寿命のない国はない。

同じ体制が永遠に続くことはなく、同じ名を冠した国であっても、

その長い歴史の中で幾度となく生まれ変わっているものだ。

それを思えば、五百二十三年続いたこの王朝は、長生きの部類に入るのだろう。

しかし、年老いた老人の身体のいたる所にガタが来るように、

じわりじわりとこの王国はほころびて行っていたのだ。

 

 

落城前夜  〜姫と騎士の物語〜

 

 

今まさに、陽が落ちようとしていた。

オーウェルはそれを、今は植物ばかりとなった空中庭園で見上げていた。

ここも少し前までは散策をする貴族もいたのだが、今は彼女の他に誰もいない。

それもそのはずだった。周りを完全に市民軍に包囲されたこの城は、明日落ちるだろう。

沈みかけた船に残る酔狂な者は多くない。

今この城に残っているのは、王族や古参の臣下など、十人ほどしかいなかった。

一年前には大貴族から下働きまで含めて、万に近い人数が出入りしていたのだから、

現在の城の寂しさは言うまでもない。

陽の落ちる様を見ながら、オーウェルは無表情に佇んでいた。

その顔に恐怖も悲しみも見えない。まだ十五の姫君らしからぬ、悟りきった表情だった。

すっかり陽が落ち、辺りが暗くなっても、オーウェルはそこに立っていた。

微動だにせず、ただ時を待っていた。

滅びの兆候は、オーウェルが生まれた時から既にあった。

父王が崩御し、兄が王位を継ぐ頃には、更にそれは謙虚なものとなっていた。

オーウェルは兄王に子がいない為、次兄に次いで王位継承第二位という立場にいたが、

外界のことは女官たちの噂話でしか知らなかった。

それでも歪みが見えなかったわけではない。

夜会や園遊会などの回数が減り、参加貴族の数が減り、参加者の着飾るものも減っていた。

つまり、貧困は民を通り越し、既に貴族階層にまで及んでいたのだ。

兄王は様々な改革を実行しようとしていたが、

枯れかけた老木にいくら肥料を注いでも若返りはしないように、

じわりじわりと国は滅びへと向かっていた。

むしろ、よく持った方だと言えるだろう。

他国に攻められることも度々あった。

しかし、腐りかけた国にも一人二人は有能な者がいるもので、今まで持ちこたえてきたのだ。

今回の民が蜂起し政府を倒そうとする動きは、とうとう抑えられなかったのだが。

 

 

城は人がいない為に暗かったが、空中庭園は月光によって照らされ、

真っ暗というほどでもなかった。

春には珍しい、星々も霞むような満月だ。

オーウェルは黙って瞳を閉じ、日暮れ前と同じ場所に立っていた。

死ぬ時はここで、と心に決めている。

ただ時が過ぎるのを待っていたオーウェルの耳に、

微かな足音が聞こえてきたのは、そんな時だった。

酷く急いでいるような、そんな足音だ。

オーウェルは怪訝に思い、瞳を開いた。

今頃は各々、思い通りの最後を過ごしているはずだ。

今更慌てることなどないだろうに。

足音はどんどんオーウェルの方へ近づいて来ている。

そちらの方を見るも、オーウェルは動かなかった。

やがて、足音が本当に近くまで来た時、オーウェルの表情が初めて動いた。

目を見開き、本当に驚いた表情を浮かべている。

そこに居たのは、まっすぐな瞳をした青年だった。

身にまとうものは多少汚れてはいたが、近衛兵のもの。

ここにいるはずのない人間だった。

青年はオーウェルの姿を認めると、ふんわりと笑った。

「オーウェル殿下、やはりこちらでしたか」

「コンラート……あなた……何故……」

「殿下はこちらがお気に入りだったでしょう? 見つけるのは簡単でしたよ」

「違うわ。そうじゃない。あたくしが言いたいのは、何故戻って来たのかということよ」

オーウェルは動揺を隠す為にわざとキツイ調子で言った。

もちろん、戻って来なければ良かったのに、という思いも滲ませて。

コンラートと呼ばれた青年は、心外だという表情でそれに答えた。

「私に言わせれば、何故と問う方が間違っていますよ。

私は城を出たくはなかった。貴女のお側を離れるつもりなど、毛頭なかったのです。

それが気がつけば郊外のきこり小屋。

怒りたいのはこちらの方です」

「あなたまで死ぬ必要はないじゃないの。あなた、まだ十八なのよ」

「それを言うなら、貴女は十五です」

「あたくしは王族だもの。逃げることなんて出来ないわ」

「オースティン将軍やレイステル将軍も残られたと聞きました。

近衛の私が残っても不思議はないでしょう」

「オースティン将軍は……セレラインは兄様の愛妾なのよ。

レイステル将軍も五十年以上も王家に仕えている忠臣。あなたとは違うわ。

それに近衛というのなら、兄様の所へ行けば良いでしょうに」

オーウェルはああ言えばこう言うコンラートを睨みつける。

あくまでも頑ななオーウェルに、コンラートは肩をすくめた。

「私はそこまで野暮ではありません。

陛下はオースティン将軍と最後の時を過ごしておられるでしょう」

「御託はいらない。早く城を出なさい。あたくしが教えた隠し通路を通って来たのでしょう?

今ならまだ、そこから出られるはずだわ」

「お断りします」

「コンラート!」

オーウェルが初めて声を荒げた。

「あなたは今死ぬべきじゃない! 何の為に薬まで盛って、あなたを逃がしたと思っているの!」

「殿下の方こそお分かりでない!」

今まであくまでも穏やかな話し方をしていたコンラートも、とうとう大きな声を上げた。

「自分の死ぬ時くらい、自分で選べます!

