みながら続けた。

「バスケットの、どんなところが好き?」

「え?」

思っていたことと違うことを言われ、稔は委員長の方を向いた。

「中学からやってるんでしょう? よっぽど好きなんだなって思って」

「……別に、特別な理由はないよ……」

本当に、特別な理由などないのだ。

始めた理由だって、NBAの選手に憧れてとか、バスケ漫画がきっかけでとか、

好きな人がバスケット好きだったとか、そんなことはまったくなかった。

ただ、中学校に入学して初めて出来た友達がバスケット部に入るというから、

自分も一緒に入っただけだ。

その友達はすぐ辞めてしまって、しかも友達の縁も切れてしまったけど、

どういうワケだか、稔は5年もバスケを続けている。

レギュラーなんて夢のまた夢で、部員が多くてベンチにすら入れない。

試合はいつも客席で応援だし、練習がきつくて吐いたことだってたくさんある。

背は低いし、フィジカルは弱いし、体力だって一年生にも劣る。

ボール運びは出来ないわ、シュートは外すわ、リバウンドも取れないわ、

5年も続けているのに、練習をサボったことだってほとんどないのに、

まったく上手くならない。

運動音痴だということは、小学生の時から知っていた。

まったく才能がないことに、最初の1年で気付いた。

努力が実る者と実らない者がいることを、3年で思い知らされた。

それでも、自分はバスケを続けている。

何故だろう。

本当に自分はバスケが好きなんだろうか。

「僕はダメなんだよ……」

今にも消えそうな声で、稔が呟いた。

委員長はそんな稔に優しく微笑みながら言う。

「私は椎野くんがダメなんて思ってないよ。椎野くんは、いつでも何にでも一生懸命だし」

「それは……僕は人の何倍も頑張らないと追いつかないから」

「でも、誰でも頑張れるワケじゃないよ。皆、諦めちゃうもの」

「諦めが悪いことが、必ずしも良いわけじゃない。僕は区切りがつけられないだけなんだ」

そう、誰の目にもダメだと明らかで、自分でもそれを分かっているのに、諦められない。

否、諦めることが、怖い。

諦めないこと、それが現代の美学の一つで、稔が唯一出来ることだ。

諦めることを覚えてしまえば、自分には本当に何もなくなってしまう。

それが、怖い。

だから、諦められないのだ。

(古瀬村さんは、僕を過大評価してるんだ……)

 

「過程が大事とか、結果が大事とか、そんなのはどうでもいいよ」

妙にきっぱりと、委員長が言った。

それにつられて、稔はちょっとだけ、目線を上げた。

「ほら、中学の時とかって、一生懸命にやるのがダサい、みたいな感じがあったでしょう?

私は割と成績が良かった方だけど、何にもしないで出来たワケじゃない。

単純に成績がいいと、私自身、ちょっと優越感に浸れるというか……そんな所があったのね。

だから頑張ってたんだけど、テスト前には『全然勉強してないよー』とか、言ったりしてた。

それが挨拶みたいな感じだったし、ハブられるのは嫌だし。

高校に入っても、それをちょっと引きずってて、背伸びしてお姉さんぽくしてみたりだとか……。

まぁ、それは楽しいからいいと言えばいいんだけどね。

仕切るのは嫌いじゃないし。むしろ好きだし。

実は、吹っ切れたきっかけが椎野くんってワケでもないんだ。ゴメン、話の流れ的に変で」

「べ、別にそれはいいけど……」

「それでもね、椎野くんが頑張ってると、嬉しいの。

あ、何でって訊かないでね。実はまだ自分でもよく分かってないから。

もっぱら自己分析中なんだけど、どうにも答えが、ね。

これが恋なのかな、と思ったりしないでもないのだけれど」

委員長はふふと笑う。

「椎野くんは、どう思う?」

「ど、どうって?」

優しい笑顔から、妙に楽しげな笑みに変えて問う委員長に、稔は問い返した。

そのやり取りの間にも、委員長がじりじりと間を詰めてくるので、思わず後ずさる。

そして、背中が何か硬いものに当たった。

壁際に追い込まれたのだ。

「私は椎野くんのことが好きだと思う?」

「ち、違うんじゃない?」

目を合わせたらダメだと、稔は本能的に目をそらす。

下を向くと、委員長の綺麗な上履きが目に入った。

「びくびくおどおどしてるのに、バスケだけは一生懸命で、そういう所が好き」

「え、あ、い、委員長……じょ、う」

「冗談じゃないよ」

「から、か」

「からかってるんでもない」

「や、め」

「何を?」

「あ、あ、あの、えと」

稔を壁際に追い詰めた委員長は片手を壁につき、もう片方の手で稔の頬をゆっくりと撫でる。

稔はパニックになりながら、涙目で目の前の委員長を見る。

委員長の顔には、もう優しい委員長はいなかった。

温かい手が自分の頬を撫でていると、触覚が訴えているものの、

頭では到底理解出来なかった。

稔の頭は予想外の出来事で、とっくにオーバーヒートしている。

おそらく、全力で突き飛ばそうとすれば、きっと出来たのだろう。

稔は男で、委員長は女なのだから。

だが、この時の稔にはそれが出来なかった。

稔の両手は、ノートでふさがっていた。

それを床に置けばいいと、考えられなかったのだ。

出来ることと言えば、意味のない言葉を口にすることと、これが夢であるように祈ることくらいだ。

「椎野くん」

「はっ、はひ」

「大好き」

耳元で囁かれた言葉に、稔の顔はゆでダコのように真っ赤に染まる。

口をパクパクさせるが、とうとう言葉は出てこなかった。

 

優しい委員長の皮を被った女豹が一匹。

それに狙われた哀れな獲物。

彼は無事逃げおおせたのか、逃げることを諦めたのか、それは夕陽だけが知っていた。




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