混沌なき箱庭 4‐1

混沌なき箱庭 4‐1

 葉月とジークがカーサに拾われてから、二ヶ月が経った。
葉月の傷は少し痕(あと)が残ってしまったが完治し、ジークの傷は完治まではまだいかないものの、日常生活には不都合がないくらいには治った。
葉月はこの二ヶ月、<テーラン>で下働きをしていた。
ブノワの娘、としてではなく、名前も知らない実の父を異父弟と一緒に探している娘、としてである。
盗賊退治に巻き込まれてしまった哀れな姉弟ということで、弟が完治するまで<テーラン>で下働きをして治療費を稼ぎ、その合間に実の父のことを調べていると、実はブノワが実の父だった、という筋書きである。
いきなりブノワの隠し子であったと名乗り出るのは、さすがに不自然であるというのが理由ということになっていたが、仮にジークが完治せずに使い物にならなかった場合を考慮し、様子見の期間を設けたというのが本当のところだった。
カーサはとにかく大丈夫だろと言っていたが、いけいけどんどんの親分の案に保険をかけ策を巡らすのがブノワの仕事だ。
葉月としても、この様子見の期間はありがたかった。
ブノワの娘として注目を集める前に、最低限の知識は仕入れておきたかった。
なにしろ、葉月はこの世界のことを何も知らない。
しかも、電化製品のない生活など経験したことがなかった。
旅なら非日常なのでこんなものだろうと思えたが、日常生活は辛かった。
床を掃除するのに掃除機ではなく箒(ほうき)で掃いて、ブラシでわしゃわしゃ擦った後に、拭きとるのはクイッ●ルワイパーなどないので雑巾、しかも水道はないので外の井戸から桶で水を汲んでこなければならない。
<テーラン>の本拠地は没落した豪商から譲り受けたというお屋敷で、二階建ての母屋に、渡り廊下でつながった北の離れ、敷地の端に建っている西の離れがあり、ついでに納屋が三つもある。
葉月の生活範囲は母屋と北の離れだけだが無駄に広く、下働きは葉月を含めて六人だけなので朝から晩まで忙しい。
掃除は道場や庭の掃除と似たようなものなのでまだマシだし、繕い物もミシンがないこと以外はたいして変わらないのでなんとかなったが、買い物と料理と洗濯は鬼門だった。
まず、通貨と物価が分からない。
<テーラン>の団員は約五十名ほどなので、食材は配達してもらっているのだが、買い出しがないわけではない。
一緒に行って店を教えてくれるという中年女性に恥を忍んで通貨の種類を教えてもらい、だいたいの物価を教えてもらった。
料理では竈(かまど)で煮炊き出来ないことに驚かれ、調味料の名前や料理名を知らないことに呆れられ、洗濯では腰が入っていないと叱られた。
文明の利器が使えないとこんなにも家事が大変なのかと涙目になりながら葉月は頑張ったが、どうにもお荷物になってしまう。
下働き仲間にはどんだけお嬢様だったのかと笑われたが、言い返せなかった。
足手まといになって彼女たちに負担をかけているのは葉月だ。
言い返すようなことはせずに、失敗したら謝り、手伝ってくれることに感謝し、失敗を繰り返さないこと。働く時の基本だ。
葉月は人当たりが良かったし、その本質は負けず嫌いだったので、彼女たちも葉月のことを、とろくさそうに見えるが意外に根性がある、と認め始めていた。



