混沌なき箱庭 4‐4

混沌なき箱庭 4‐4

 多くの街道が通る都市、<ウクジェナ>の識字率は高い。
現市長が教育に力を入れていることもあり、市立の学校は一番街から十番街までに一校ずつあった。
この学校は日本でいうと小学校と中学校を足したような学校だ。
義務教育というものはないが、一番街から十番街の中流階級以上の家庭の子はこの市立校に通うのが普通である。
中流階級以上の家庭と言っても、その数は現代日本よりずっと少ない。
子供を働かせなくても余裕のある家を中流階級というのだ。
子供も立派な労働力である農家や個人商店、収入が不安定な職人などの人口は多いが、それらはどちらかといえば下流に属する。
かといって、そうした人々の識字率が低いかというとそうでもない。
それは市中に数多くある学問所のおかげだ。
学問所では一人から二、三人の教師が読み書き計算、簡単な歴史などを教えてくれる。
謝礼は必要だが、市からある程度の補助金も出ているので、実際に払う金額はかなり少なくて済む。
時間の拘束も緩く、午前だけや午後だけ、週に二日三日だけ、といった通い方も出来るので、家の手伝いや奉公に出ている子供たちも通うことが出来るのだ。
ちなみに<ウクジェナ>の周りにある農村にも学問所があり、農閑期や雨の日にしか授業が開かれないものの、農民の識字率もそれなりに高かったりする。
新興地区は正式に<ウクジェナ>の街として認められていないので、市立校はない。
その代わりに新興地区で成功した商家が出資者となった大きな学問所も存在する。
葉月たちが通うことになったのは、その大きな学問所ではなく、個人商店の子や職人の子が通う小さな学問所だった。
常時通っている子供は二十人前後で、教師も二人しかいない学問所だ。
その小さな学問所は、今日からあの<テーラン>の副長の隠し子とその異父弟が入ってくるということで、ちょっとした騒ぎになっていた。



ルーシーは新興地区に店を構える総菜屋の娘である。
家の手伝いの傍ら、学問所に通っている。
学問所に通っているのは、だいたい六歳くらいから十四歳くらいの子供たちだ。
今年十四になるルーシーは最年長組に入る。
ルーシーは真面目でしっかり者な性分なので、女子のまとめ役を務めていた。
そのルーシーが小さな平屋建ての学問所に入ると、浮ついた空気が充満していた。
いつも賑やかで静かな時など人のいない夜だけというありさまだが、今日はいつも以上にうるさい。
不思議に思いながら教室の扉をあけると、更に賑やかな声が響いていた。
「何? どうしたの?」
ルーシーの疑問は、ルーシーの姿を見て興奮気味に駆け寄って来た女の子によって解消される。
「ルーシー、おはよう! ね? 聞いた?」
「おはよう、ラナ。聞いたって何が?」
「あ、まだ聞いてないんだ」
ラナが嬉しそうに笑う。
女の子とは噂をまだ知らない子に教えるのが大好きな生き物なのだ。
「ちょっと、もったいぶらずに教えてよ」
ルーシーがラナの脇腹をつっついた。
ラナは体をよじってルーシーの手から逃げようとする。
「ちょっ、くすぐったっ。分かった、教えるからやめてぇ」
「ホントくすぐったがりだよね、ラナって。で? 何なの?」
「うん。あのさ、<テーラン>の副長さんの隠し子が見つかったって話は知ってるよね?」
ラナがぴっと人差し指を立てて尋ねる。
ルーシーは三日前に飛び込んできた噂を思い出してうなづいた。
「そりゃあね。すごい噂になってるもん。あの人すごい色男だから隠し子の一人や二人いそうだけど、実際に見つかるなんてすごいよねぇ。確か、ラナと同い年の女の子じゃなかったっけ?」
「そうそう。その子。その子とその子の弟が、ウチの学問所に入るんだって! しかも今日から!」
「えぇっ」
驚きのあまり、ルーシーは大きな声をあげてしまった。
「え? なんでウチ? もっと大きな学問所があるじゃない」
この学問所は<テーラン>の本拠地の屋敷から特別近いわけでもない。
それに番号付街の市立校のようなしっかりした教育が受けられる大きな学問所もあるのだ。
<テーラン>の副長の娘ともなれば、そうした大きな学問所に行くものではないのだろうか。
「んー、それがね。ほら、<テーラン>ってさ、マイヤーさんトコとあんまり仲良くないじゃない? マイヤーさんの息がかかってない学問所って、この辺りじゃここくらいだからじゃないかって」
ラナの説明に、ルーシーは納得顔でうなづいた。
「あぁ、そうかも。ウチの先生って変わり者だから」
ラナの言うマイヤーさんとは、新興地区の中で最も成功している商家の主だ。
商売にはがめついが、慈善家としての顔も持つ。
<ウクジェナ>の街として認められていない新興地区であるから、新興地区にある学問所は当然市の補助金を受けられない。
その市の変わりに新興地区の学問所に寄付をしているのが、件のマイヤー氏だった。
マイヤー氏は裕福なので、個人的に警護の人間を何人も雇っている。
つまり<テーラン>に頼る必要がないのだ。
おまけにその警護人たちの職業意識も高いものだから、あまりガラの良くない<テーラン>の者とのいざこざが何度かあった。
そういうわけで徹底的に敵対しているわけではないが、戦列の<テーラン>とマイヤー氏は仲がよろしいとはいえない関係にある。
<テーラン>の副長の娘を学問所にと考えた時に、そのマイヤー氏に関わりがない学問所を選ぶのは当然かも知れない。
「<テーラン>の副長の娘とその弟かぁ。どんな子たちなんだろ」
ルーシーはまだ噂の人物たちを直接見たことがなかった。
姉の方は副長の隠し子だと発覚するまでの二ヶ月、<テーラン>の下働きをしていたらしい。
おっとりしたちょっと世間知らずのお嬢さんという噂が流れている。
弟の方は怪我がひどくてずっと療養していたとかで、あまり情報がなかった。
「いい子だといいよね。お姉ちゃんの方はあたしとは同い年だっていうから、仲良くしたいな」
ラナがわくわくした様子で言う。
ルーシーも噂の子たちに会うのが楽しみになっていた。
ラナが言うように、出来れば仲良くなりたい。
この学問所には女の子が少なくて、ルーシーやラナ以外の女の子はまだ小さい子しかいないのだ。
同じ年頃の女の子が入るというのは、それだけで嬉しい。
嫌な子じゃなければ、もっと嬉しい。
学問所の女の子二人は、わくわくしながら新入りたちを待っていた。



