〈大陸〉の東半分を治める大国、<帝国>。

その西外れに、エスティレカという深い森がある。

その森の中でも、割と外周部に一軒の小屋があった。

この小屋に住むのは、ひとりの魔術師の少女。

その名を、ブリジット=アーロンという。

ちなみに彼女の今一番の悩みは、

“金がない”

この一言に尽きた。

 

 

ブリジットは大きなため息をつきながら、鍋をかき混ぜていた。

鍋の中身はどろどろとした紫色の液体で、ボコボコと不気味な音を立てている。

間違っても口にしたくないような代物だ。

「おい、ブリジット。そんなに嫌そうに作んなよ」

そう言ったのは、金茶の髪をした少年だった。

年の頃は十六、七といったところだろうか。

少年は台所の椅子に後ろ向きに座り、鍋をかき混ぜているブリジットの後ろ姿を眺めている。

ブリジットはそんな少年を振り返り、思いっきり顔をしかめて言う。

「だって臭いのよ、これ。大体、材料だって気持ち悪いものばかりだし」

「俺……それ、飲むんだけど」

「うるさいわよ、パーシヴァル。手順間違えたらどうすんのよ。

大体ね、アンタくらいしか飲まないでしょう、退毛剤なんて。

毛深いのを気にしてる人狼族なんて笑っちゃうわよね。

そんなの、人間に髪の毛が生えてるのを気にしてるのと同じじゃないの。

わざわざハゲようなんて、気が知れないわ」

ブリジットが意地悪く笑う。

そう、この一見普通の人間に見える少年、実は人狼族なのである。

人狼族は男も女も全身毛むくじゃらだ。

しかし、パーシヴァルの顔や手は、人間と同じように、いや、人間の男よりもつるつるだった。

パーシヴァルは椅子の背にあごを乗せながら言った。

「だってよ、あんなに毛むくじゃらだと、ノミがつくんだよ。

洗っても洗っても。ブリジットだって嫌だろ? ノミ」

「ウチの中にノミを持ち込んだら、殺すわよ」

ブリジットがぎろりと睨む。

パーシヴァルはむっとして言い返した。

「持ってねぇよ! 言いがかりつけんなよな! この年増!」

ブリジットの手がぴたりと止まった。

無言のまま魔術を使って一瞬で火を消し、鍋を台の上に置く。

パーシヴァルは自分の軽率さを呪った。慌てて言い訳をする。

「あ、あのさ、ブリジット。今言ったのは、言葉のアヤっつうか、ついだよ、つい。

な、悪かったって……」

そう言いながらも椅子から立ち上がり、ブリジットの後ろ姿を見ながら後ずさりする。

もう少しで出口という所で、ブリジットが振り返った。

「だぁれが、年増だってぇ? パーシヴァル。私はアンタと同じ十七なんだけど?」

ブリジットは笑っていた。

ただし、微笑んでいるなどという穏やかなものではない。

全てが凍てつくような、冷たい笑みだ。

全身から殺気を振りまきながら、ブリジットは右手をパーシヴァルに向けた。

「まっ、待て! 落ち着いて話し合おうぜ! なぁ、ブリジット! 話せば分かる!」

「問答無用! 人が一番気にしてることを!」

「げふっ」

どーんという派手な音と薄い戸板と一緒に、パーシヴァルは吹っ飛んだ。

小屋の前の広場を、球のようにごろごろ転がっていく。

「痛ってぇ。いきなり空気弾使うヤツがあるかよ」

さすがは人狼族と言ったところだろうか。

だいぶ派手に吹っ飛んでいたが、土ぼこりにまみれながらも、かすり傷くらいしかないようだった。

パーシヴァルは肘をさすりながら立ち上がろうとした。

ひゅんっ。

その横を、炎がほとばしった。

パーシヴァルは青ざめながら、後ろの木を振り返る。

木は無残にも黒コゲになっていた。

ちりちりと焦げくさいのは、どうやら自分の髪の毛も焦げたかららしいと気付く。

パーシヴァルはぎこちなく、ゆっくり正面を向く。

目の前にブリジットが仁王立ちで立っていた。

「ねぇ、パージヴァル。アンタに聞きたいことがあるんだけど。

年増っていう言葉は、普通十代の麗しき乙女に向けていい言葉じゃないわよね?」

「はひ」

ぐわっしと顔面を掴まれたパーシヴァルが、コクコクと頷く。

ちなみに魔術師になるには、騎士並みに身体を鍛えなければならないので、

ブリジットの握力も女性にしてはかなりのものだった。

「私が、一回り上に見えることを気にしてるって、アンタ、知ってたわよね?」

「はひ」

「人が気にしてることを知ってて、そんなことを言うのって、最低だと思わない?

