寿命のない国はない。

同じ体制が永遠に続くことはなく、同じ名を冠した国であっても、

その長い歴史の中で幾度となく生まれ変わっているものだ。

それを思えば、五百二十三年続いたこの王朝は、長生きの部類に入るのだろう。

しかし、年老いた老人の身体のいたる所にガタが来るように、

じわりじわりとこの王国はほころびて行っていたのだ。

 

 

落城前夜   〜王子と召使の物語〜

 

 

今まさに、陽が落ちようとしていた。

窓から差す西日に眩しさを覚えて、スヴェンは目を細める。

少し前までは、自分をそうした不快な思いをさせないように、

使用人が素早く帳(とばり)を閉めていてくれていたのだが、今は自分で閉める他ない。

面倒だが仕方がないとペンを置き、立ち上がる。

大きな窓の帳の紐を解いて薄暗くなった室内で、ランプに火を灯した。

これも最近になって覚えたことだった。

ついこの間まで、スヴェンはランプの付け方も知らなかった。

否、知らなくても良い立場にあったのだ。

スヴェンはこの国の国王の弟。

兄王に子がない為、王位継承の順位は第一位、王太弟だ。

しかし、本人も周りも、スヴェンが王位を継ぐとは、今も昔も考えてはいなかった。

昔はスヴェンが政治よりも詩作の方ばかりに興味がある変わり者であった為、

今はその王制という仕組みそのものが崩壊しかかっている為に――――。

 

 

スヴェンはガチャガチャと音を立てながら、なんとか茶を入れ、

一口すすって、苦い顔をした。

我ながら酷い味だとため息をつく。

ただ自分好みの美味しいお茶を飲むこと、

そんな些細な望みも、侍従や侍女の手を借りなければ達成出来ない。

彼らの有難みを今更のようにスヴェンは感じていた。

「うーん。なくなって初めて価値を知るとは使い古された言葉だけど、真実なんだね。

いや、使い古された言葉だからこそ、真実なのかな……」

「殿下!」

感慨深げにつぶやいていると背後から声がかかり、スヴェンは振り返る。

確かにそれまでスヴェンしかいなかった部屋に、扉の開閉音もなく忽然と現れた女が現れた。

その女は、召使の格好をしてはいたが、明らかに召使ではなかった。

それどころか、人間ですらない。

姿かたちは人に似ているが、先のとがった耳や炎のように赤く染まった瞳、

濃い紅の柔らかく波打つ髪は、人にあるはずのない特徴だった。

しかし、スヴェンはまったく驚かずに、平然と彼女を向かいいれる。

「おかえり、ナディア。何か食べられそうなものは残っていた?」

ナディアと呼ばれた女は、不機嫌そうな顔で紙包みを差し出した。

「城の中にはめぼしいものがなかったから、外から持ってきたわ」

スヴェンは受け取った紙包みを開いて、包み焼きのいい匂いに顔をほころばせる。

「そう、ご苦労だったね。初めて見る食べ物だけど、美味しそうだ」

「もう! なんで殿下はそんなに暢気なの!」

ナディアはスヴェンの態度に柳眉を逆立てた。

スヴェンは穏やかに笑いながら、紙包みごと差し出そうとする。

「ほら、ナディア。そんなに怒るものではないよ。美しい顔が台無しだ。君も食べるかい?」

「人の食べ物なんて食べないわよ!」

「術が完全に解けてるよ、ナディア。まぁ、もう咎める者もいないけどね」

スヴェンはからかうように言った。

ナディアはスヴェンが秘術で呼び出した使い魔だった。

いや、スヴェンとて、呼び出そうとして呼び出したわけではない。

この世界から魔術が消えて久しい。

スヴェンがナディアを呼び出したのも、単なる偶然だった。

少年だったスヴェンが、王城の書庫の奥も奥に眠っていた魔術書を詩の本と勘違いして持ち出し、

暗唱したら呼び出してしまったという、なんとも情けない召喚のされ方をしたナディアだったが、

驚きながらもナディアの為の詩を即興で作ったスヴェンを気に入り、主従関係を結んだのだった。

それから七年、ナディアは人に擬態し、側付の侍女として、ずっとスヴェンの側に居た。

そして、現王制に不満を持つ市民が各地で蜂起し、市民軍がこの王城を取り囲んでなお、

スヴェンの側に残ったのは、このナディアだけだった。

「殿下は正気なの!? 明日にはこの城は落ちちゃうんでしょ!? なんで逃げないの!?」

その悲痛な叫びには、本気で主を思う気持ちが込められていた。

しかし、スヴェンはその気持ちを知りつつも、苦笑するしかない。

「兄上とオーウェルはおろか、セレラインやレイステル、キバやブロウも残っている。

僕が逃げられるわけがないだろう?」

「あの女は逃げたでしょ!」

「義姉上……エレアノア嬢のことなら、彼女は城を出る権利を持っているからね。

というより、彼女は出るべきだったんだよ。それももっと早くにね」

「なんであの女はいいの? 王の后じゃないの? わけわかんない」

納得がいかないと怒るナディア。

スヴェンはそんなナディアにどう説明してよいか、少し考えてから答えた。

「簡単に言ってしまえば、彼女は被害者で、城の外に彼女を待っている人がいるから、かな?

