「『龍』という生き物についての全てを説明出来る者が、
もしこの世にいるとしたら、それは『龍』自身であるか、
『神』と呼ばれるモノだけでしょうね」
高名な博物学者、ガーネット=クロウは、生前、そうこぼしている。
<大陸>各地を己の足で踏破し、初の体系的な生物図鑑を著し、
七十二年の生涯を生物研究に費やした彼女にして、そう言わしめた『龍』という生物は、
それほど謎の多い生き物なのである。
まず、その個体数が他の生物に比べて、極端に少ない。
おそらく、この<大陸>に生息する『龍』の数は、千に満たないだろう。
おまけにその生息地が、魔境と名高い<暗黒の森>のど真ん中であったり、
獣すら拒むと言われるハーレー山脈の最高峰、フェヴァーラ山の頂上であったり、
一年中雪と氷に閉ざされた極寒のジャガンダ半島であったりするものだから、
その姿を拝むことさえ困難なのだ。
そして『龍』の多くは、そんな僻地に住んでいるから人間嫌いになったのか、
元より人間嫌いだから僻地に住んでいるのかは、定かではないのだが、
とにかく人と関わることを厭う。
その生息地の厳しさもさることながら、『龍』自身が人を嫌い排除しようとする為、
『龍』を一目見たいという自称冒険家たちが、多く消息を絶っている。
一説には千年の時を生き、知能の高い『龍』は、短い時を生きる人間など、
わずらわしいだけの存在だと、認識しているのではないか、と言われている。
人間にしてみれば、自分の周りをぶんぶんと飛ぶうるさい羽虫を殺すのと、
大して変わらない感覚なのだろう。
それでも『龍』はある宗教では神として崇められたりして、
人にとっては特別な存在であることに間違いない。
『龍』とは、生ける神話と同意義なのだ。
そんな『龍』が<帝国>の八大公領の一つ、南東に位置するザーリア公領にある、
通称<常磐(ときわ)の森>の最奥にあるツキリアムの家を訪れたのは、
森がその名の通り、深緑に包まれている夏のある日のことだった。
その日は蒸し暑く、窓という窓を開け放っても暑くて仕様がなく、
扉まで全開にしていた。
家の中が丸見えになってしまうが、深い森の中にある家に客など滅多に来ず、
よしんば依頼人が来るとしても、事前に最寄の街から顔なじみの小僧が使いとして遣されるし、
獣や虫などは、ツキリアムが家の周囲に張った結界のおかげで入って来られない。
余計な気遣いは無用なのである。
この暑さでツキリアムは完全にだらけきって、風通しのよい部屋でごろごろしていたが、
己を磨くことに貪欲なレリィーエは、家の地下にある書蔵庫に並ぶ膨大な書を、
片っ端から読破していた。
地下で本を読むと油などが勿体ないので、吊床(ハンモック)に揺られて、
暢気に昼寝をしているツキリアムの横の机で、である。
古い書物だったが存外に面白く、熱中して読んでいると、
リィンという涼やかな鈴の音が聞こえた。
これはツキリアムの張った結界が、誰か訪問者が来たことを伝える音だ。
レリィーエは読書の邪魔をされたことに、眉間にしわを寄せた。
しかし来客なら対応しない訳にはいかない。
これも弟子の仕事の一つである。
それにいくら自給自足の生活をしているとはいえ、現金収入の機会をふいにするつもりは毛頭ない。
レリィーエは読みかけの、
『古今東西権力者を暗殺してきたこんな毒あんな毒〜これで貴方も暗殺者〜』
に、しおりを挟み、開けっ放しの出入り口へ向かった。
(デカッ)
訪問者を一目見たレリィーエの感想である。
ゆうに二メートルは超えているだろう。
もしかしたら、三メートル近くあるのかも知れない。
近くに立つと、レリィーエがほぼ真上を見上げる格好になる。
透き通るような白い肌。
腰まであるクセのある髪は、根元が濃い青で毛先にいくに従って、段々と淡い青になり、
毛先は輝くような白銀である。
この世の全てを見通すような鋭い瞳は、右が金、左が銀の金銀妖瞳(ヘテロクロミア)。
そして端整で一部の隙もなく整った顔立ち。
これら全てが、幾重にも薄布を重ねたような服をひるがえしやって来た訪問者が、
人ならぬ者であることを告げていた。
しかも、人よりも相当レベルが上の種族であると本能で感じとったレリィーエは、
やや緊張しつつ、戸外に立ってその訪問者を迎えた。
訪問者はレリィーエが口を開くより早く、睥睨(へいげい)するような目で彼女を見下ろして言った。
「ツキリアム=セムニダは在宅か?」
「師に如何様な御用でしょうか」
「うぬはただ、我の問いに答えれば良い。ツキリアム=セムニダは在宅かと訊いておる」
その一言一言が威厳に満ちており、並の人であれば、その場で腰を抜かしていただろう。