というか、男の風上にも置けないし、むしろ、知的生物の風上にも置けないわね。

どうする? いっぺん死んどく?」

にっこり笑っているはずなのに、ブリジットの身体からは冷気がにじみ出ていた。

ギリギリと顔面を強く掴まれて、パーシヴァルは首を横に振った。

「しゅいまへんでひた。おへがわるかったでぶ。ゆるひてくだはい」

「……次はないわよ」

「はい。……有難うございました」

やっとのことで顔から手を離してもらったパーシヴァルの目元には、うっすらと涙が浮かんでいた。

 

 

ぱちぱちぱち。

どこからか、拍手が聞こえた。

パーシヴァルが両頬をさすりながら、少し離れた所にある一本の木を睨む。

「ブリジット、あそこからジジイとオッサンの臭いがする」

「……ふぅん、さすが人狼族、鼻が利くわね。

さぁ、覗き魔さん? さっさと出てきてくださらないと、あぁいうことになりますよ?」

ブリジットが黒コゲになった木を指差しながら言う。

「いや、それは御免こうむる」

そう言って出てきたのは、小柄ではげた人の良さそうな老人だった。

しかし、こんな森の中には似つかわしくない品のよい上等の服を着て、護衛と思しき男を連れている。

一目見れば分かる。上流階級の者だ。

老人はじろじろとブリジットを頭の天辺から爪先まで眺め回した。

そして、なにやら一人納得した様子で言った。

「ふむ。攻撃力、制御力、共に申し分なし。黒髪黒目。均整の取れた体。そしてそのキツイ顔立ち……。

まさしく悪役にぴったりだね」

「喧嘩売ってます? なら、買いますけど」

ブリジットが半眼で老人を睨む。

これがパーシヴァルなら今頃黒コゲになっているところだが、相手は貴族、それもかなり上位の、だ。

ここまで来たということは、客の可能性が高い。

魔術師は俗世の身分に膝を屈しないが、金払いの良い客は大歓迎である。

気にしていること、その二を指摘されたからといって、問答無用でぶん殴るなど出来やしない。

ブリジットは切実に金が欲しかった。

常連客はパーシヴァル、ただ一人。

ここ最近は森で木の実をとったり、川で魚を釣ったり、

小屋の裏手の小さな畑を耕したりしてしのいでいるが、

現金収入はほんのわずかだった。

このままでは冬が越せない。

生きるか死ぬかの瀬戸際である。

実はブリジット、まじないや薬を作ることが苦手なのだ。

攻撃系の魔術なら大の得意なのだが、この平和な世の中でそんなものは役に立たない。

ブリジットの師はブリジットを弟子にした時には既に高齢で、

己の持つ全ての知識をブリジットに伝え終わる前に亡くなってしまった。

いくつかの薬の作り方などは、書きつけに書いてあったものから自力で会得した。

退毛剤もその一つだ。

ただ、育毛剤ならまだしも、退毛剤などという怪しげな薬は、

毛深いことを悩む人狼族の変わり者くらいしか客にならない。

ちなみに、毛深いことに悩むご婦人方には、臭い、不味い、色が不気味と大不評だった。

いい匂いで、美味しく、色も綺麗な退毛剤を研究中だが、現在のところ一度も成功していない。

この現金収入の機会を逃してはならないのだ。

(堪えなさい、ブリジット。大事な金ヅルなんだから)

