皇妹殿下の言うとおり

皇妹殿下の言うとおり

 わたくしは、欲張りだ。
柘榴石の簪(かんざし)も、蜂蜜たっぷりの甘い菓子も、銀糸の刺繍が見事な靴も、地位も名誉も、力も、欲しい物は何でも手に入れたい。
手に入れられるだけの権力もある。
欲しいと思って手に入れられなかった物がないとは言わない。
わたくしにだって、無理なことくらいある。
夜空に流れる流星だとか、誰もが見とれる美貌だとか、取り返しの付かない過ちだとか……。
それでも、それ相応の努力はしてきたつもりだ。
流星を己が物に出来ぬというなら天文学を学び、生まれつきの美貌がないのなら肌の手入れと化粧に工夫を凝らし、取り返しの付かない過ちは他で成果を上げて補ってきた。
求めて、求めて、求め続けてきた。
手に入れられる物は全て、手に入れてきた。
それでも、わたくしは、満足出来ない。
わたくしは欲張りだから、欲しい物はたくさんある。
でも……。
わたくしの……わたくしは……。
わたくしは、いったい、何が本当に欲しかったのだろう……。



「それで……なんで皇妹殿下は俺の上に乗っていらっしゃるんでしょうか?」
わたくしが馬乗りになった男が、冷や汗をかき目を逸らしながら言う。
そう、わたくしは今、ソファに寝っ転がった男の腹の上に跨っている。
はしたないどころではない。
わたくしは、この男を押し倒しているのだから。
助けを求めようと視線を彷徨わせる男を見下ろしながら、わたくしは笑みを深くする。
この部屋にはわたくしたちしかいない。
常には側に置いているわたくしの聖霊も下がらせた。
とうに陽が落ち、ランプの灯りに照らされた部屋に居るのはこの男とわたくしの一人きり。
人払いはしてあるから、わたくしが呼ばない限り誰も来ない。
この男に、助けは来ない。
無論、腕力で言えばわたくしはこの男に敵わないだろう。
するりと男の胸を撫でる。
服越しにも鍛えているのが判る、硬い身体。
腕もわたくしの腕より二回り以上太い。
その手でわたくしを突き飛ばせば、この男はわたくしの下から逃れられる。
でも、しない。
否、出来ない。
この男を縛るのは腕力ではない。
この国だ。
「あら? お解りにならない?」
わたくしは男の胸に這わせた手をつつと動かし、首をなぞって男の頬に添えた。
少し、ざらりとした感触が手の平に伝わる。
「わ、分かりません!」
「あら、あら、あら。お解りにならないの、そう……」
目を逸らしながら分かりたくないとでも言いたげに叫ぶ男に、わたくしは身を屈め、真っ赤に染まった耳に唇を寄せる。
「皇妹殿下!」
抗議の声をあげる男の耳元で、とっておきの甘い声で囁く。
「わたくしが欲しいのは、そなたの子種よ」
ついでとばかりに、形の良い男の耳を軽く食み、ぺろりと舐め上げた。
微かに震えているのが可愛らしい。
「皇妹殿下!」
涙目で悲鳴じみた声を出す男に、わざとらしいため息をついて身を起こす。
先ほどからこの男は鸚鵡(おうむ)のように、繰り返し繰り返し、わたくしの尊称を口にする。
「わたくしを呼ぶのなら、総督と呼んでくださった方が嬉しいのに」
ついつい、むくれたような声が出てしまう。
どうせなら身分よりも地位で呼ばれたい。
でも、これがこの男なりの意趣返しなのだ。
その証拠に、この男は頑なにわたくしのことを“皇妹殿下”と呼ぶ。
「皇妹殿下! ご、ご自分は大事になさらないといけません!」
「もちろん、大事にしていてよ? わたくしはどうでも良い男の子を身篭ろうとするほど、愚かではないわ」
左手で男の脇腹を撫でながら、なおも言い募ろうとする男の口を己の唇で塞ぐ。
「むっ、くっ」
角度を変えて、深く、男の口腔内を犯すように舌を這わせる。
ちらりと、舌を噛み切られる可能性が脳裏を過る。
本気で嫌ならば、抵抗すればいいのに……。
まぁ、出来やしないでしょうけれど。
嘲りと侮りという名の毒を飲み込んで、舌で男の歯裏をなぞる。
「っ、はぁっ」
短い息継ぎの合間に、男は硬く口を閉じた。
それどころか目をつむって身体を硬くする様は、まるで生娘のようだ。
そうすると、わたくしは権力を笠に着て生娘を手篭めにする悪の総督といったところかしら?
これがあながち間違いではないのだから、可笑しなことだ。
なんだか、とても悪いことをしているような気分だ。



