寿命のない国はない。

同じ体制が永遠に続くことはなく、同じ名を冠した国であっても、

その長い歴史の中で幾度となく生まれ変わっているものだ。

それを思えば、五百二十三年続いたこの王朝は、長生きの部類に入るのだろう。

しかし、年老いた老人の身体のいたる所にガタが来るように、

じわりじわりとこの王国はほころびて行っていたのだ。

 

落城前夜    〜王と愛妾の物語〜


 

今まさに、陽が落ちようとしていた。

セレラインはそれを、人気がなく閑散とした王城の回廊から見上げている。

これで夕陽も見納めかと思うと、いつもよりも美しく思えた。

人気がないのも道理で、この城は市民軍によって完全に包囲されている。

逃げる者は囲まれる前に皆逃げた。

今この城に残っているのは、王を含めて十人ほどしかいない。

一年前には大貴族から下働きまで含めて、万に近い人数が出入りしていたのだから、
現在の城の寂しさは言うまでもない。

今セレラインは、この城を去る最後の人物の見送りに向かっている所だった。

辺りが暗くなってきたが、管理するものがいなくなった回廊に明かりを灯すことは出来ない。

念の為に持ってきたランプに火を入れて、行く先を照らした。

城門である跳ね橋は上がったままで、まだ待ち人が来ていないことを表していた。

「セレライン様?」

待っていた時間はそう長くはない。

かけられた声に振り向くと、そこには二十歳をいくつか過ぎた高貴な女性が、

侍女らしき女性を連れて立っていた。

セレラインはランプを地面に置き、裾をつまんで一礼した。

それはこの国の貴婦人が、より高貴な者に対してする礼だ。

「お待ちしておりました。正妃様、いえ、もうそうお呼びするのは、止めに致しましょう。

これから貴女は自由の身です。エレアノア様とお呼びすることをお許しくださいませ」

「なっ、毒婦が気安く御名をお呼びするなど!」

「良いのです、サラ」

サラと呼ばれた侍女をなだめて、エレアノアはセレラインに向き直る。

「私を待っていたのですか?」

「はい。お見送りを、と思いまして。

わたくしとエレアノア様の間には、数々の確執がございましたが、

最後にお頼みしたいことがございます」

セレラインは顔を上げ、エレアノアの顔を真っ直ぐ見つめて微笑んだ。

セレラインとエレアノアの関係を一言で表せば、正妃と愛妾ということになるだろう。

六年前に輿入れしてきたエレアノアは、独立色の強かった地方の公爵の養女。

対するセレラインは古くからの王室に仕える将軍家の娘で、

しかも彼女自身、一軍を率いて戦に出る将だった。

この二人とその取り巻きたちの間に散った火花の数々は、想像するに難くないだろう。

そのセレラインがわざわざエレアノアの見送りに来て、しかも頼みごとがあるというのだから、

侍女のサラがいぶかしむのも、無理もない話だ。

セレラインはそんなサラに不敵な笑みを見せると、再びエレアノアに向かい合う。

先に口を開いたのは、意外にもエレアノアの方だった。

「セレライン様は、逃げないのですか?」

「えぇ。最後まで陛下のお側に侍る心積もりです。

エレアノア様は、どうして明日総攻撃というギリギリの時まで城を出られなかったのですか?

愛おしい殿方が待ってらっしゃるでしょうに」

市民軍を率いている青年はエレアノアの幼馴染で、二人は恋仲だったという。

娘のいない公爵家が、美しいエレアノアに目を付け、

強引に養女にして王家に輿入れさせたことは公然の秘密だ。

権力者に恋人を奪われた男が、その他の王家や貴族たちに不満を持つ者を集めてまとめ上げ、

革命軍と名乗ってここまでやってきた。

それを知らぬ者は、老人から子どもまで含めてこの国にはいない。

エレアノアは儚(はかな)げに微笑むと、ぽつりと呟いた。

「私は……怖いのです。
王の妃として六年を過ごした私を、彼は本当に今でも愛してくれているのか、
憎しみだけでここまで来てしまったのではないかと。

彼が私を嫌いになってしまったのではないかと考えるだけで、
恐ろしくて恐ろしくて、たまらないのです」

エレアノアの瞳から、大粒の涙がこぼれた。

顔を覆ってしまった主の肩を抱き、サラが慰める。

セレラインはほんの少し目を細めて言った。

「本当に可愛らしいお方。ですが、結果を先延ばしにしても、
良いことは何もございませんでしょうに。

城に長く留まれば留まるほど、疑われるというものでございましょう?