ブリジットはぐっと堪えて、小屋を手で示した。

「立ち話はなんですし、中でお話を伺います。どうぞ」

パーシヴァルには壊れた戸を直すように命じると、老人たちと共に小屋へ入る。

この小屋には応接間などというシャレたものはないので、台所の椅子を勧めた。

護衛の男は眉間にしわを寄せたが、老人は頓着せずに座る。

そのことで、ブリジットの老人に対する印象が、やや良くなった。

「小汚い椅子になんぞ座れるか」とでも言われたら、

そんなに丈夫ではないと自覚しているブリジットの堪忍袋の緒は、

簡単に切れてしまっていただろう。

ブリジットは老人とその背後に立つ男に、お茶代わりの薬湯を出し、自身は老人の向かいに座った。

ここでお茶ではなく薬湯を出したのに、深い意味は特にない。

ただ、お茶を買う金がなかっただけである。

薬湯にする薬草なら、森にいくらでも生えている。

元手がいらないというのは、たいへん素晴らしいことだと、ブリジットは思う。

老人は薄緑の薬湯を一口すすり、かかと笑った。

「ほーう、こりゃ不思議な味だね」

「閣下!」

護衛の男が慌てた様子で叫んだ。

おそらく、老人がいきなり得体の知れない液体を飲むなど、思っていなかったのだろう。

老人はそんな男を無視して口を開いた。

「ふむ、これはこれで、もっと飲んでみたいが、時間が惜しい。本題に入らせてもらうぞ。

私の名は、ジェファーソン=ニア=ロクサスという」

「ご丁寧に有難うございます。私はブリジット=アーロンと申します。ご依頼でしょうか?」

「うむ、そうだ。そなた、悪役を演じてはくれんかね?」

「はい?」

ブリジットは目を見開いて、老人の顔を見つめた。

そして怪訝な顔をして尋ねる。

「あの、意味がよく分からないのですが……」

「まぁ、そうだろうね、実は、私は<エリーシャ王国>の宰相の任を預かっている者だ」

「あぁ、そうでしたか」

ブリジットは老宰相の言葉を疑う気配すら見せずに頷いた。

魔術師に必要なものはいくつかあるが、真理を見極める目は、

魔術師にとって、なくてはならないものだ。

しかも、ここはブリジットの領域。

嘘をつけば、必ずブリジットには分かる。

この小屋には、そういう魔術が仕掛けられていた。

老宰相も魔術師のことを多少なりとも知っているのだろう。

ブリジットが簡単に納得したことに驚きもせず、続けた。

「我が〈エリーシャ王国〉には、お世継ぎの元服に関する決まりがあってね。

王太子となられた方は、必ず試練を乗り越えなければならないのだ」

「はぁ、試練、ですか」

「まぁ、いわゆる通過儀礼だね。

先代陛下は当時はびこっていた盗賊退治をされ、今上陛下は二年ほど旅に出られたのだが、

最近はどうも平和でねぇ。国内外で目ぼしい事件が見当たらんのだよ。

それに今は二年も王太子殿下を国外にお出しすることも、少しはばかられてね」

老宰相は困ったという顔をしながら、薬湯をすすった。

その話を聞いて、ブリジットの眉間にしわが寄る。

どうも嫌な風向きである。

「まさか、悪役になれというのは、そちらの王太子の試練の、ということでしょうか?」

「うむ、そうだ」

「お断り致します」

ブリジットは即答した。

先程までの営業用の笑顔とはうって変わって、厳しい顔つきで言う。

「いくら魔術師が希少動物のような存在になった今だからといって、

そんな魔術師の評判を地に落とすような仕事は請けかねます。

どうぞ、お身内に頼まれるか、役者でもお探しになると良いでしょう」

 

 

ブリジットは立ち上がり、未だ修理中の戸口を指し示した。

魔術師は誇り高い。

そんな色物の仕事を、いくら金に困っていたとしても、受けるはずもない。

しかし老宰相は動ぜずに言った。

「9,000,000オッシュでどうだね?」

ブリジットの眉がぴくりと動く。

「……どうぞ、お帰りください」

「では、9,500,000オッシュ」

ブリジットは老宰相から目をそらした。

「…………お引取りください」

「10,000,000オッシュ」

「………………」

ブリジットの顔が苦悩で歪んだ。

一千万オッシュもあれば、冬が越せるどころか、

他の魔術師に教えを請い、まじないや薬学を習得する為の授業料を出してもお釣りがくる。

もう、研究用の帳面に真っ黒になるまで小さな字でびっしり書かなくても良いし、

油の節約の為に日が沈むと同時に寝なくても良いし、

薬品をこぼして変色してしまった服を自分で染め直さなくても新しい服が買えるし、

街に買出しへ行く度に欲しいなと思っていた髪飾りも買えるし、

小麦粉や香辛料を市場で商人が泣くくらい極限まで値切らなくても済むのだ。

これはかなり大きい。

ブリジットの天秤は、大きく揺れ動いた。

魔術師としての矜持と赤貧から脱出したいという願望。

そのどちらも強い。

ブリジットは悩みに悩んだ。

そんな彼女に老宰相は人の良さそうな笑顔で、最後の一押しを放った。

「前金で2百万オッシュ、期間中は、三食付で清潔な部屋も提供しよう。

そうだ……これは私の家に伝わる品でね、私には使えないものだが、

君たち魔術師にとっては、有益なものではないかね?