ここに残っているのはね、ここ以外に生きる場所のない者たちだよ」

「そんなのおかしい。人なんて、どこにだって暮らしてるじゃない。

殿下だって人間でしょ? 同じ人間なのに、ここ以外で暮らせないなんてこと、どうしてあるの?

そりゃあ、魚は水の中にしか生きられないし、熊だっている所といない所がある。

でも、人間はどこにだって暮らしてる。この城以外にたくさん。

それなのに殿下は、城以外で暮らせないって言う。そんなの、おかしいじゃない」

「ナディア、暮らすのと生きるのは、必ずしも一緒じゃないよ」

「何で? どう違うの?」

「僕はこの国の王子として生まれた。これはわかるだろう?」

「うん」

「そして僕はこの国の王子として死ぬつもりだ」

「だから?」

「だから僕はこの城を出て行かないんだよ」

それが答えだよ、と笑うスヴェンに、ナディアは首をかしげる。

「何で? 別に城にいなくたって、殿下は前の王様の息子なんだから、王子なんじゃないの?」

「それは違う。僕が王子である為には、王制がなくてはならない。

王制がなくなれば、僕は元王子であって、王子ではなくなってしまう。

王子という身分ごと、なくなってしまうんだよ」

「それは、いけないことなの? だって殿下、言ってたじゃない。

いっそのこと、王子に生まれなければ良かったのに、って」

「うん。言ったね。でも僕は王子として生まれてしまったからね。

どんなに王子らしくなくても、王子として生まれた時点での責がある。

僕はね、正直、王制はなくなってもいいと思うよ。

でも、やっぱり、僕は王子なんだ」

「わからない。わからないよ、殿下……。どうして、どうして?」

謎かけのようなスヴェンの言葉に、ナディアは泣きそうな顔で首を横に振る。

スヴェンは穏やかな笑みを浮かべながら、「そうだね」と頷いた。

「ナディアは、わからなくていいよ。いや、わからないでおくれね」

その声は穏やかで優しいのに、ひどく悲しく響いた。

 

 

ナディアは眉尻を吊り上げて、微笑んでいるスヴェンに尋ねる。

「なんで? なんで殿下は笑ってるの? 死ぬのがそんなに嬉しいの?」

スヴェンはそんな彼女に目を細めて、その問いに答えた。

「だってね、ナディア。泣いて死のうが笑って死のうが、死ぬのには違いないじゃないか。

それとも、ナディアは僕のうろたえている姿を最後に見たいのかい?」

からかうように言ったスヴェンの言葉に、ナディアは黙り込んでしまった。

うつむき、唇をかみ締める。

その表情は人間と大差なかった。

否、人よりも感情を素直に出していた。

スヴェンは、彼女を羨ましく思う。

王朝は、スヴェンが生まれた時には、既に瓦解が始まっていた。

ここまで持ちこたえた方が奇跡といえるに違いない。

スヴェンは王族としての責務を果たしていないことを、重々承知していた。

だが、どうしても血生臭いことは苦手だった。

政治も戦争も、どちらも多くの血にまみれている。

生産性はなくとも、詩作の方が遥かに性に合っていた。

彼のそのような態度が、国民の不満を煽ったことは確かで、

彼なりに兄王たちに迷惑をかけたことは悪いとは思っているのだが、

態度を改めて政治に励むことはしなかったのだ。

我がままだと、自分でも思う。

いくら紙に文字を綴ろうと、それが麦に化けることはない。

そう承知しつつも、彼は書かずにはいられなかったのだ。

もし、せめてもっと平和な時代に生まれていれば、

彼は大好きな詩のことだけを考え、寿命を全う出来たかも知れない。

不安を笑顔で誤魔化さなくても、生きられたかも知れない。

しかし、それは仮定でしかなく、彼は明日、死ぬのだ。

「ナディア」

スヴェンは、彼の使い魔の名を呼ぶ。

呼びかけても、うつむいたままのナディアに、スヴェンは苦笑して席を立った。

わずかな隙間から差し込む月光にひかれ、スヴェンは帳を開ける。

窓の外に目を向けて、感嘆の声をもらした。

「あぁ、今日は満月だったんだね。とても綺麗な月だ……。ほら、ナディアも来てごらん」

それでも顔を上げないナディア。

スヴェンは月を見上げて、ぱっと浮かんだ詩を暗唱した。

 