ヒューゴは石工(いしく)の親方の三男坊である。
家は新興地区にあり、近くの学問所に通っている。
今年で十四になるヒューゴは、年の割に体が大きく喧嘩も強かったので、この辺りの子供たちのガキ大将のような存在だ。
そのヒューゴが学問所に入ると、なんだか騒がしい。
騒がしいのはいつものことだが、今日はその倍は騒がしかった。
「どうしたんだ?」
そのヒューゴの疑問に答えたのは、教室の扉を開けたヒューゴに寄って来た二人の男子だった。
「おはよ、ヒューゴ」
「ヒューゴさん、おはようございます」
「おはよ」
気の抜けたような顔をした男子がロイで、興奮しているのか頬を赤く染めた男子がジム。
ロイはヒューゴの友達で、ジムはヒューゴを慕っている子分的存在だ。
そのジムがきらきらした顔で、ヒューゴに尋ねてくる。
「ヒューゴさん、聞きました?」
「何が?」
主語のない問いかけに、ヒューゴの眉間にしわが寄った。
本人に悪気はないのだろうが、ジムはもったいぶるクセがある。
それを補足したのはロイだった。
「<テーラン>の副長の隠し子とその弟がウチの学問所に入るって話だよ」
「は? 何で?」
ヒューゴは目を丸くした。
<テーラン>の副長の隠し子がいたという噂は、ヒューゴももちろん知っていた。
良くも悪くも<テーラン>は目立つ存在だ。
新興地区に住む男の子の憧れの的と言ってもいい。
知らないはずがない。
「なんでも二人とも世間知らずで文字も読めないらしいんですよ」
「で、マイヤーさんの息がかかってないこの学問所にってことらしい」
「あぁ、なるほどな」
ヒューゴが納得したようにうなづいた。
あり得る話だ。
「でも、二人ってそんなに強いんですかね?」
ジムが首をかしげる。
戦列の<テーラン>は、荒っぽいことを引きうけている組織だ。
組織に入るには、すごく腕っ節が強いとか、すごく頭がいいとか、何か特技があるとか、とにかく何かしらの才能がなくてはいけないと言われている。
そこに見習いとはいえ、女子供が入るとはただ事ではない。
それがいかに<テーラン>の副長の隠し子とその弟であっても、だ。
読み書きも出来ない世間知らずだというなら、すごく強いはずだとジムは言いたいのである。
「あ、俺、ちょっと聞いたことがある」
ロイが思い出したように言う。
「その姉弟が拾われたのって野盗狩りの時らしいけど、そこに巻き込まれた弟の方が五人くらい倒しちゃったんだって。すげぇ強かったってキーファンのおっちゃんがウチの店で言ってた」
ちなみにキーファンは盗賊に襲われた商人の用心棒をしていた男で、ロイの家は酒場である。
ヒューゴはロイの話に「どうだかな」と懐疑的だ。
「キーファンのおっちゃん、酒飲むと話がでかくなるだろ。ホントかよ」
「ん、まぁ、そうなんだけどさ、五人てのが微妙にホントっぽくねぇ?」
「まぁな。おっちゃんが話ふくらますと二十人とか三十人とか百人とか言うからなぁ」
「いくつだっけか? その弟って」
ロイが思い出そうと視線を宙にさまよわせていると、ジムがすかさずに答える。
「十かそこらだったはずですよ。僕より二つも年下です」
「十か……」
ヒューゴとロイが、どうするよと視線で会話する。
男の子とは、互いの序列を気にする生き物なのである。
ヒューゴは学問所だけでなく、この辺り一帯の子供のガキ大将みたいなものだ。
それが十かそこらの子供に負けたとなると、面目まるつぶれである。
「あ、でも大怪我したとかで、まだ治りきってないみたいですよ! 人数揃えればなんとか!」
そう言ったジムの頭に、ヒューゴとロイの拳骨が同時に落ちる。
「痛っ」
頭を抱えてうずくまるジム。
そのジムをヒューゴが怒鳴りつける。
「馬鹿か! んな恥ずかしいこと出来っかよ。相手は俺より四つも年下なんだぞ!」
「ヒューゴの言う通り。そんなことしたら負けるより恥ずかしいだろ」
「す、すみません」
二人に怒られて、ジムが涙目で落ち込む。
ヒューゴもロイもそれには取り合わず、苦い顔でうなっている。
「どうする?」
「どうするも何も、とりあえずは様子見じゃない?」
「だよなぁ」
学問所の男の子三人は、複雑な表情を浮かべながら新入りたちを待っていた。



その新入りたちが学問所の教師の後について教室に入って来たのは、それから少しだけ後のことである。