成功報酬として、これも追加しようではないか」

そう言って老宰相が取り出したのは、無色透明で涙型の宝石だった。

大きさはブリジットの親指の先ほど、中央には濃い青の文字が刻まれていた。

その宝石を見たブリジットの喉が、ごくりと鳴る。

宝石に刻まれている文字は、魔術文字とも呼ばれる“チュルエ文体”だった。

その文字が示すのは、“律”。

一般人にはただの装飾品だが、これを魔術師が身に付けていると、別の用途がある。

魔術を使う時に、その調整が容易になるのだ。

つまり、魔術を使う際に消耗する精神力や魔力を抑える働きがある。

普通に手に入れようと思って、手に入れられる物ではない。

どんなに金を積んだとしても、魔術師なら絶対に手放さないだろう。

これを逃してしまっては、もう二度と手に入れる機会は訪れまい。

そう考えたブリジットは、涼しい顔で頷いた。

「分かりました。そのご依頼、お受け致しましょう」

「有難い」

老宰相は満面の笑みを浮かべ、気付いたように言った。

「あぁ、そうだ。君も一緒にどうだね?」

「は?」

老宰相が問いかけたのは、ブリジットに命じられて戸口を直していたパーシヴァルだった。

何で俺が? という顔をしたパーシヴァルに、老宰相が笑いかける。

「君の主人はこれから数週間から数ヶ月の間、依頼に従事してもらうからね」

「はぁ? 何言ってやがんだよ、じじい! 俺はブリジットの僕(しもべ)じゃねぇ!