老木にも若木にも 月影は等しく優しく降り注ぐ

しかし 陽の恩恵にあずかれるのは

若くしなやかな木たちだけ

老いてきしむ木たちは

陰に倒れて朽ち果てる

月よ月

優しく白い月明かりで

寂しい夜を抱きしめて

 

「君には感謝しているよ、ナディア。ひとりでこの夜を過ごすのは、寂し過ぎるから」

「殿下、殿下はひどいわ。ひどいし、ずるい」

やっと口を開いたナディアに、スヴェンは釘を刺す。

「言っておくけどね、ナディア。僕を無理矢理連れて行っても無駄だよ。

連れて行かれた時点で自害するからね。それとも魔術で僕を傀儡にでもするかい?」

「しないわよ! 傀儡なんかにしたら、もうそれは殿下じゃないもの!」

「ナディア……」

「悔しいわ! ものすごく悔しい!

あたしには殿下をこの城から逃がすことも、外の奴らを皆殺しにすることも容易いことよ!

なのに、出来ないだなんて、しちゃいけないだなんて、歯がゆくて仕方がないのよ!」

「うん、有難う。でも、ごめんね、ナディア」

「ずるい……ずるいよ……殿下ぁ」

とうとう両手で顔をおおってしまったナディアの頭を撫で、

スヴェンは何度も、有難うとごめんねを繰り返す。

二人は何度も何度もお互いの名を呼び合い、お互いの存在を確かめ合った。

 

 

柔らかなソファで、スヴェンは目を覚ました。

帳の隙間から差し込む朝日に、目をしばたたく。

ずり落ちそうになった毛布を引き上げていると、

身動きをした為か、隣で眠っていたナディアも目を覚ました。

「おはよう、ナディア」

「……おはよう、殿下」

にっこりと笑うスヴェンに、ナディアは泣きたいような、怒りたいような微妙な顔で挨拶を返す。

スヴェンはソファから立ち上がり、帳を紐でまとめ、大きな窓を開く。

窓からは朝の爽やかな風と共に、がやがやという人の声が壁の向こうから聞こえてきた。

スヴェンは窓の外を指して言った。

「ナディア、お別れだ」

「嫌よ。最後まで一緒にいるわ!」

毛布を盾のように抱きしめて、ナディアは叫んだ。

「一緒にいさせてよ! 殿下!」

「駄目だよ」

「殿下!」

ナディアは必死になって言い募ったが、スヴェンは首を横に振る。

「本当は、君をもっと早く解放しなければならなかったのに、

最後の朝まで側に置いていたのは、僕の我がままだった。さぁ、行って、ナディア」

いやいやと首を横に何度も首を振るナディア。

スヴェンはソファに歩みより、毛布ごとナディアを抱きしめる。

「きっと僕が書いた詩は、全部燃やされてしまうだろう。

けど、ナディア。君だけはきっと覚えておいておくれね。

僕のことを、忘れないでおくれね」

「うん。きっと忘れないわ。絶対、忘れないからね、殿下」

「うん、有難う」

ぽろぽろと落ちるナディア涙を舌ですくい、頬に口付けを落として、

スヴェンは彼女を立ち上がらせた。

そのまま手を引いて、窓辺まで送る。

「本当に有難う。ナディリアシェルベルダ。君を解放する」

真の名を呼び、スヴェンはナディアの背中を軽く押す。

契約破棄の言葉に、ナディアは泣きながらうなづいて答えた。

「さようなら、スヴェン殿下」

ナディアは何度も振り返りながら、出て行った。

スヴェンは寂しげな笑顔を浮かべて、その背中を見送る。

やがて、部屋にひとりになったスヴェンの耳に、王城を囲む市民軍の鬨の声が届いた。

ずっと窓辺に立って、ナディアが消えた方を見つめていたスヴェンだったが、それで我に返る。

机に向かい、今の想いの全てを詩にする為、ペンをとった。

 

 

彼の詩は、彼の予想通りに燃やされ、彼の名さえ、歴史から葬られてしまった。

しかし、この国の者は、綺麗な満月の夜に、不思議な歌を聞くことがあるという。

どこからともなく聞こえてくるその歌は、とても優しいのに、とても悲しく響くのだそうだ。




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