夏だ。
蒸し暑くて、まとわり付くような、日本特有の夏。
まだ夏休みではないけど、唯でさえ暑いのに、
防具をつけたら、もうダメ。
大体臭くて堪らない。
だから涼しい顔をしている奴が憎くて憎くて。
「なんで新畑はそんなに涼しそうなの?」
と八つ当たりしてしまう。
けれど新畑は笑って、
「暑いよ?」
と返してきた。
その言い方が、全然暑そうなんかじゃなくて、
「嘘だー。そんな涼しそうな顔しちゃって」
と憎まれ口を叩いた。
私は新畑が苦手だ。
得体の知れなさが付きまとう上、頭がよくって、顔もそこそこよくって、背高くて、
部長で人望があって、剣道も去年日本二になる程強いってのは、厭味以外のなにものでもない。
ひがみと言われたらそれまでで、否定する気はないけれど、だけど新畑が苦手っていうか、嫌い。
でもいくら嫌いだと言っても、同じ剣道部で、しかも私が女子部の部長だから、
顔を合わさない訳にはいかず、変な関係が続いている。
後輩の指導をしていた新畑が、ちらりと外を見て、私の方へやって来た。
「関津さん。そろそろ終わりにしようか? 大分陽が傾いてきたし」
新畑の言葉に外に目を向けると、確かに空が赤くなって来ている。
けれど高校の部活としては、まだ終えるのには早い時間帯。
「まだやれるでしょ?」
「ほら、この頃、変質者が出てるから、早めに終わるようにって、進藤先生から」
ちなみに進藤先生っていうのは、剣道部の顧問だ。
有段者ではあるんだけど、滅多に部活には顔を出さないし、
面倒なことは全部部長まかせっていう、そんな人。
「変質者ね。夏になると余計なモンが増えるから嫌」
蚊とかゴキブリとか変態とか。
「そういうことなら仕方ないし」
ウチの部員から被害者出すのは御免だし。
「うん。それじゃ片付け!」
新畑の一言で女子部の子たちも片付けに入る。
実はこれが一番口惜しい。
確かに私のことを部長として立ててくれるけど、新畑の方が頼りにされている感じ。
その理由が自分で分かっているから、自己嫌悪に陥ってみたり。
子供みたいと言えばそれまでなんだけどね。
溜め息を一つ、部室の鍵を閉めて、武道場の鍵をかける。
これは部長の仕事として、新畑と約束してあった。
開けるのは新畑で、閉めるのが私。
きちんとかかっている事を確かめて、職員室に返しに行く。
「失礼します」
職員室には数人の先生たちが残っていて、丁度いいことに、進藤先生もいた。
「先生、鍵を返しに来ました」
新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた先生に鍵を渡し、いつもの台詞を言う。
「せめて一週間に一回くらいは、部活に来てくださいよ」
「面倒だろ」
バサリと新聞を畳んで、先生がこっちを向いた。
「でもまぁ、近々顔出すよ。新しい部長を決めなきゃならないしな」
先生の何気ない言葉が、今の私には少し痛かった。
「えぇ。そうですね、候補は挙がってるんですか?」
「ん、まぁ。その辺も部長に推薦してもらおうと思っている」
「うわ、そこまで先生が無関心だったなんて、知りませんでしたよ」
「あぁ? 知らなかったのか? もう二年半の付き合いだろ?」
「先生が部活に来ることは、皆既日食くらい珍しいですからね」
どうも進藤先生との会話は、ギャグになりがち。
先生面白いし。
見た目はチンピラだけどね。
「じゃ、そろそろ帰ります」
職員室の窓から赤い光が差すのを見て言った。
「おう、変なの多いから気をつけろ、って、関津なら大丈夫か」
「ヒドっ、それってどういう意味ですか?」
「変質者の方が酷い目にあわなきゃいいな、つう意味だよ」
「かよわい乙女に、失礼じゃないですか」
「今のは空耳だな。目の前に居るのは、関東大会まで進んだ猛者だしな」
そりゃ、そうだけど、所詮は一回戦負けですよ。先生。
「……まぁ、大丈夫です。さようなら」
「じゃあな」
最後に、次の部活には顔を出してくださいね、と釘を刺してから、職員室を後にした。
変質者のせいで、他の部も早めに切り上げたらしく、廊下は静まり返っていた。
赤く染まった壁を見ながら歩いていると、いつも通っている場所だとは思えない。
どこか別の所へ来てしまったような、そんな錯覚を覚える。
夜の廊下も怖いけれど、私はそれよりもこの夕方の廊下のが恐ろしい。
自然と歩みは早足になる。
靴を履き替えて下駄箱を出ると、西日が眩しくて、顔を伏せた。
だからそこに人が立っている事に、まったく気付かなかった。
「待って」
いきなり腕を掴まれて、思わず反射的に、手首をひねり上げた。
噂の変質者が校内に入り込んだのかと思ったけど、声を聞いて、あれ? と思い、
目を細めて相手の顔を見ると、それは変質者じゃなかった。
「……何やってんの?」
「とりあえず、手、離して欲しいんだけど……」
私が手を離すと、新畑は手首をさすりながら、
「さすが関津さん。とっさに反応できるのはスゴイね」
と笑った。
「お褒めに預かりまして。で? どうしたの?」
「いや、どうしたのって、関津さんを送ってこうかと思って」
は?