心臓が弱い者であれば、その鼓動を止めていたかも知れない。
しかし、レリィーエは並の人間ではなかったので、しっかりと視線を合わせて答えた。
「はい、おります」
「では、呼んで参れ」
「はい」
逆らってどうにかなる相手ではないと悟ったレリィーエは、
師であるツキリアムにも使ったことのない丁寧な言葉遣いで受け答えをし、
また素直に師匠を呼んでこようとした。
(正真正銘の化け物だわ。早くツキリに押し付けようっと)
「その必要はないわよ〜。レイ」
レリィーエが出入り口を振り向くと、そこには風通しのよい布地で作ってはいるものの、
いつもと変わらず手を覆い隠した長い袖に、
ずるずると引きずる裾のローブを身にまとったツキリアムが、
いつの間にか立っていた。
「まぁ〜、偉大なる長(おさ)が御自らこのようなあばら屋にお越しになるとは〜、
このわたしに〜、如何様な御用向きがおありでしょ〜か〜?」
「ふん。相も変わらず間の抜けた喋り方をしよる奴だ」
「性分ですよ〜しょ〜ぶん。立ち話もなんですので〜、むさくるしい所ですが〜、中へど〜ぞ」
ツキリアムが家の中を示すと、長と呼ばれた訪問者は、当然のように頷いた。
「邪魔をする」
「は〜い、いらっしゃいませ〜。一名様、ごあんな〜い」
「・・・・・・」
絶対零度の視線を受けながら、いつものふざけた調子を崩さない師匠を見て、
レリィーエは、この女こそ化け物だと思った。
身長三メートル近い訪問者は、真っ直ぐに背を伸ばすと、天井に頭をぶつけてしまう。
だから、大分身を屈めて入らなければならないのだが、かなり窮屈そうだった。
特別な客を招き入れる客室の上座に腰を下ろした長は、ようやく顔を真っ直ぐ上げることが出来た。
そして彼にしては、もっともな文句を言った。
「狭い」
「あはははは〜。長が大き過ぎるんで〜すよ〜。わたしたちにはピッタリですも〜ん」
ツキリアムは何が面白いのか、けたけた笑いながら、向かいの椅子に腰を下ろした。
レリィーエは客と師の前に茶と茶請けを置いて退出しようとしたが、
ツキリアムに呼び止められた。
「レイもここにいらっしゃいな〜。紹介するから〜」
自分の座っている椅子の隣を叩きながら言うツキリアムに、レリィーエは露骨に嫌な顔をした。
「ここでいいでしょ」
「そんなトコに突っ立ってて〜、疲れな〜い?」
「疲れない」
頑として部屋の出入り口近くから動こうとしないレリィーエに肩をすくめると、
ツキリアムは再び長の方へ向き直った。
「長〜、わたしはこの度弟子をとりましてですね〜。レイ、ご挨拶は〜?」
「レリィーエ=オルトと申します。よろしくお願い致します」
深々と頭を下げたレリィーエを興味なさ気に一瞥(いちべつ)し、長は言った。
「我は人の子になど、興味はない。早速本題に入るぞ」
「え〜、つれないですね〜」
「うるさい」
長が睨むと、ツキリアムはレリィーエにしてみせたのと同じ調子で肩をすくめ、先を促した。
「では、お聴き致します〜」
「うむ。単刀直入に言おう。我らの一族の仔がさらわれた。おぬしに連れ戻してもらいたい」
「はぁ〜!?」
いきなり奇声を発したツキリアムに、前後から冷たい視線が突き刺さった。
前者は全てを把握しつつ、その奇声がうるさいと思ったからで、
後者は事情は分からないが、その奇声がうるさいと思ったからである。
前者が長、後者がレリィーエなのは、言うまでもない。
しかしツキリアムはそんな視線を故意に無視して、長に詰め寄った。
いつも飄々(ひょうひょう)としているツキリアムにしては、かなり珍しく慌てた様子である。
「ちょっと〜長! それって〜ど〜ゆ〜ことですか〜!」
但し、間延びした口調は、どんなに慌てていても、変わりなかったが。
「どういうもこういうもない。言葉通りの意味だ」
「だって〜、いったいぜんたい〜、誰がどうやったら〜『龍』の仔をさらえるっていうんですか〜?」
「『龍』ぅ!?」
完全に傍観者に徹していたレリィーエだったが、とんでもない単語に思わず叫んだ。
身の丈三メートル近い訪問者が、人ならぬ者であることは察していたが、
まさか生ける神話と称される『龍』であるとは、夢にも思わなかったからである。
あんぐりと口を開けたまま突っ立っている様子は、折角の美貌が台無しだったが、
幸か不幸か、この場にそれを嘆く者はいない。
ある『龍』の一族の長は人であるレリィーエを、これっぽっちも気にかけていなかったし、
ツキリアムはそれどころではなかった。
「長の一族は〜、ハーレー山脈のフェヴァーラ山のてっぺんに住んでるんですよね〜?