わたくしは男に気づかれないように小さなため息をつき、身を起こした。
それどころか男の上からも退いてやる。
脱ぎ捨てた部屋履きを履いて、男が横たわるソファとローテーブルを挟んで対になるソファに腰を下ろす。
テーブルの上に用意してあった果実酒の栓を抜き、グラスに注いだ。
わたくしと、男の分を。
普段は使用人にさせていることだ。
わたくし自ら注いだ酒を呑める者など、この男の他は本国にいらっしゃる姉上くらいのものだろう。
感謝に咽び泣くといいわ。
わたくしはぽかんとしたまま中途半端に身を起こした男にグラスを勧める。
「お呑みなさいな」
「は、はい。頂きます」
促された男は、居住まいを正してグラスを手にとった。
ぐびぐびと飲み干す様は優雅とは言いがたいが、微笑ましくて笑ってしまう。
「落ち着いて?」
男が果実酒を飲み終えて一息ついたところに問いかける。
「はい……」
きちんと両足を揃え、両膝に手を置いて項垂(うなだ)れている様子は、まるで教師に怒られる子供のようだ。
けれど、この男はもう子供ではない。
そろそろ二十歳になろうかという立派な青年だ。
わたくしよりはいくつか年下であるけれど、決して幼子ではない。
そして、この国の王でもある。
「そう、怯えなくても良いでしょう。そなたも男ならば据え膳くらい食べてしまえばよろしいのよ」
「こ、皇妹殿下にそんな不埒な真似は出来ません!」
「まったく、本人が良いと言っているのに……」
「ですが!」
「我らが皇華も、わたくしがそなたの子を生むことをお望みです」
「……女皇陛下は妹君に酷なことをお命じになる……」
ダンッ。
男の同情するような呟きに、わたくしはグラスを持った手をテーブルに叩き下ろした。
折角のイーティレック製のグラスだ。
割れないように自身の手で庇ったが、少し勢いを付け過ぎた。
痛い。
が、痛い素振りは決して見せない。
男の目を睨みながら、鋭い声を出す。
「わきまえよ。そなたに皇華のお考えを評する権利があると思うてか」
「いえ……差し出がましいことを申しました。お許しください」
男が深く頭を下げる。
わたくしは男のつむじを見下ろしながら、尊大な言葉を返す。
「二度目はないと心得よ」
「はい。ご寛恕(かんじょ)に感謝致します」
「礼なら皇華に申し上げよ。皇華は年若き王のことをいたくご心配遊ばし、わたくしにもそなたが良き王となるよう補佐せよと仰せになった。皇華は慈悲深くご寛大な方。が、皇華に対する非礼はこのわたくしが許さぬ」
そう言い切り、ソファに背中を預け、一息つく。
そこで口調を少し柔らかいものに切り替えて、話を続けた。
「そう、皇華はご寛大な方なのですよ。通常の敗戦国の末路はご存知でしょう?」
わたくしの問いかけに、男は顔を上げきっぱり答えた。
「はい。普通ならば支配者階級を皆殺しにされ、国名を奪われ、民は三等国民として奴隷と変わらない身分に落とされて併呑(へいどん)されるところ、属国とはいえ僅かばかりの朝貢(ちょうこう)と服従のみで国体の維持と自治を許されたことに感謝しております」
本当にそう思っているのかどうかは分からないが、男は「有難きことです」と言葉を紡ぐ。
わたくしは男の答えに満足することにし、うなずいて見せる。
「お分かりになればよろしいわ。さぁ、続きを致しましょうか」
「ご、ご勘弁ください! 皇妹殿下!」
わたくしがソファから立ち上がると、男は先ほどまでの毅然とした態度はどこに行ったのか、見事なまでにうろたえた。



