砂漠の夜

砂漠の夜

 砂漠の夜は、昼の暑さとはうってかわって冷え込む。
冷たい月は、ここでは灼熱の太陽よりも好まれるものだ。
やや強い砂交じりの風が、頬を打つ。
防寒のための外套(がいとう)をかき寄せ、ただ月を見る。
露台から見る月は、冴え冴えとしていた。


私は、もうすぐ嫁ぐ。
相手は何度か会ったことのある、この国の有力者だ。
一回り年上の婚約者は、この殺伐とした砂の民とは思えぬほど、おっとりと笑う人で、政略結婚と割り切って、あまり期待していなかったから、少し面食らった。
優しい人だと思った。
「おい」
ふいに後ろから声がかかった。
振り向かなくても分かる。
血のつながった、弟の声だ。
「なんだ? ガヴィン」
「何をしている?」
気がつくと、ガヴィンは音もなく、私のすぐ横に立っていた。
気配を消すのが上手くなった。
この国の男は、戦士というよりも、盗賊と言った方が良いくらいの者たちだ。
気配を消すくらい、簡単にやってみせなければならない。
人を殺すのは昔からやたらに上手かったが、気配を消すことに関しては、ついこの間まで、私にも察知出来るくらいだったから、その成長ぶりに、ふっと笑みがこぼれる。
「何がおかしい」
少し不機嫌な声に、昔はこの声を恐れていたのだ、と思い出した。
「いや、ただ月を見ていただけだ」
盗賊王と呼ばれた父の血を姉弟の中で最も濃く受け継いだ、残忍にして、不器用に優しい、私の末弟。
もう一人の弟のカーグは、ガヴィンのことを疎ましがっていたけれど、私は幸せを願うくらいには、この弟を愛している。
二年前の内乱の後、ガヴィンは前よりも落ち着いた。
もう夜を恐れるような子どもではなくなったのだ。
以前は衝動的に人を殺してしまうこともあったが、自分を律する術を、多少なりとも身に着けたということだろう。
前のような、危うさはなりを潜めている。
周りの者のガヴィンを見る目も変わってきている。
化け物と呼ばれることも、少なくなってきた。
恐れられているには、変わりがなかったけれど、それでも良い変化だと思う。


「もうすぐだな」
ガヴィンは「何が?」とは問わない。
黙って、私の横に立っている。
言わずとも分かっているのだろう。
私がこの里を離れて嫁ぐのは、一月後。
それまでに、この里の様子を、ここで生きている大切な人たちのことを、この目にしっかりと焼き付けておきたい。
淡く光る月。
地平線に近い月は、いつもより大きく見えた。
「私は、よい姉ではなかったな」
ぽつりと、本音がもれた。
幼い頃、私たち姉弟は離れて育った。
私とカーグは年子ということもあり、よく行き来をしたものだったが、誰もが手を焼き恐れるガヴィンとは、あまり交流がなかった。
ガヴィンが母の命と引き換えに生まれてきたという意識も、少なからずあったことは確かだ。
ガヴィンの母は私の母ではなかったけれど、優しくて柔らかくてよい匂いのする彼女が、私は大好きだった。
だから、ガヴィンを避けた。
成長し、仕事で顔をあわせるようになってから、初めてまともに会話したくらいだった。
いくつもの任務を共にこなした、と言っても、私はガヴィンをはれものに触るように扱った。
ガヴィンの母のことが、全ての原因ではなかった。
乳母さえも化け物と呼ぶガヴィンのことが、恐ろしかったのだ……。
「もっと早く、歩み寄ればよかったと思うよ」
十四年という歳月を、たったの二年で埋め合わせることは出来ない。
一番苦しい時期に、手を差し伸べることができなかったのだから。
私も子どもだった。
けれど、それは言い訳にしかならない。


淡月(たんげつ)にやっていた視線を、ガヴィンに移す。
ガヴィンはいつもと変わらない顔をしていた。
外套についた砂を払い、立ち上がる。
最近成長期に入ったガヴィンは、ぐんぐん背が伸びている。
二年前には、私より拳二つ分も低かったというのに、今ではガヴィンの方がわずかに勝っている。
あっという間に、見上げるほどの身長になるだろう。
それを間近で見られないのは、とても残念だ。
「夜風が冷たい。もう中へ入ろう。風邪をひいたら大変だ」
私は外套を着ているからいいけれど、ガヴィンは部屋着のままだ。
「あぁ」
短く返答する弟が、私の体を心配して来てくれたのだと知っている。
わざと外套も着ないで出てきたのは、私が折れて中へ入ろうと言うと知っているからだ。
お互いにそれが分かる程度には、歩み寄ることが出来たのだと思うと嬉しい。
「また笑う。テイファはよく笑うようになった」
ガヴィンの意外な一言に、びっくりとして立ち止まり、後ろを振り返る。
「そうか?」
「さっきも笑っていたし、この間も笑っていた」
この間、というのがいつのことを指すのかは分からないが、確かに昔より、ガヴィンの前で笑うことが多くなったように思う。
「あの男の所へ行くからか?」
珍しく拗ねたような口調で、ガヴィンは言う。
あの男とは、もちろん私の婚約者殿のことだ。
「さぁて、どうだろうな」
私ははぐらかすように笑う。
ガヴィンの眉間に、しわが寄る。
最近、ガヴィンは表情に動きが出てきた。
それが嬉しくて、面白くて、ついついからかってしまうのだ。
「テイファは笑っていた方がいい」
小さな声で、ポツリとつぶやく私の弟。
「そうか。じゃあ後一月、せいぜいガヴィンの前では笑っているようにしよう」


「いつまで外にいる気だ? 風邪引くぞ!」
いつまでも戻ってこない私たちを探しに来たのか、カーグが顔を出した。
「あぁ、ごめん。今入るよ」
「まったく、ミイラ取りがミイラになってどうする」
カーグがガヴィンに向かって言う。
どうやら、ガヴィンはカーグに言われて、私を探しに来たらしい。
ガヴィンがふいっと視線をそらした。
その動作が可愛らしくて、思わず吹き出すとガヴィンに睨まれた。
昔は恐れた視線も、今ではまったく恐くない。
こういったやりとりが出来るようになったのは、ここ最近のこと。
私たちもようやく、世間並みの姉弟になれたというわけだ。
「さっさと中に入れよ」
「どうした? テイファ」
「いや、何でもないよ」
私はにっこりと、愛すべき弟たちに笑いかけた。


嫁いだところで、彼らが私の弟であることに変わりはないけれど、今までのように、気軽に会いに行くことは出来ないから。
せめて嫁ぐまでの一月は、ガヴィンやカーグの姉であるように。
あの月が一巡りする頃には、笑ってこの里を出て行けるように。