混沌なき箱庭 1‐5

混沌なき箱庭 1‐5

 七日が過ぎた。
ジークはちらちらと斜め後ろを歩く葉月に目をやる。
葉月はたれ目気味の目を細め、げっそりしている。
杖にすがるようにして歩く姿は、亡者のようだった。
「ねえさん……休憩しましょうか?」
心配げに振り返るジークに、葉月は首を横に振った。
「大丈夫。さっき、休んだ、ばっかり、じゃない」
息は途切れ途切れだが、声は案外しっかりしている。
しかし、ジークは適当な灌木の下に葉月を引っ張っていき、無理やり座らせた。
葉月はむっとした顔でジークを見上げる。
「大丈夫って言ったじゃない。私のせいでたくさん休憩しているから、全然進んでないんだよ。大丈夫だから、先に進もう」
「大丈夫そうに見えないです。旅慣れてないのは仕方ないでしょう。無理して倒れる方が大変ですよ」
葉月は反論しかけようとして、止めた。
あまりに子供っぽ過ぎるからだ。
どうも調子が狂う。
精神年齢が肉体年齢につられているようだ。
疲労がたまっている所為だろう。
よく考えなくてもジークの方が正論なので、大人しく体力の回復につとめることにする。
顔色が悪いのは、固い地面の上で寝ることに慣れていないので寝不足気味な上、一日中歩き通しの旅で出来たマメが痛いせいだった。
最初の頃は歩くのが速いジークに無理をして合わせていたせいもあるかも知れない。
意地など張らず、最初はゆっくり歩いてもらえば良かったのだろうが、自身の能力を過信していた葉月のミスだ。
ぐったりと木に寄りかかって目を閉じる葉月の横に、ジークが腰を下ろす。
その気配を悟って、葉月が目を閉じたままつぶやく。
「情けない姉でごめんね。ジークはもっと早く歩けるのにね。体力には自信があったんだけどなぁ」
「謝らないでください。俺は慣れているだけですよ。徒歩で旅するには、それなりにコツがあるんです」
「……ありがとうね」
「姉を気遣うのは、弟として当然のことですよ」
本当に当然だと思っている調子で、ジークが言う。
ありがたいと同時にやはり申し訳なくなるが、謝るなと言われているので話題を変える。
「それにしても、徒歩の旅って大変なのね。こういう荒野は四輪駆動車で気持ちよく駆け抜けていきたいわぁ」
本当は黙って休んでいれば良いのだろうが、ここでの娯楽は話すことくらいしかないのだ。
歩いている間は無言なので休憩中くらいお喋りしたい。
ジークもお喋りな方ではないが、話すことが嫌いなわけでもないので普通に会話が始まった。
「あぁ、この間聞いた自動車とかいう乗り物の一種ですか?」
「そう。あれは速いよ。多少道が悪くても大丈夫だし。なにしろ楽」
「俺は騎竜がいいです。あれは足が速いですし、泳ぎも上手いので旅に重宝する生き物なんですよ。気性が荒いのが玉に傷ですが」
「へぇ。竜かー、すごいなぁ。ちょっと乗ってみたい」
「竜と立派な名はついていますが、大きなトカゲですよ。俺はその自動車というのがどういう仕組みで動いているのか興味ありますね」
「えー、確かガソリン……燃える水みたいなのを燃やす勢いで、エンジンを……エンジンてなんて説明したら良いんだろう……。ごめん、私も仕組みはよく分からない。あれって専門家が作るもので、一般の人は使い方を知っているだけなの」
「そうなんですか……」
葉月も運転免許はとっていたし、普通に運転していたのだが、その仕組みを説明しろと言われると難しい。
そう考えると、今まで自分が便利だと思って使ってきた機械の数々は、なんとなくどういうものか知ってはいたけれど、ほとんど仕組みを知らないのだ。
それでも普通に暮らせてしまうので、知る必要なんてなかった。
しかし、ジークの残念そうな声を聞いてしまうと、もうちょっと興味を持っておけば良かったと後悔する。



それからもしばらくお互いの世界のことなど、たわいもない話を続けて、そろそろ先に進もうかと立ち上がりかけたその時、とてつもない悪寒に襲われて葉月とジークははじかれたように嫌な気配がする方へ顔を向けた。
最初は何も見えなかったが、先に“それ”に気が付いたのはジークの方だった。
「なんですか……あれは……」
ジークが呆然とつぶやく。
葉月もじっと目をこらし、見えた。
“それ”は黒い半球だった。
地平線に、なにやら黒い半球が出現していた。
突然に、何の前触れもなく。
しかも、それはゆっくりと音もなく拡大しているようだった。
少しずつ半球が大きくなっている。
“それ”が何であるかは分からない。
あんな自然現象は、葉月は見たことがない。
それはジークも同じだった。
ただ、とてつもなく嫌なものだということは、本能的に悟っていた。
全身の肌が粟立っている。
「ねえさん、急いで離れましょう。まだ距離があるとはいえ拡大しています。しかも歩く速さよりも早く」
厳しい顔をしながら、ジークが手早く自分の分と葉月の分の背嚢をそれぞれの肩にかけた。
速く歩くには、葉月が身軽である必要があった。
「ごめん」
と短く謝って、葉月は杖をとって歩き出した。
二人は休憩前よりも早足気味に進む。
ジークは二人分の荷物を持っているし、葉月も疲れが完全にとれたわけではなかったが、そんなことを気にしている場合ではない。
背中にぞくっとする気配を感じながら、二人は無言で歩き続けた。
追いつかれたら、終わりだ。
確証はなかったが、葉月もジークも、こういう時は本能の声に従うことにしている。
時間も惜しいし、あまり見たくもなかったので、振り返らずにもくもくと歩き続けていたのだが、随分歩いたところで、ふっと嫌な気配が消えた。
二人同時に振り返ると、黒い半球が広がっていたのだろう場所が、えぐれていた。
いや正確には、地上部分に見えたのが半球の上半分だとすれば、半球の下半分の大地が消えていたのだ。
それが先ほど休憩していた灌木の辺りまできていたのを見て、背筋が凍る。
「何だったの……あれ……」
呆然とつぶやいた葉月は、腰が抜けたのかへなへなとその場にへたり込んだ。
「わかりません」
ジークは厳しい顔のまま、消えた大地をにらんでいる。
座り込みながらも、ジークと同じく大きな穴のあいた荒野を眺めていた葉月は、エルフィムの言葉を思い出した。
「もしかして、“あれ”はこの世界が不安定で未熟だというのに、何か関係があるのかな」
「だとしたら厄介ですね。俺たちは“あれ”をどうにかしなくてはならないんですか……」
「直接なんとかしろってわけでもないでしょう。“あれ”は人がどうこう出来るもんじゃないよ」
難しい顔で考え込んだジークに、葉月は苦笑する。
そして遠い目をしてつぶやいた。
「それに“あれ”があるから不安定なんじゃなくて、世界が不安定だから“あれ”がある気がする。これは勘だけど」
荒野に強い風が吹き抜けた。
それでも二人は瞬きもせず、無言で大地を見つめていた。
あの得体の知れない現象は、二人にここが確かに異世界なのだと強く印象づけられた最初のものとなった。
二人が目指した街が見えてきたのは、それから二日後のことである。