さっさとお行きなさいませ。跳ね橋をお下げ致しましょう」

セレラインはからくり仕掛けの跳ね橋を作動させる為、
詰める者がいなくなった衛兵の詰め所に入る。
装置を作動させて外に出ると、ガラガラと音を立てて下がる跳ね橋の向こうに、
いくつかの人影が見えた。

「ノア!」

「シュン!」

愛称を呼ばれて、エレアノアが顔を上げる。
そこには松明の明かりに照らし出された、夢にまで見た愛しいひとの姿。

城外へ駆けだそうとしたエレアノアは、詰め所の戸外に立っているセレラインに呼び止められた。

「お待ちください、エレアノア様。
市民軍の中、おそらく幹部の中にイザークという二十歳前後の男がいると思います。

彼に伝えていただけますか? 

『セレライン=ロアン=オースティンは逃げも隠れもしない。

陛下のお側で、首を洗って待っている』と」

「えぇ、分かりました。必ず伝えます。……さようなら、セレライン様」

「よろしくお願い致します、エレアノア様。

貴女がこれから歩む道を、良き太陽と良き月が照らしますように」

この国に古くから伝わる別れの文句を送り、セレラインは競争相手だった女性に頭を下げた。
他人は信じないかも知れないが、かの貴女(ひと)のことは嫌いではなかった。
ただお互いの立場を考えれば、その気持ちを表に出すことは出来なかったけれど。
一見思わず守ってあげたくなるような雰囲気の持ち主なのに、芯は強くて、
真っ直ぐで、それでいて柔軟性も持ち合わせていて、とても優しい女性(ひと)。
五つも下のかの貴女(ひと)に憧れていたと知ったら、人々は笑うだろうか。
だがおそらく、この想いを口外することなく終わるだろう。
もうすぐ自分の人生の幕は下りる。
だが 彼女にはこれからがあるのだ。
セレラインはエレアノアが城門を出たことを見届けると、
跳ね橋を上げる為に再び詰め所に入り、装置を作動させる。
詰め所の窓から見えた再び上がり始めた跳ね橋の向こうには、固く抱き合う男女の姿があった。
これからやっと、かの貴女(ひと)は幸せを感じることが出来るだろう。
その幸せが永く続けばいい。
セレラインは心の底から、そう願った。

 

 

セレラインが跳ね橋が完全に上がりきったことを確認していると、背後に人の気配があった。

「正妃様はお行きなされたかな?」

セレラインがランプの明かりを向けると、そこには一人の老人が立っていた。

「レイステル将軍。えぇ、たった今」

「ほう、そうかね」

「レイステル将軍は行かれないのですか?」

尋ねるセレラインに、老将軍はかっかっかと笑った。

「なぁに、どうせこの老いぼれは新しき世に馴染めんじゃろうからのぅ。

それに陛下に剣を教えて差し上げたのはわしじゃ。

『忠臣は二君に仕えず』と言うじゃろう?

して、そう言うお前さんは?」

「沈み行く船と運命を共にする覚悟を決めた酔狂なのは、お互い様ですね」

「まったくじゃ。そうそう、イザークとは何者かの?