睦事のような行為に及んだが、わたくしとこの男は恋仲でも愛人でもない。
宗主国の皇妹にしてこの国の総督と、属国の王だ。
ちまたに溢れる恋愛小説でもあるまいし、恋など芽生えるはずもない。
わたくしが欲しいのはこの男の愛ではなく、子種だ。
もっと言えば、宗主国の血を引くこの国の次代の王である。
それが我が皇国の支配のあり方。
武力で抑えつけるのではなく、血で縛るのだ。
「それにしても……」
わたくしは男の座るソファの前に立ち、情けない顔をして見上げてくる男の首に手を伸ばす。
四本の指で首筋を撫で、親指で喉仏を擦る。
男の喉が、ごくりと鳴った。
泣きそうな顔をする男に、わたくしは側近に毒を凝り固めて香油を垂らしたような、と評された笑みを浮かべる。
「戦場の剣鬼と恐れられたそなたが、まさか童貞だとは……」
「こ、こ、こ、こ、皇妹殿下!?」
「そんな鶏(にわとり)のような声をお出しになるものではありませんわ」
くつくつと笑いながら、男の膝の上に乗る。
するりと首の後ろに手を回し、その広い肩に顎を乗せた。
わたくしの鼻腔に、石鹸のいい香りに混じって男の匂いが届く。
男の身体は硬くて、温かい。
が、固まり過ぎている。
男の背とソファの間に手を差し入れて、ぎゅっと抱きつくようにするとますます固くなった。
こう身を固くされると可愛いが、やはりなんだか可哀想だ。
わたくしは少し身を離して、あやすように男の頭を撫でる。
「怖いことなんてありませんのよ? おなごと違って初めてでも痛くはありませんし、痛いこともしないとお約束しますわ。むしろ気持よくして差し上げます。そなたは身体の力を抜いて横たわっていればよろしいのよ」
「……そういう問題では……」
「初めてを捧げたい相手がおいでとか?」
「いえ、捨て置かれた第五王子に寄ってくる相手なんていませんでしたし」
男は口ごもりながら、目を伏せる。
「えーと、不能?」
「俺は正常です!」
「じゃあ、もしかして、おなごが駄目なんですの? 殿方の方が良いと。それならお可哀想ですけど、子種だけは頂かなくてはなりません。でも子種さえ頂ければ、好みの殿方を揃えて差し上げてよ?」
「違います!」
殿方相手なら妊娠させる心配もないし、と続けるわたくしの言葉を遮って、男が叫ぶ。
「男と目合(まぐわ)う趣味はこれっぽっちもありません!」
「そんなに必死になって否定しなくてもよろしいのよ? 皇国はそういったことに寛容で……」
「だから違います!」
「そうなの?」
じっと男の目を見つめて尋ねる。
「はい!」
「そう……」
「皇妹殿下? なんでそんな残念そうなんですか?」
「別に残念だなんて思っていなくてよ。でも、それでは何故?」
小首を傾げて、男の顔を覗き込む。



“何故?”とは自分でも酷なことを聞いていると思う。
我が国に戦を仕掛けてきたのはこの男ではない。
この男の父である先王だ。
この男は先ほど自分でも言ったように捨て置かれた第五王子で、戦場では剣鬼と恐れられたが、結局は“すてがまり”として我が軍の足止めに使われた。
無数の兵を屠(ほふ)り、自身も無数の傷を負いながら本陣まで攻め入った強さは、敵ながら賞賛に値すると我が軍の将軍も漏らした程だったのに、だ。
皇華の名代として従軍したわたくしも、この男の強さは目の当たりにしている。
何しろ、あと一歩でわたくしはこの男に殺される所だったのだ。
危機一髪のところでわたくしの聖霊がこの男を取り押さえ、捕虜とした。
自城にたどり着くことが出来た先王だったが、周囲を包囲されて結局は自害している。
王太子は戦死、第二王子は王位継承争いで既に亡くなっており、第三王子は自害、第四王子は戦が始まる前に病死と、この男以外の王位継承権を持つ王族は死に絶えた。
つまり、この男は王位と尻拭いを押し付けられたのである。
それがこの男の望んだことではないと、わたくしにも分かっている。
敗国の王位ほど重たく厄介なものはない。
宗主国民にも自国民にも疎まれ、憎まれる。
自治が認められているとはいえ、所詮は属国だ。
今後、二十年は総督府が置かれることになっている。
その間、王は皇華どころか総督にさえ頭を下げなくてはならない。
なんと惨めなことだろうか。
もちろん、その惨めさを今ここで強いているのは、わたくしだ。



