彼がその歌声を聞いたのは、まったくの偶然からだった。


彼はその日、ふと思い立ち<始まりの地>へやってきた。

そこは彼と彼の盟友とが出会い、そして国を興した地だ。

禁断の領域に足を踏み入れ、悠久の時を生きる彼は、幾度となくこの地を訪れていた。
遥か昔、彼と盟友が出会った頃はただの集落に過ぎなかったこの地も、

今では都と呼ぶに相応しい規模と賑わいを見せている。
今は早朝。だいぶ早い時間だというのに、彼が訪れている市は既に開かれ、

活気に満ちていた。
「ここもかなり変わったな……」
辺りを見回し、そう独りごちながら、彼は自嘲する。

最近とみに独り言が増えた。

年寄りのようだ、と。

彼が生きてきた年月を考えれば、今生きている老人など赤ん坊にも等しい。
だが彼の外見は二十代の後半ほどにしか見えない。

黒髪に黒目、黒い外套(マント)を纏った彼は一見、怪しい雰囲気をかもし出していそうなものだが、

そんな彼の恰好を気にする者はいない。
それは彼が上手く周りに溶け込むことを得手としていることと同時に、

この都では多少奇異な恰好をしていても埋没してしまうという証でもあった。
他国でも首都や大都市とは概ねそういう性質を持つが、この都はその中でも特別だ。
なにせ、この惑星にただ一つの広大な<大陸>、

その東半分を国土とするは「千年帝国」とも呼ばれる大国、<帝国>。
この地はその中枢たる都である<帝都>なのだから。

 

 

特にあてのないまま、彼は市を歩く。
不思議と客引きにも捕まらず、露店を冷やかしながら市の外れまで辿り着いた。
だだっ広い広場だ。<帝都>の中心地であるここからは、

大通りといくつもの通りが放射状に延びている。
広場の中心には、等身大と思われる立派な体躯の男性の銅像が建っていた。

己の背丈より高い台に建つ銅像を見上げ、彼は笑う。
「いつ見ても似てねぇ像だな」
厳つい髭を生やし、鋭い目をした男の銅像。

その台には流麗な飾り文字で、“我が国の父にして東の暁、初代皇帝ルト”と刻まれていた。

四百五十年程前に、建国五百周年を記念して建てられたものだ。
「ま、ヤツの本当の面を知ってるモンも、生きてんのは俺様ぐらいだろうがな」
彼はよくこの銅像を見に来る。

それはこの銅像がまったく本人に似ていないせいもあるのだろう。

似ていないからこそ笑えるのだし、彼の知る盟友は自分の銅像を建てて喜ぶような趣味はない。
もしこの像を本人が見たら何と言うだろうか。

彼は目を閉じて、想像してみる。
おそらくは苦笑しがら、あるいは面白がって言うだろう。
『後世の人は、こういう英雄がお好みなのかなぁ?』と。

しばらく黙って像を見上げていた彼は、軽く笑うと踵を返した。
度々ここを訪れるのは、盟友に誓う為だ。
盟友の墓は<帝都>郊外にあり、皇家が管理している巨大な墳墓で、

千年近い年月の間にすっかり緑に覆われていた。

しかし、盟友の遺体はそこにはない。

それを彼だけは知っていた。
何故なら、盟友に頼まれてそうしたのは、彼だったからだ。


自分に巨大な墳墓はいらない。

だが、それも仕方がないことだ。

生まれたばかりの国にも、否、生まれたばかりの国だからこそ、体裁とハッタリが必要なのだから。
それでも、自分が真に眠りにつきたい場所は他にある。

願わくは、彼女が眠っているの隣に。
彼女には嫌がられるかも知れないが、あの世で尋ねたいことがある。

もし自分が悪いなら謝るし、誤解だったならその誤解を解きたい。
だからお願いだ。

埋葬された後に、こっそり死体を運び出し、彼女が眠っている隣に埋めて欲しい。

あなたなら、出来るだろう?
と。


彼はその頼みを引き受けた。

年老い、天寿をまっとうしようとしている盟友(とも)への、せめてものはなむけだった。
盟友の眠る地は、この国の領土ではなかった。

彼は自らにかけた戒めにより、この国を頻繁にあけることは出来ない。
だからここへ来る。彼が盟友たちと出会い、己が己でいられる場所を築くと誓いあったこの地に。

感慨にふけりながら広場の外れまでやって来た、その時だった。
彼の耳に微かな歌声が掠めた。あまりに玲瓏(れいろう)たる美声に、思わず彼は立ち止まる。
「神歌(かむうた)……。あぁ、<中央神殿>の巫女か?」
彼が見上げる高い壁の向こうは、この国で祀られている神々の社がある。
神々、というのは、この国が信教の自由を掲げているからである。

一応、皇室が祀っている神々が中心ということになってはいるが、

国民がどのような宗教の信者であろうと、政府は頓着しない。

これは宗教によって国をまとめんとする他の国々と<帝国>との、大きな相違点の一つだった。
<中央神殿>の広い敷地内には、それぞれの神が祀られている社が幾重もの円を描くように並んでいた。

そこには余程の少数派でない限り、この国で信じられているほとんどの神が祀られているのだ。
ごちゃまぜとまではいかないが、異なる宗教の教会や社が隣合い、

同じ敷地内に建っている様は、おそらくこの国以外ではお目にかかれない光景だろう。
そのようなことの数々を知識として知っていても、彼は一度も<中央神殿>に詣でたことはない。

彼には神に向かって頭(こうべ)を垂れるような殊勝な心がけは、持ち合わせていなかったからだ。
その彼が仮にも神歌に興味を持ったのは、歌声の美しさだけではなかった。
神歌は神を讃え、恩恵を請い、恵みに感謝を捧げる歌。