ジークの怪我も順調に回復して来ていた。
ジークは一ヵ月は寝台から降りることも禁止されていたが、その後は少しずつ弱った足腰を慣らす歩行訓練を始めた。
激しい運動は医者と葉月からきつく止められていたので、屋敷の中や庭を歩き回るだけだ。
元の世界では幼い頃から養父に剣を叩きこまれ、傭兵として生きていたジークにとって、こんなにも長く剣を握っていない期間は初めてだった。
しかも葉月は下働きとして働いているのだ。
何もしていない自分が歯がゆく、情けなかった。
元の体なら、これくらいの怪我は半月ほどで治っただろう。
それどころか、あれくらいの戦闘で大怪我などするはずがなかった。
ましてや、葉月に怪我をさせることもなかったはずだ。
ジークは己の手の平を見つめた。
小さな手だ。
毛はなく、爪は短くて丸い。
無力の象徴のような手だ。
その手からつながる腕も細い。
細いだけではなく、力も弱い。
なんと貧弱な体だろう。
エルフィムの元で姿見を見た時、そのあまりの外見の違いに愕然(がくぜん)としたが、あの戦闘で体の動きの悪さを思い知った時に比べれば、見た目の違いなど些細なことだ。
十の子供になったというのだから、背の小ささや間合いの狭さは仕方がない。
だが、あの跳躍力のなさ、腕力のなさはどういうことだ?
当たり前だと思っていた動きが出来ない。
まるで重りでも背負っているかのように、動きが遅かった。
葉月たちは人間離れした動きをしていた、すごい動きだったと称賛したが、ジークにしてみればあの程度の動きだ。
盗賊たちの肌が元の世界の住人たちよりも柔らかかったので切り裂くことは容易だったが、数で囲まれると対処に遅れる。
分断されると、葉月の元に駆けつけるのに手間取った。
元の体なら、一足で駈けつけられただろうに……。
葉月は寝台にとどめ置かれたジークの世話を甲斐甲斐しくしてくれた。
下働きで忙しいのに、水仕事で荒れた手で背中を拭き、下働き中に得たこの世界の知識を教えてくれた。
いつもおっとりと笑ってはいたが、慣れない生活に疲れているのは、荒れた手と少しこけた頬で分かった。
「ねえさん、大丈夫ですか?」
と尋ねても、葉月は笑って、
「大丈夫。あなたは私の心配なんてしてないで、自分の体を治すことだけ考えてなさい」
とジークの頭を撫でるだけで、弱音を吐かなかった。
葉月は旅の途中も弱音を吐くことは少なかったが、それなりにジークのことを頼ってくれた。
けれど、今は完全に被保護者として見られている。
自分の外見が幼いことは理解しているが、中身はれっきとした成人男子である。
子供扱いはやめて欲しいと思うが、葉月の腕の傷を見ると何も言えない。
葉月は気にしていないというが、痕が残ってしまうのだという。
ジークにとって、その傷は戒(いまし)めだ。
葉月を守り切れなかった自分。
カーサが現れなければ、あの街道で二人とも死んでいただろう。
このような弱い体で、何が葉月を守るだ。
強くなりたい。
そう心から思うのは、いくつ以来だろうか。
幼い頃、養父にして剣の師匠である人から厳しい稽古をつけられ、まったく歯が立たず悔しい思いをしたあの日。
今はその時以上に力が欲しい。
強く、強く、強く。
強くなりたかった。



カーサとブノワが頃合いだと思ったのは、葉月が仕事に慣れ、ジークが不自由なく動き回れるようになった頃だった。
母屋の広間に団員たちが集められた。
カーサが葉月がブノワの隠し子であり、ジークは葉月の異父弟であることが分かったと発表すると、数人の者たちは訝(いぶか)しんだが大体の者は「なるほど」とうなづいた。
いかにもありそうな話だったからだ。
葉月たちが葉月の実の父を捜していると知っていた者たちは、葉月たちには祝福の、副長に対してはからかいの言葉を投げかけ、はやし立てた。
団員以外の屋敷で働く者たちも、口ぐちに「良かったね」と笑顔でうなづき合った。
しかし、二人を<テーラン>に見習いとして入れるという話になると、空気は一変した。
それはいくらなんでも、と大半の者は戸惑いの表情を浮かべている。
ある程度は予想していたものの、祝福してもらった後なので余計に突きささる視線が痛い。
葉月はちらりと隣に立つジークの方を見ると、困ったような顔をしたジークと目が合った。
これは予想以上にたいへんなことのようだ。
全体に困惑が広がる中、親分と副長だけが今後の反発を予想し、愉快そうな笑みを浮かべていた。



