私はこの学院に来るまで、このような世界は、妄想の中にしかないと思っていました。
私はそのようなジャンルがあることを知っていましたし、

周りにはどっぷり浸かっている友人がいましたから、

戸惑いはしても「ここは特殊である」と自分に言い聞かせることが出来たのです。
しかし、弟は私と違い、一般人でした。
ベーコンレタスと聞いて、ハンバーガーを連想するくらいに普通だったのです。
私はそれなのにこのような環境に身を置かなければならなかった弟が、不憫でなりません。
父も母も、まさかこの学院がそうであるなど、思いもよらなかったのです。
そうでなければ、大事な息子を、狼の群れにか弱い羊を差し出すような、

そんな無体な真似は出来なかったでしょう。
そう、仕方がなかったのです。
パンフレットにはそのようなことは、一言も書かれていなかったのですから。
このような言い方は、語弊があるかも知れません。
しかし、あえて分かりやすく言いましょう。
私たちが編入した私立綾品学院が、ホモの巣窟だったなど、私たち家族の誰も知る術がなかったのです。


全ては、母の海外転勤から始まりました。
母は外資系企業に勤めているのですが、この度その手腕が認められて、本社栄転となったのです。
これは喜ばしいことです。
しかし問題は、それに父がついて行くと言い出したことにありました。
父は母にぞっこんラブ(死語)で、連れて行かないと死んでやると言い張ったのです。
父の仕事は表向きは小説家でしたが、実際にはほぼ専業主夫でした。
なので、仕事の問題はありません。
あったのは、私たち姉弟のことだけでした。
母は私たちに日本国内で教育を受けさせたいという考えでしたが、

生憎、私たちを居候させてくれるような親戚はいなかったのです。
まだ高校生の私たちが二人だけで暮らすことには、父が反対をしました。
なら、残ってくれれば良いのに、と言ったのですが、
「お前は俺に死ねというのか? 俺は佐弥子さんがいないと死んじゃうぞ!」
と泣かれたので、それ以上ツッコむことは止めました。
40をとうに過ぎたオッサンが、めそめそ泣いている様は、直視に耐え難いものがあったからです。
弟は優しい子なので父を慰め、私と母は具体作を話し合いました。
「残る手は全寮制の学校に転入しかないでしょう。下宿も心配だし」
「六月の半ばなんて中途半端な時に受け入れてくれるトコなんてあるの?」
「えーと、コレね。母さんの上司の母校だって。一昨年から共学になったとかで」
そう言って母が取出したパンフレットには、緑溢れる敷地に建つ白亜の校舎が写っていました。
「雰囲気は良さそうだけど……おととしから共学って」
「そう。でも実際に女生徒が入ったのは、去年かららしいけど」
パンフレットには生徒数が書いてありました。
それによると、なんと全生徒数が731人なのに対し、女子生徒は13人とありました。
「この比率じゃ、後込みするのも当たり前っぽいけど。

というか、母さんたちは私をそんなトコに放りこんで平気なの?」
二人暮らしは反対だったクセに、という思いを込めて尋ねます。
母は平然と返してきました。
「だってセツなら大丈夫でしょう? それよりケイの方が心配ね」
「ちょっと、私なら大丈夫って根拠は?」
「そうね、ざっと30はあるけど、聞きたい?」
「……止めとく」
それを聞いてしまったら、何かが崩れそうだったので、チキンな私は聞くのを止めました。
それが賢明な判断だったかどうかは分かりませんが、母はあっさりと、
「そう?」
と笑って引き下がりました。
「圭吾は?」
後ろを振り返ると、弟はまだ泣く父を慰めている所でした。
「達彦くん、いい加減に泣き止んだら?」
母の一言で父の涙はぴたりと止まりました。
弟がいくら慰めても駄目だったのに、です。
「達彦くん、今日はイタリアンが食べたいな。ラザニアとか。大丈夫?」
「もちろん。佐弥子さんの食べたいものなら、なんでも作るよ」
泣いた烏がなんとやら、父は鼻唄まじりに台所へと消えていきました。
その後ろ姿を見送りながら、弟は微妙な表情をしています。
確かに自分がどんなに言ってもめそめそしていた父が、

大して優しくもない母の一言で泣き止むのは釈然としないでしょう。
しかし、生まれてから15年以上も共に暮らしてきたのですから、

もう悟っても良いと思うのですが……。
私はもう、そういうものだと諦めています。
そうでなければ、精神が持ちません。
気持ちを切り替える為に、話題を元に戻します。
「で、私よりも圭吾の方が心配な理由は?」
「セツは適応能力が高いし、適当に合わせるのも、上っ面を繕うのも上手いから大丈夫だと思うけど、

ケイは……大丈夫なのかな、とね」
「遠回しに貶されているような気がするんだけど」
「俺もそんなに子どもじゃないって」
心配そうな顔をして言う母に、私たち姉弟は同時に抗議しました。
いや、本当に娘と息子を何だと思っているのでしょう。
「そう? なら、やっぱりここにしましょうか。受ける気があるなら、

編入試験を今週末にって言われてるんだけど」
そうです。高校は義務教育ではない上に、綾品学院は私立校。試験があるのは当たり前でした。
これ以上、議論をするのも無駄でしょう。

それよりも今はもっと大事なことが見つかったのですから。

「……勉強しようか」
「あー、うん。だね」
「二人とも頑張ってね。私も荷造りしなくちゃ」
こうして私たちが編入する学校は、意外とあっさり決まったのでした。




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