私は貴女をお守りすると誓った。

その約束も守れぬというのに、更に私だけ生き恥をさらせと仰るか!」

「約束など、幼い頃の戯れの言葉でしかないでしょう! ただの子どものお遊びだわ!」

「戯れでも遊びでも、ここまで来られたのは、その約束を糧にしたからです。

そうでなければ、男爵家の次男坊が近衛まで登って来られはしなかった」

「このように沈むことが明白だった国だわ、人手不足も甚だしかったのね」

「殿下!」

「もう、いい加減にして頂戴、コンラート! あたくしを困らせないで!

心穏やかに最後を過ごさせて頂戴!」

全てを諦めてしまえば、独りきりであれば、それは容易いことだった。

けれど、自分の所為で更に人が死ぬことは恐ろしい。

何故今になって、こんな思いをしなければならないのだろう。

信頼出来るコンラートの上司に頼んで、彼の飲み物に眠り薬を入れさせた。

そして眠ってしまった彼を、城を出る最後の人々に、

本当に沈むその直前まで仕えてくれた者達に任せたのだ。

これで、心配することは何もない、そう思ったのに、彼は帰って来てしまった。

自分の側で死ぬ為だと言って……。

 

 

「コンラート、お願いよ。城を出て頂戴。あなたはこんな所で死ぬような人じゃないわ。

この国は一度滅びる。それでも、世界は滅びない。

あなたほどの能力があれば、どこででも生きていけるわ。

お願い、生きて……」

オーウェルの瞳から涙がこぼれた。それを拭いもせず、オーウェルはコンラートを見上げる。

コンラートはその涙をそっと拭い、穏やかな微笑みを浮かべて言った。

「ご存知ですか? 遠い東の国々には、天にかかる川に阻まれた恋人たちの伝説があるそうです。

彼らは年に一度しか、その川を越えて会うことが出来ない。

しかし、それでも彼らは年に一度は会えるのです。

しかし、片方が死んでしまっては、永遠に会えないのですよ。

その川が渡れる時が来ても、愛おしい人はもう向こう岸にいない……。

それほど悲しいことがあるでしょうか。

同じもう二度と会えないのであれば、最後を共に過ごしたいと思うことに、

何の咎があるでしょうか」

オーウェルはその話を聞き、天を仰いだ。

満月の所為で、星で出来た川をはっきりと見ることは出来ない。

美しい満月も、罪なものだと思う。

そこではっと、あることに気付き、オーウェルはその柳眉をしかめた。

「そのたとえには、ひとつ問題があるわ」

「どこでしょう?」

「あたくしたちは、恋仲ではない、ということよ」

確かに二人の関係は一国の姫と騎士。それ以上でも以下でもない。

否、それ以上になり得ない関係なのだ。

コンラートは一瞬きょとんとした顔をした後、ふんわりと笑って言った。

「それでは殿下、それ以外の所はお認めになるのですね?」

「…………」

もし自分が生き残る側であったなら、同じことを言うだろう。

それは分かっているのだ。

オーウェルは少し怒ったような口調で尋ねた。

「どんなに言っても、あなたは出て行かないのね?」

「もちろんです、殿下」

「どうしても?」

「貴女も一緒なら、考えないでもありません。

しかし、貴女はどんなに申し上げても、出ては行かれないのでしょう?」

コンラートの問いに、オーウェルは毅然とした口調で答える。

「当たり前だわ。あたくしはこの国の王妹なのよ。

ここを出て行く時は、他国に嫁ぐ時か、死ぬ時だけだわ」

その瞳は気高く輝いていた。

命の為に誇りは捨てられるという。

しかし、それは本当の気高さを知らないからだ。

生まれた時から気高くあれと育てられた姫君は、

その王族としての誇りを捨てるくらいならと死を選んだのだ。

コンラートは眩しいものを見るかのように目を細めると、

オーウェルの前に跪き、騎士の礼をとった。

「それでこそ、我が姫です。この身が滅びるまで、貴女をお守りすることをお許し下さい」

深々と頭を下げるコンラートを見下ろし、オーウェルは瞳を閉じた。

静かに息を吐き、たった一言を、それでも気力の全てを振り絞るように言った。

「許すわ」

「有難き幸せに存じます。オーウェル殿下」

コンラートはそう言って、ドレスの裾に誓いの口付けを落とした。

 

 

オーウェルとコンラートは花壇の縁に並んで座っていた。

いつの間に眠ってしまったのか、オーウェルが気がついた時には、既に陽が昇り始めていた。

コンラートの肩にもたれながら見る最後の太陽は、いつもと変わりなく輝いている。

「そろそろですよ、殿下」

コンラートが腰の剣の柄に手をかけながら立ち上がった。

オーウェルは肩にかけられていた紺のマントをコンラートに返しながら頷く。

その時、大地を揺るがすような鬨の声が聞こえた。

王城を包囲している市民軍の声だ。

もうすぐ彼らが城に雪崩れ込んでくる。

そして、自分たちは死に、この国は一度滅びるだろう。

それでも恐怖を抑えておけるのは、隣に立つ人がいるからだろうか。

「コンラート」

「何でしょう」

「有難う」

穏やかな美しい笑みを浮かべて、オーウェルはコンラートを見上げた。

コンラートはそれに微笑み返し、静かに口付けを落とした。

それは一枚の絵のような、美しい光景だった。

 

 

王国最後の姫君と騎士の物語を、語り継ぐ者は誰もいない。

彼らが何を思い生きたのか、それを証明するものは、ひとつとして残らなかった。

それでも、彼らは確かに生き、そして死んだのだ。

 

 

これは語られることのない、誇り高い姫君と、まっすぐな瞳を持った騎士の物語。




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