そんな所〜、普通の人は行けませんよ〜」
「その通り、我が一族の仔をさらったのは、人ではない。ゼカルラムだ」
ゼカルラムという名を聞いた途端、ツキリアムの表情が変わった。
ただでさえ白い肌が、更に血の気が引いて、比喩ではなく本当に青ざめている。
レリィーエはそんな師の様子をいぶかしんだが、口を挟むことが出来なかった。
明らかに長はレリィーエを無き者として、意識の外に出している。
そこに横から口を挟むのは、自殺行為と言えた。
ツキリアムは唇を震わせながら、やっとの思いで言葉を紡ぐ。
「な、んで。そんなこと、を?」
「分からぬ。奴は元より、誇り高き『龍』の一族でありながら、人に近づいた愚か者だ。
何を思って出奔したかなど、我が知るはずもなかろう。
ただ出奔しただけなら、我とて放っておくが、我が一族の仔をさらって逃げたとあれば、話は別だ。
知っての通り、我ら『龍』は長命な種族の性(さが)として、繁殖力に乏しい。
かの仔も百年ぶりに生まれた貴重な次世代。なんとしてでも連れ戻さねばならぬ。
他の一族に遣いをやったが、ゼカルラムの行方はようとして知れぬ。
ならば、ゼカルラムは人の世に身を潜めておるのだろう。
しかし、我らは人の世に詳しくない。
ツキリアム=セムニダ。おぬしはゼカルラムに縁深き者。よっておぬしに頼むのだ。
良いな。なんとしてでも、仔を連れ戻せ。なんとしてでも、だ」
そう念を押して、長は立ち上がった。
頭を天井にぶつけないように、身を屈めて家から出ようとする。
レリィーエは長と未だ衝撃から立ち直っていない師を交互に見た。
「ツキリ?」
レリィーエが声をかけると、ツキリアムははっとした顔になり、
今まさに家を出ようとしていた長を追いかけ、呼びかけた。
「長〜!」
ツキリアムはいくらか平静を取り戻したようで、
その声はやや硬かったが、いつもの間延びした調子だった。
長はその声に、億劫そうに振り返った。
狭い場所で振り向くのは、存外に辛かったからである。
「何だ」
「あのですね〜、この依頼は〜、わたし一人の手には余るので〜、
弟子のレリィーエにも手伝わせようと思うんですけど〜、構いませんよね〜?」
おまけで小首をかしげる可愛らしい仕草もしてみせたが、
長はそんなツキリアムを、冷ややかな目で見下ろして言った。
「構わぬ。好きにするが良い。重要なのは我が一族の仔を連れ戻すこと。手段は問わぬ」
「有難うございま〜す。魔術師ツキリアム=セムニダ〜。全力を尽くすでありま〜す」
そう言ってツキリアムは、機敏には程遠い、ゆるゆるとした動作で、
依頼者である、とある『龍』の一族の長に、笑顔でわざとらしく敬礼してみせたのであった。
長の姿が完全に見えなくなると、かなり面倒くさいことに巻き込まれた形のレリィーエは、
猛然と師に抗議した。
「ちょっと、ツキリ! なに勝手に決めてんのよ!」
「な〜に言ってんのよ〜。師匠の仕事を手伝うのは〜、弟子として当然の務めでしょ〜?」
「そりゃそうかも知んないけどさ! 明らかに押し付けようとしてるでしょ!」
「ま〜、ヒドイこと言うのね〜。わたしが信じらんないの〜?」
「信じられるか!」
先程までとは打って変わって、真剣な顔つきをしたツキリアムは、
その左が赤で右が青の金銀妖瞳(ヘテロクロミア)を怪しげに光らせて、厳かに命じた。
「レリィーエ=オルト。師であるツキリアム=セムニダの名において命じます。
<青白(せいはく)>のゼカルラムが連れ去った『龍』の仔の行方を捜索しなさい」
いつもと違う、ハキハキとした喋り方で話すのは、ツキリアムが本気であるからだと、
レリィーエは知っていた。
本気のツキリアムに逆らうほど、レリィーエは愚かではない。
大きなため息をつき、しぶしぶといった様子であったが頷く。
「・・・了解。で、ツキリはどうすんのよ?」
「ん〜、ちょっと〜、別口から捜してみようかな〜ってね〜」
元の間延びした口調に戻ってはいたが、真剣な目つきのまま、
開け放たれた窓の外を見るツキリアム。
その目は遥か上空を飛ぶ、小さな黒い点を捉えていた。