私は新畑の顔をまじまじと見てしまった。
「何で?」
「ほら、変質者が出るっていうから、心配で」
「……大丈夫だよ。今ので分かったでしょ? それに確か新畑の家って、全然方向違わなかった?」
路線も違うはずだ。
遠回り過ぎる。
「うん。でも帰れないこともないし。
それに……変質者なんかに、関津を指一本でも触らせたくないしね」
「今、何て言ったの?」
最後の方、よく聞き取れなかったんだけど。
「ううん。大したことないから、気にしないで」
私は釈然としないながらも頷いた。
話長引かせたくないし。
「ホントにいいから。大丈夫、変質者だって、私なんか襲わないって」
「ダメ、絶対に送ってくから。関津さんがダメって言っても、後から付いてくからね」
そ、それは怖いわ……。
こういう時々有無を言わさない態度も、新畑が苦手な要因の一つだ。
帰り道ずっと新畑と一緒なんて、耐えられない気がする。
「い・や・だ。そうしたら、ストーカーとして訴えてやるから」
そう言って睨んだんだけれど、新畑の笑顔は崩れない。
うわ、逆光で何か、迫力があるんですけど。
このまま話していても、埒があかない。
私は逃げる事にした。
んだけど。
無理でした。
新畑の横をすり抜けようとしたけれど、捕まってしまった。
「逃げるなんて酷いよね?」
「私、一人で帰りたいんだけど」
「ダメ」
いつも以上に新畑の笑顔がうそ臭い。
っていうか、キャラ変わってません?
あー、何か、逃げるの無理そう。
諦めた方が無難? 早く帰りたいし。
「……分かった。一緒に帰ろう」
「そう? 良かった」
そんなわけで、何故か新畑と一緒に帰ることになった。
駅までの道のりを新畑と並んで歩いてるのって、何か変な感じがする。
クラスも違うし、私が嫌って、意図的に避けてたというのもあるんだろうけど、
共通の話題は部活のことしかなかった。
「次の大会が終ったら引退だね」
「そうだね」
「次の部長、井上あたりかな?」
「そうだね」
「女子部の方は?」
「そうだね」
「そんなにオレと帰るの、嫌?」
「うん」
「…………」
だって、ねぇ?
いつも苦手だって言ってる人と並んで帰るのって、やっぱり違和感がある。
それに……。
「引退、なんだよね。もうすぐ」
ぽつりと口からこぼれたのは、自分でもビックリするくらい、暗い声で、
「終わりなんだよね」
「寂しい?」
うん。そりゃあ、まぁね。
「だって、入学してから、ずっとやってきたじゃない。居心地いいし。
でも、もうすぐ自分の居場所じゃなくなっちゃうのは、寂しいものでしょ?」
「うん、寂しいね」
あっさりと同意されて、拍子抜けした。
なんだか、新畑のことだから、
「そういうものだよ」
くらいは平然と言いそうな感じなのに。
「新畑もそう思う?」
「そりゃあね。関津さん、オレをなんだと思ってるの?」
その声が優しくて、そう言った新畑の顔を見てやろうと思ったけど、眩しくて顔が上げられなかった。
地面に伸びる影は、新畑の方が長い。
身長差があるからなんだけど。
そう言えば、男の子と一緒に帰るのは、小学校の下校班以来じゃないかな。
ふと見上げた空は、真っ赤に染まっていた。
坂道にさしかかった時、新畑がぽつりと言った。
「この辺に出るんだってね、変質者」
「あぁ、そう言えば、そんな話だったんだっけ」
「何か、変なマスクかぶってたらしいね」
「一年の男子も被害にあったって、知ってた?」
結構かわいいけど、女の子には見えない子が。
新畑は呆れたような声で、
「男を襲って、何が面白いんだろうね」
と言ったので、
「面白いとか、面白くないとかの問題なの? それって」
「でもどうせ襲うなら、女の子の方がいい」
平然とのたまってくださいましたよ。コイツ。
私はつつっと、二、三歩離れた。
思いっきり不審者を見る目で睨んでやる。
「今、何か身の危険を感じたんだけど」
「ふーん」
「ふーんって何さ」
引っ掛かる言い方ね。
しかも今、笑ったでしょ?