わしはてっきり、お前さんは陛下一筋と思うておったのじゃが」

この期に及んで他人の色恋沙汰で目を輝かせている老将軍に、セレラインは苦笑して答えた。

「弟ですよ。八つ年下の」

「そうか、弟御はイザークと言ったのか」

「えぇ。五年前、両親を見殺しにしたわたくしを恨み、市民軍に身を投じたと聞いております」

セレラインがそう言うと、老将軍は珍しく真面目な顔をして言った。

「そうか。じゃが五年前のお前さんの選択を、わしは正しかったと思うぞ。

確かにお前さんの両親の館が盗賊団に襲われた時、お前さんは一軍を率いていた。

そこで引き返せば両親を助けられたろう。

しかし、引き返していては、隙をついて攻め入って来た隣国の軍を撃退することはできなんだ」

老将軍の優しい言葉に、セレラインは微笑んで答えた。

「正しさとは、所詮主観に過ぎませんよ。わたくしもあの時の選択を後悔してはおりませんし。

ただ、弟の正義とわたくしの正義がくい違っただけの話です」

「そうか……そうじゃの。……この後、お前さんは陛下の元へ行くのじゃろ?」

「えぇ、そのつもりです。将軍は?」

「そうじゃのぅ、キバの奴ととっておきの酒でも飲むかの。

やれ、むさ苦しい髭面より若い娘と飲んだ方が美味いというもんじゃが」

「キバ将軍も残られたのですね」

「あぁ。後は聖官のじじぃが一人に、女官長と古参の女官が二人ばかし。

まったく、年寄りばかりでつまらんわ」

つまらんが若い者には未来があろうて、と老将軍が呟く。

「スヴェン殿下とオーウェル殿下は?」

セレラインはまだ十七と十四の王弟王妹両殿下のことを尋ねた。

老将軍はあぁ、と頷き、思い出すように言う。

「えぇと、確かスヴェン殿下は自室で詩を書かれておった。

あの御方の美的感覚はわしにはついて行けんのじゃが……。

オーウェル殿下はまた着飾って空中庭園の方におられたよ。

御二方とも王族として、覚悟を決めておられる。

まだ十代だというのに、誇り高く立派なことじゃ。

……お前さんはお会いしに行くのかね?」

薄っすらと浮かべた涙を手の平で拭う老将軍に、セレラインは「いえ」と首を横に振った。

「取り乱しておられないなら、それで良いのです。

それに春の夜はそう長くはありませんから、ひと時でも長く陛下のお側に……。

では、さようならレイステル将軍。この世でお目にかかるのも、これが最後になりそうです」

「あぁ、セレライン。では死後の世界で会おうぞ」

そう言い合って、王室に忠誠を誓った最後の武人たちは、
それぞれの目的地へと散って行ったのだった。

 

 

こつこつと、誰もいない真っ暗な廊下に足音が響く。

今はぼんやりとランプの明かりに照らし出されるこの廊下を、幾度辿っただろう。

セレラインは昔を思い出しながら、通いなれた道を一歩一歩かみ締めるように歩む。

やがて大きく立派な扉の前に着くと、セレラインは足を止めた。

いつも取り次いでくれていた少年侍従も、もういない。

なので、自分でその扉を開けて中に入る。

そこは取次ぎの為の部屋で、奥にもう一枚の扉があった。

今度は軽く叩いてから、扉を開けた。

「失礼致します、陛下。セレラインにございます」

広い室内には代々の王が使用した高級家具が並べられていた。

そしてその一角には天蓋のついた大きな寝台。

その上に寝そべり、脇に置かれた明かりに照らし出されている貴人こそが、セレラインの主。

王国最後の王となる、レオーノフその人であった。

王はちらりとセレラインの方を見ると、軽く笑った。

「何だ、セシー。お前は逃げなかったのか?」

セレラインのことを愛称の『セシー』と呼ぶのは、この王だけだ。

今は亡き両親も『セレライン』と呼んでいた。

元々そう長くない名前だからだ。

だからこそ、王に愛称で呼ばれるのは、とても特別な想いがする。

「もちろんです、陛下。陛下がお嫌だと仰っても、最後までお側に侍るつもりですから」

ランプの灯を消したセレラインは、寝台の近くにあった椅子に座る。

王は寝台に寝そべったまま、セレラインを見上げた。

「まぁいい。あれは行ったのか?」

「えぇ、エレアノア様は行かれましたよ。……お寂しいですか?」

「まさか。他の男のことで頭が一杯の妃などいらんさ」

「だからお抱きにならなかったと?」

軽く眉を上げて驚いた顔をした王に、セレラインは笑って言った。

「まさか六年間もわたくしが知らなかったとお思いですか?