妙な言いがかりつけると、承知しねぇぞ!」

パーシヴァルは持っていたネジ回しを老宰相に向けて叫んだ。

人より発達した犬歯を覗かせながら唸るパージヴァルに、老宰相は平然と謝罪する。

「おや? そうなのかね? これは失礼した。ではお友達かね?」

「ただの客です」

すかさずブリジットが言う。

師が存命の時からだから、もう三年の付き合いになるが、お友達などと思ったことは一度としてない。

少なくとも、ブリジットの方は。

「ふむ、しかし、悪の魔女には手下が付き物だろう。どうだね、君は……八百万オッシュで」

「ばっ、馬鹿言え! 誇り高い人狼族がそんなこと出来るか!」

「どの口でそんなことを言う、この住所不定無職が」

ブリジットに鋭くツッコまれたパーシヴァルは、「うっ」と言葉を詰まらせた。

パーシヴァルは現在、群れを離れて人里で暮らしている。

しかし、身元引受人もいない彼に出来る仕事といえば、日雇いの肉体労働くらいなものだ。

外見は人と同じでも身体構造がまったく違うパーシヴァルにしてみれば、

人が三人がかりで運ぶ重たい木材も、一人で軽々と運べる。

それが重宝されることもあるが、忌避されることもあるので、

同じ現場を長く続けたことは、あまりない。

つい先日も現場で揉め事を起こしてしまい、おまけに住んでいた借家も家賃が払えず追い出された。
現在プー街道まっしぐらである。

正直、八百オッシュは喉から手が出るほど欲しい。

もしかしたら、ブリジットよりも金に困っているのは、パーシヴァルの方かも知れない。

本気で悩んでいるパーシヴァルに、老宰相は追い討ちをかけるように言う。

「君も寝床を提供するし、三食おやつ付、もちろんおかわりは自由だよ」

「行かせて頂きます!」

三食おやつ付という言葉に目を輝かせながら、パーシヴァルが叫ぶ。

こいつも単純だな、と自分のことを棚に上げてブリジットは思った。

結局の所、二人とも老宰相の策略にまんまと乗ってしまったということだ。

「契約書は入用かね?」

「いいえ、結構ですよ。ここは私の領域ですから。

まさか、魔術師との契約をご存じないわけではありませんでしょう?」

問うた老宰相に、ブリジットは意味深げな笑みを浮かべて答えた。

「ふむ、魔術師との契約に署名は不要。言霊が契約となり結ばれる、のだね」

「えぇ。その通りです。契約は誓約。破れば身に禍が降りかかりますのでご注意を。

私、ブリジット=アーロンは<人狼>のパージヴァルと共に、

貴殿、ジェファーソン=ニア=ロクサス殿の依頼を承る。

依頼に、殺し、盗み、強姦は含まず。

依頼実行中に見聞きしたこと、一切外部へ洩らさぬことを誓う。

依頼を完遂した暁には、提示した報酬を頂く。

……これでよろしいですか?」

「無論。私も誓おう」

「パーシヴァル?」

「俺も誓う」

二人の言葉を聞いて、ブリジットは頷いた。

そして、さっと右手を挙げ、パチンと指を鳴らす。

「契約、終了です」

見た目には何も変わりないが、三人の身体には“誓約”が言霊となって刻まれた。

言うならば、それぞれの身体が契約書ということになるだろう。

それは決して破棄出来ない類の、呪いのようなものではない。

誓約者全員の意向であれば、正式な作法に則って破棄することも可能だ。

だだし、依頼者であろうが、魔術師であろうが、協力者であろうが、

一方的に破れば、恐ろしいことになることは、間違いないのだが。

 

 

支度もあるだろうから三日後に迎えを遣そうという老宰相の言葉に、

ブリジットは今からでも構わない、と返事をした。

どうせ、荷物はそう多くはない。

それはパーシヴァルの方も同じだ。

老宰相はその言葉を聞いて、にんまりと笑った。

「それは重畳。殿下が目的地に到着されるのは、二月後頃になるだろう。

一番の大敵を倒すのは、小さな敵をいくつか倒した後と、相場は決まっているからね。

それまでに十分な打ち合わせと予行演習をこなしてもらいたい。

完璧な悪役を演じてもらうのに、いくら時間があっても多過ぎるということはない」

その笑みと都合の良いことに老宰相の乗るものとは別に、

もう一台馬車が用意されていたことで、こういう展開も視野に入れていたのだろうと、

ブリジットは内心苦笑した。

少しだけ外で待ってもらうように言って、荷物をまとめる。

数着の着替えにケチって少しずつ使っている美容液や化粧品、そしていくつかの薬草類、

それらを一つのカバンに詰めて、ブリジットは小屋を出た。

パーシヴァルが直したばかりの戸に、「出張中」の札をかけて、

鍵の代わりに魔術をかけた。

前金は魔術師組合に開いている口座に振り込んでもらったし、

どうせたいしたものは置いていないが、長く留守にする内に荒らされるのはまっぴらだ。

パーシヴァルの方はというと、もともと荷物などなく、身一つで何処にでも行く。

持ち物はブリジットからなけなしの金を叩いて買った退毛剤くらいなものだ。

ブリジットが戸がびくともしないことを確かめて振り向いた時、

パーシヴァルは生まれて初めて乗る豪華な馬車にはしゃいで、既に馬車の中だった。

「ブリジット! 早く来いよ! マジすげぇって! 椅子がふかふかしてんだぜ!」

大声を上げて手を振るパーシヴァルに、ブリジットは顔を覆った。

そしてすたすたと馬車に近づき乗り込むと、無言でパーシヴァルの腹に拳を叩き込んだ。

パーシヴァルが馬車の床に崩れ落ちる。

「げふっ、なっ、あにすんだよ!」

「うるさい、恥ずかしい、たわけが、田舎者丸出しにしてんじゃないわよ」

腹を押さえながら見上げるパーシヴァルを、ブリジットは心底見下したような目で睨む。

ついでに邪魔だといわんばかりに足蹴りをくらわす。

「退け」

パーシヴァルはその一言で弾かれたように立ち上がり、大人しく座席に座った。

少し涙目になっているのは、おそらく光の加減だろう。

小刻みに震えているように見えるのも。

そんなパーシヴァルをいちべつして、ブリジットはその向かいに腰を下ろす。

どさり、とカバンを脇に置いたと同時に、馬車は動き出した。

 

 

喰えない老宰相に、こちらを胡散臭そうに見てくる護衛の男、

そして馬鹿人狼族。

(ろくでもない連中ばかりだわ。まぁ、背に腹は代えられないけど)

外の景色を眺めながら、こっそりとため息をつく。

この依頼を無事にこなせるだろうかと、柄にもなく不安になるブリジットを他所に、

馬車は一路西へと進んで行ったのだった。




目次に戻る 02へ進む