「やっぱりね。口実は口実でしかないってことか」
葉月がうっすら笑いながらつぶやいた。
ここはジークの部屋だ。
元々医務室に近い部屋ということで母屋に部屋があったジークとは違い、葉月は下働き仲間と北の離れの大部屋で寝起きしていた。
葉月がブノワの隠し子だったと発表されたことにより、葉月も母屋に部屋を与えられたのだが幹部たちの部屋に近く、こういった話をするには落ち着かないのでジークの部屋を使っているのだ。
ちなみにジークの怪我が完治していないことや、葉月の弟とはいえジークの父はブノワとは違うということで、葉月のように幹部の部屋の近くに部屋を与えられることはなく、医務室の近くの部屋のままだ。
この部屋には椅子が一つしかないため、椅子は葉月に譲り、ジークは寝台に腰かけて幼い顔に似合わない眉間のしわを刻んでいた。
「居場所は自力で作れ、ということですね」
「でしょうね。それにしてもある程度の反発は予想していたとはいえ、思っていたよりも受け入れられないみたいね。下働き中に結構愛想を振りまいておいたんだけど」
ブノワの娘だったと発表された時の団員たちの様子から、葉月の愛想振りまき作戦は成功していたと考えても良いだろう。
ただ葉月たちが思っていた以上に、戦列の<テーラン>という組織に入るということは大変なことらしい。
葉月が買い出し等で外に出た時の街の人々の反応をみるに、<テーラン>は忌避と羨望の両方の目で見られているようだ。
<ウクジェナ>という街は役所が集まる中央区とその周りを囲む一番街から十番街までに分けられているのだが、人口が増えたことによりつけたされた新興地区にはまだ番号が振られていない。
正式な街とは認められていないのだ。
そこを根城というか縄張りにしているのが<テーラン>で、自警集団と名乗ってはいるが実態はヤクザに近い。
縄張り内でもめ事があれば仲裁するが、みかじめ料をとる。
用心棒の斡旋もするし、公の警備隊がやらないようなことを市長から依頼されてこなすこともあるようだ。
新興地区は新しいだけあって店も多く活気がある。
活気があるということは、それだけもめ事も多いということだ。
ヤクザに近いとはいえ、それほど無体な金額を絞りとるわけでもなく、また新興地区では警備隊の取り締まりを期待出来ないこともあって、それなりに頼りにされている。
<テーラン>がしっかりと縄張りにしているから、他のあくどい組織が入って来られない、という見方もあるくらいだ。
そう見られていることを<テーラン>の団員たちも知っているが、そこで調子に乗って威張ることをカーサもブノワも許さなかった。
逆に誇りを持って、堅気に手を出すようなことはするなと徹底した。
みかじめ料を取られるのは癪だし、胡散臭い連中であるが、強くてかっこいいという評価も否定出来ない。
<テーラン>に入りたいと思う連中も多いが、そうほいほいと入れるものでもなく、<テーラン>の団員は憧れの対象なのだ。
その<テーラン>に副長の隠し子だかなんだか知らないが女子供が入るということは、彼らからすると許容出来ないことになる。
<テーラン>に入る者は“いっぱしの男”でなくてはならない、という不文律があるのだ。
葉月としては、親分が女性であるのに、と思わなくもないが、どうやら<ウクジェナ>の人々はカーサのことを女性として区分していないらしい。
女性であることは認識しているのだろうが、女性扱いされていない。
緩く波打つ黒髪は無造作に束ねられており、化粧っ気はないが、胸だって普通にある。
外見的特徴から言えば、長身ではあるがどこからどう見ても女性だ。
だがその女とは思えない膂力(りょりょく)から繰り広げられる豪剣と、口調や雰囲気が男前なので、憧れの“兄貴”のように思われているのだった。
ともかく、葉月とジークが<テーラン>の一員として認められるには、並みではない力を示すしかない。
「俺は親分さんの下に着くことになりました。使いっぱしりからですが、なんとかやってみます」
「私は副長……お父様の所で雑用だって。こき使われてくるよ。お互い頑張ろう」
「はい」
葉月とジークはそれぞれの思いを胸に、<テーラン>で生き抜くことを誓い合った。
平穏と安穏に背を向けて、混沌と激動の渦へと自ら踏み出す。
この世界の歪みを、二人はまだ知らない。