いくら寝室を共にされても騙されませんよ。

世の中の殿方には、そういう娘を無理矢理自分の物にすることを楽しみとしている者も

多いと聞きますのに、陛下も勿体ないことをなさいますね。

あれ程の美人はそうはいませんよ?」

「俺にそういう趣味はないというだけの話だ」

「そこで嘘でもわたくしがいるからと仰って頂けたら、この世に未練はございませんのに」

セレラインがため息をついて言う。

「悪いな。嘘がつけない性分なんだ」

「存じ上げておりますよ。幼き頃からお側にお仕えしておりますもの」

セレラインは三つ年下の王が王太子と呼ばれていた頃から学友として、また側近として側に仕えていた。

だから今、王が表面上は運命を受け入れている様子を装っていても、

内心では自責の念に駆られていることを察していた。

王とはどんな時でも、平気な顔をしていなければならないのだ。

そして誇り高くあらねばならない。

それを知っているからこそ、セレラインはいつもになく優しい口調で話しかける。

「この度のことの全てが、陛下の責任ではございませんよ。ただ時代は移ろうものでございますから」

「だが病んだこの国を立て直すことが出来ず、民に辛い思いをさせたことは事実だ。

なぁ、セシー。後世の者は俺を愚王と呼ぶのだろう?」

「そしてわたくしのことを、王を堕落させた毒婦と呼ぶのでしょうね」

「市民軍の指導者、確かシュンと言ったか? あれが英雄と呼ばれるのだろうな」

「そしてエレアノア様は聖女として、革命の象徴に祭り上げられるのでしょう。

権力に屈せず貫いた六年越しの純愛、民はそういう話を好みますから」

「俺たちは完全に悪役だな」

王が自嘲気味に笑う。

その笑みの痛々しさに、セレラインは王を元気づける為、わざと不敵な笑みを浮かべて言った。

「よろしいじゃございませんか。悪役がいなければ、お話だって面白くございませんもの。

古き時代の憎まれ役がいればこそ、新しき時代を良き時代にしようと努力するものでございましょう?」

「そうだな。そうなればいいな」

王がふっと笑みをこぼした。

それを見て、セレラインの顔にも穏やかな笑みが浮かぶ。

「なぁ、セシー」

「何です?」

「こちらへ来い」

寝台の上であぐらをかいた王が、にやりと笑いながら両膝を叩いている。

セレラインは仕様がないなぁという笑みを浮かべて寝台に上った。

王はセレラインを自分の前に座らせると、後ろから強く抱きしめた。

「……しばらくこうしていたい。じっとしていろよ」

「はい、陛下。仰せのままに」

セレラインはふと、窓の外に目を向けた。

大きな窓越しに見る月は見事な満月。

見納めの月としては、出来すぎているほど美しい。

セレラインは柔らかい笑みを浮かべ、そっと目を閉じた。

 

 

チュンチュンという鳥の鳴き声で、王は目覚めた。

部屋はまだ薄暗かったが、夜明けが近いことは確かだ。

素肌に敷布の感触が心地よかったが、手を延ばした先に目当ての人物がいないことに眉を寄せた。

「セシー?」

目をこすりながら身体を起こすと、すでに身支度を済ませた女が振り返った。

「お早うございます、陛下」

「早いな。もう服を着たのか。もう少し俺の目を楽しませてくれれば良いものを」

王が軽口を叩くと、セレラインはわざとらしくため息をついて首を振った。

「何を仰いますやら。お召し物をお持ち致しましたので、こちらにお召し替えくださいませ」

そう言ってセレラインは服を王に手渡した。

それは正式な場で着る、一番上等な服だった。

そして王はその時、あることに気がついた。

「セシー、それは喪服か?」

薄暗い室内の遠目では、黒なのか他の濃い色なのか判別出来なかったが、

こうして近づいて寝台脇の明かりに照らして見れば、その布地が漆黒に染まっているのが判る。

セレラインは、えぇ、と自分の服を見下ろして、何事もないかのように笑って言った。

「どうせなら毒婦らしく派手な服でも着ようかとも思ったのですけどね。

古き時代の終焉を悼む者が、一人くらい居ても良いのではないかと思いまして」

「それで喪服か?」

「はい。ですがご安心なさいませ。陛下のお召し物は喪服ではございませんから」

「見れば判るさ」

王はセレラインの手を借りずに、服を身につけ、いくつかの勲章をつけていく。

着替え終えた所で、ひざまずいたセレラインが王のみが羽織ることを許された深紅のローブと王冠を、

恭(うやうや)しく差し出した。

「最後の王としての晴れ舞台。見事にお務めくださいませ」

それらを受け取り、王は頷く。

「あぁ。彼らを迎えるのは、やはり玉座がいいだろうな」

「お供いたしますわ」
王者に相応しい深紅のローブをひるがえして、王が部屋を出た。
その後を、数歩遅れてセレラインが追う。
最後まで誇り高くあろうと伸ばされた彼らの背に、迷いや後悔の色はない。
そんな彼らを見送った重厚な扉は、永遠に戻らない部屋の主を名残惜しむかのように、
今ゆっくりと閉じていった。

 

 

山の向こうから朝陽が顔を出した。
その光は運命の夜明けに相応しく、雲に遮られることなく、あまねく地を照らす。

それと同時に、王城を包囲していた市民軍の鬨(とき)の声が上がる。

大地をさえも揺るがすようなその声は、城に残る全ての者の耳に届いた。

玉座に座ってその時を待つ最後の王と、その傍らに侍る愛妾の耳にも……。

朽ち果てた老木の側で、若芽が萌え出でるように、古き時代が終わり、新しき時代の幕が上がる。

終わった芝居の役者は舞台を去り、これからは新しい役者たちが新たな芝居を創っていくのだ。

 

 

王国最後の日。それは、麗らかな春の日の出来事だった。



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