「まぁ、普通はお嫌ですわよね。でも我慢して頂かなければ。天井の文様の数でも数えていらっしゃればすぐに終わりますわ」
わたくしはそう言いながら、男の夜着に手をかける。
「皇妹殿下!? ちょっちょっちょっとお待ちになってくださいぃぃ!」
プチプチとボタンを外す手を、男に掴まれた。
抵抗され、眉間にシワが寄る。
大人しくしていればすぐに終わるものを……。
「なんです?」
自然と問い返す声も刺々しくなる。
「えっと、あの、そのっ」
「はっきり仰いまし」
ぱくぱくと金魚のように口を開け閉めする男は、とても一国の王には見えない。
わたくしが叱咤すると、男は耳まで真っ赤にしながら、裏返った声を出す。
「お、俺、初めてなんです!」
「知ってます」
「そ、それで、あのっ、ずっと剣術一筋の朴念仁で、閨(ねや)の作法とかもあんまり詳しくなくってですね! 皇妹殿下にご不快な思いをさせてしまうのではないかと!」
「だから、すべてわたくしに任せて寝っ転がっていれば終わりますと言っておりますのに」
ふうっとため息をつく。
皇国の皇族にとって、閨房術(けいぼうじゅつ)は必須の教養だ。
男がなんにも知らなくても問題などない。
「いや、それは男の沽券に関わると言いますか……」
「捨てておしまいなさい。そんなもの」
「そ、そんなもの……」
わたくしの言葉に余程落ち込んだのか、わたくしの手を掴む男の手が緩む。
分かりやすい程、ガーンと落ち込んだ顔をしている。
わたくしはするりと抜き取った手で、男の頭をわしゃわしゃと撫でた。
ナデナデ、なんて可愛らしくではない。
わしゃわしゃと、だ。
「こ、皇妹殿下!?」
驚きの声を上げる男を無視して、存分に撫で繰り回す。
なんだ、もう、この可愛い男は。
年下であることを差し引いても可愛い。
うっかり、任務でなくても優しくしてあげたいと思うくらいに可愛い。
これで十九? 一国の王? 戦場の剣鬼?
反則だろう。もう。
これが演技ならば大したものだ。
わたくしは見事、手の平で踊らされたことになる。
けれど、これは演技じゃない。
この男の素だ。
そう確信している。
根拠などない。
女の勘である。



心の中で可愛いを連呼しながら気が済むまで男の頭を撫で繰り回した。
そして、男の頬を両手で挟み、ちゅっと軽い口づけを男の鼻に落とす。
「皇妹殿下!? あのっ、どうなさったんですか!?」
「そなたが可愛いのがいけないのよ」
「へ? か、可愛い?」
「ええ、とっても可愛いわ」
にっこり笑いながら言ったのに、男は複雑そうな顔で目をそらす。
「全然嬉しくないんですけど……って、皇妹殿下ぁ!?」
再び男の夜着を脱がす作業を開始したわたくしに、男が悲鳴じみた声を上げる。
「ふふふふ、かーわいい」
「いえ、だからっ、そのっ、ひゃあぁ」
はだけた夜着の隙間から手を差し入れ、男の割れた腹筋から脇下までを撫で上げる。
男の抗議の声など、まるっと無視だ。
心配しないでも、わたくしが一から十まで足取り手取り腰取り、しっかりばっちり仕込んでしんぜよう。
なにせ、わたくしは欲張りだ。
欲しいと思ったものは、手に入れる努力を惜しまない。
差し当たっては、この男の子種。
そして、この可愛い男をいい男で良き王に仕立て上げてみせよう。
くすぐったがって身を捩(よじ)る男の唇についばむような口づけを落とし、わたくしはわたくしなりの誓いの言葉を口にする。
「大人しくしてなさいな。わたくしの言うとおりにしていれば、男にして差し上げるわ」



翌朝、朝を告げに来た使用人は、寝台の隅で膝を抱えて落ち込んでいる自国の王と、妙に艶々して上機嫌の宗主国の皇妹の姿を目撃することになる。