いつもの人の良さそうな笑みじゃなくて、にやりとした悪人面。
何か騙されてたっていうか、今頃気付く私はどうかしてたな、と思いつつも、確認の為に訊いてみる。
「猫かぶってた?」
「便利だしね」
そんな、あっさりと言っていいの?
つーか、こんな人に憧れてたって考えると、情けない。
「何で今更本性出したの?」
これは当然の疑問。
二年半かぶってた猫は、相当のモンでしょう?
「だって、好きな人には本当の自分を知ってて貰いたいでしょ」
「寝言は寝て言え」
即行で言い返しました。
「信じてくれない?」
「そりゃあね」
いきなり何言い出すんですかね、この男は。
信じろって方が無理でしょ。
大体、新畑を恋愛対象として見た事なんか、一度としてありません。
「告白されて、ドキッともしない?」
「うん」
いや、だって相手、新畑だし。
もしこれが他の人だったら、ときめいちゃうかも知れないけど。
新畑じゃあねぇ。
「オレの一世一代の告白だったのにね」
「全然そういう風には見えません」
本当にキャラ違うし。
演技派だわ。
「剣道じゃなくって、お芝居でもしたら?」
その演技力は賞賛に値するわよ。
「……話そらしたい?」
「うん。まあね」
だって不毛でしょう?
新畑は私の事を好きだと言う。
私は新畑の事を好きじゃない。
ほら、平行線。
「でも……」
新畑が一瞬何か言いかけて、固まった。
多分私たち、今、同じこと考えてるわ。
「新畑……」
「うん。多分、関津の考えは当たってると思うよ」
あー、嫌なモンに会っちゃった。
「この人って、噂の変質者だよね?」
「十中八九、間違いないと思うけど?」
変なマスクかぶってて、夏だというのにコートを着込んでいる、おそらく中年の男を、
変質者と呼ばずに、なんと呼べと言うのか。
荒い息をしながらも、どうも腰が引けてるのは、私たちがまったく動じてないかな。
「ほら、一緒に帰って正解だったでしょ」
「うん。まぁねぇ」
「ぼ、ボクを無視するなぁ!!」
変質者が奇声を発した。
予想通りの甲高くてうわずった声は、はっきり言って不愉快だ。
男はチビでデブで、マスクしてるから分からないけど、絶対にハゲだ。
この歳で独身ね。きっと。
偏見かも知れないけど、あながち外れではないと思う。
「何だ! その見下したような目は!」
キンキンわめく様は、子供の癇癪のようで、耳障り。
そんな男に、新畑は平然と言った。
「邪魔だから退いてくれない?」
捕まえる気はないんだ?
まぁ、私も同意見だけど。
それって、警察の仕事だし。
もし、妹が被害にあったら、絶対に逃がさないけど、正義の味方を気取る気なんて、更々ない。
だけど男はそれを馬鹿にした、と受け取ったようだ。
お世辞にも綺麗とは言い難い男のコートのポケットから、凶器が取り出された。
「バタフライナイフ、ね」
新畑が目を細めて言った。
殺傷事件なんかで有名なアレ。
男の顔は、怒りで赤を通り越して、どす黒く変色している。
こりゃ、完璧にキレてるわ。
辺りは人気がなく、太陽は山の端にかかっている。
近くに交番もないし。
私はちらっと新畑の顔を見た。
新畑はその視線に気付いて、笑いかけてくれた。
私も笑い返す。
ここは逃げるのが常道だ。
いくら剣道部員だからって、素手でナイフに向かっていくのは無謀というもの。
なんだけどね。
「オレが男の気を引くから、関津は背後に廻って」
真剣な顔に戻った新畑が、小声で言った。
軽く頷いて、一歩下がる。
「ぼ、ボクは本気だぞ! お前らなんか、けちょんけちょんにやっつけてやる!」
「無理だね」
「なんだと!」
男は滅茶苦茶にナイフを振り回しながら叫んだ。
それと対照的に、新畑が落ち着いた声で言う。
「一人称がボクの中年男に、しかもどもってるようなヤツには、ね」
男の意識が、完全に新畑に向けられた。
私は気配を殺しながら、男の背後へ移動する。
が、男は新畑に向かって突進した。
それを横に移動して避けた新畑が、ナイフを叩き落とした。
一瞬動きの止まった男に、私は後ろから足払いをかける。
男にとって不幸だった事に、ここは坂道。
しかも結構急な。
バランスを崩した男は、坂を転げ落ちて行った。
取り押さえた男を交番に突き出した後、私たちは逃げた。
事情聴取だとか言うのは、大変時間が掛かるものだしね。
証拠は山ほどあるし、目撃証言もあるそうだから、大丈夫だろう。
「でも、本当に変態とかって、いるもんなのねぇ」
しみじみと言った私に、新畑が笑った。
「害虫ってしぶといからね」
さらっと怖いこと言うよね。この人。
とらえ所もないし。
「また出るかも知れないね」
「嫌なこと言わないでよ」
縁起でもない。
「だから、これからも一緒に帰らない?」
「何それ、どういう理屈?」
「ボディガードとしてって、どう?」
どう? って、だから何でそんなイイ笑顔してるんだ? コイツ。
「いらないって言ったら?」
「その時は、自主的にやろうかな、ボディガード。今日みたいなことがあるといけないし。
今日は役に立ったでしょ?」
新畑が腰を屈めて顔を覗き込んできた為、仰け反るように顔を離して、話題を変えた。
「ねぇ、新畑。ちょっと聞きたいんだけど」
「何?」
「一体、私の何処が好きなの?」
私は今、思いっきり理解不能という顔をしているだろう。
だって心当たりは、まるっきりない。
劇的な出会いをしたワケじゃないし、猫を拾ったとか犬を助けたという所を見られたワケでもない。
(大体ウチ、何にも飼ってないし)
クラスだって離れてる。(A組とG組なんて、校舎すら違う)
私たちの接点は、本当に部活だけなのだ。
それだって、私が意識してあまり関わらないようにしてきた。
だからいきなり好きだなんて言われても、実感も何もあったものじゃない。
疑問に思うだけだ。
そう言うと、新畑はにこやかな笑顔を浮かべた。
それを直視してしまい、背筋に汗が流れる。
き、聞いたらいけないような……。
「理由は……関津さんに嫌われてると思ったから、かな?」
「何それ?」
訳分からないこと言わないでよ。
「なんで嫌われて好きになんの?」
コイツの思考回路、私には本ッ当に理解不能だ。
新畑はにこやかな笑顔を崩さないまま続けた。
「だって、オレは関津さんに嫌われるようなことした覚えなかったし。
それなのに嫌われてるって思ったら、気になるよね?」
「え、と、まぁ、そのー、ごめん」
いや、本当に私が一方的にひがんで嫌ってるだけなもんで、
新畑には悪いなー、とは小指の先くらいは思ってる。
あくまでも、ほんっの少しだけど。
「関津さんって、ちくちく嫌味言うくせに、表面を取り繕うのは上手いよね。
オレ、性格の悪い人が好きなんだ」
前言撤回。
私、これっぽっちもコイツに悪いななんて思わない。絶対。
「新畑が根性ひん曲がってて、ついでにアホだってことは良く分かったから、
どうぞ私の視界から消え失せやがれ」
別に新畑を喜ばせるつもりはこれっぽっちもないけど、悪態をつかずにはいられない。
ついでにアメリカでやったら確実に問題になるジェスチャーも加えてやった。
すると新畑は声を上げて笑い出した。
「あはははは。いいなぁ。関津さん、最高!」
ダメだ。やっぱり奴の頭には蛆虫が湧いてるに違いない。
コイツこそ警察に突き出すべきだ。
いや、それよりも別のトコか。
確か母さんの知り合いに、いいカウンセラーがいた気がする。
ぜひ新畑に紹介してあげたいよ。切実に。
けたけた笑い続けてる新畑を冷ややかな目で見ながら、五歩遠ざかる。
コイツの知り合いだとは思われたくない。
さっさと帰ろう。
やっと笑いやんだ新畑は、三歩でその距離をつめると、
「で? 一緒に帰る話は?」
と、ジャブを繰り出してきた。
振り出しに戻る、だ。
私は心の底から嫌な顔をした。
「嫌だって言ったよね?」
けれど新畑は、
「だったら、毎日偶然、関津のすぐ後ろを帰るよ」
と言い出した。
それってストーカーだ。ストーカー。
判ってやるのか?
やるんだろうな……。
「さっきの変態より、新畑の方が数倍たち悪い。
ど変態だ。ど変態」
私はうんざりという声を出す。
一緒に溜め息まで零れ落ちた。
どうしたらコイツをまけるか。
とうしたらコイツから逃げ切ることが出来るか。
そういう考えが頭の中をぐるぐる回っていたけれど、その思考の片隅で、
もしかしたら逃げられないかも、という不安が広がった。
新畑との関係も続くんじゃないかという予感がする。
大変に嫌な予感だ。
そんな高校生活最後の初夏の夕暮れ。