普通は敬意と憧憬、少しばかりの畏怖を込めて歌う。

だが聞こえて来る歌には、そこはかとない哀愁が漂っていた。
「気になるな……」
壁越しに歌声の聞こえる方を見遣り、彼は目を細める。
次の瞬間、彼の姿は広場の何処にもなかった。

 

 

彼女は歌う。
神を想い、国を想い、民を想い、歌う。

そう、運命付けられたのだと、彼女は知っていた。
星を紡いだようなと謳われる銀の髪を結い上げ、身にまとうは幾重にも重ねた絹の神官服。

白一色だが、裾から腰までや袖には、精緻な刺繍が施されている。
高位の神官のみに許された白を纏うのは、彼女が皇族の出だからだ。

神職に就いた時点で、俗世での身分は意味を失う。

しかし、それは建前だ。

他国より身分が煩くないと言われるこの国ですら、建前でしかないのだ。
神職といえども、否、神職だからこそ、権力に魅力を感じるのだろう。

それを承知で今の地位に甘んじている自分には、非難出来ない、それを彼女は知っていた。
産まれた直後の神託によって、彼女は<中央神殿>に預けられた。

以来赤子の頃から十七年。

一歩も神殿の敷地から出たことがない。
今更神職以外に生きる術を求めことすら、許されるわけもなく、ただ務めを果たす。

神々を讃え、恩恵を請い、恵みに感謝を捧げる日々。
それ以外を、彼女は知らない。

彼女は朝の神歌を最後まで歌い上げ、大きく息を吸った。
朝にはこの光の男神を祀る社に男神を讃える神歌を捧げ、

夜には闇の女神を祀る社で女神を慕う神歌を捧げる。

そして昼には大神殿で信者の前で、八百万の神々に万民の健康と幸福を願い歌う。
それらが彼女の最大の務めであり、十の頃から一日たりとも欠かしたことのない日課だった。
今いる光の社には、彼女の他に人影はない。
色玻璃(いろがらす)を組み合わせ、男神の恩寵を表現した天窓から降り注ぐ光の中に佇む彼女は、

しかし先程までの柔らかな歌声とは違う、威厳と警戒を込めた低い声で問うた。
「そこにいるのは誰なの。ここを神聖なる大御神の社と知っての狼藉かしら」
果たして、返答があった。
「勘のいいお姫様だな」
彼女しか居なかったはずの社の中に、突如として黒い人影が現れた。

意外とも感じるほどこじんまりした社の中に、隠れるに適した場所はない。
まさしく、彼は突如として姿を現したのだった。

 

 

彼女は声のした方を振り向き、更に短く問う。
「あたくしを『姫』と呼ぶからには、あたくしのことを知ってらっしゃるのでしょう?

でもあたくしは貴方のことを存じないの。教えてくださる?」
突然の侵入者にもまったく臆することなく、平然と尋ねてくる彼女に、彼は笑って首を横に振った。
「いや、知らねぇよ。ただ『お姫様』みたいだと思っただけだからな。お前の名前は?」
すたすたと近くにやって来た彼の顔も見ず、彼女は不機嫌な顔をした。
「あら、そちらから名乗るのが礼儀ではなくって?」
「それもそうか。始祖……と言えば分かるか?」
彼がさらりと言った言葉に、彼女は形の良い眉をひそめる。
「冗談はよしてくださる? あたくし、つまらない冗談は嫌いよ」
「何故、冗談だと思う?」
「冗談でなければ、気がふれているのでしょう」
冷たく言い放った彼女に、彼は面白がっていることが明白な口調で言う。
「はっ、そう思うなら何故、人を呼ばない? ここにいるのは頭のおかしい狼藉者なんだろ?」
「あたくし、無駄も嫌いなの。ここで叫んでも、警備の者たちには聞こえないでしょう。

それに、警備の者に咎められずにこの御社(おやしろ)までやって来られる者相手に、

並の者が敵うと思うほど、愚かではなくってよ」
「良い度胸してんのな」
けたけたと笑いながら、彼は更に言う。
「じゃあ、ここまで来ることが出来た俺様が、始祖でないと何故言える?」
「ここまで入って来るのと不老不死では、次元の違う話でしょう?」
「そりゃそうだ。だがな、俺様の名前はトゥーガ=デ=アウルだし、実際に始祖と呼ばれてんだ。

他に名はねぇよ。ま、信じる信じないはお前の勝手だがな」
「イリェヴィーナ」
「は?」
短く問い返した彼に、彼女は彼の胸辺りに目線を向けながら、もう一度はっきりした声で言った。
「イリェヴィーナ、あたくしの名でしてよ」

「イリェヴィーナ、じゃあイリィだな」
「勝手に愛称で呼ばないでくださる? 馴れ馴れしくってよ」
彼女は目線を彼の胸辺りに向けたまま、不機嫌を隠さずに言い放つ。

その様子に、はたと彼は気が付いた。
「イリィ、お前目が……」
「だから愛称で呼ぶなと言ったでしょう。えぇ、あたくしは目が見えないの。生れつきね。

でもだからと言って、貴方に愛称で呼ばれる謂(いわ)れはなくってよ。同情される謂れもね」
語気鋭く言い放った彼女に、彼は苦笑しながら答えた。
「気位が高ぇな。同情したつもりはねぇよ。ちと驚いただけだ。だが愛称くらいは良いだろ? 

減るモンじゃなし」
「気位が高いのではなく、誇り高いの。

あたくしは第七十一代皇帝の第四皇女にして、当今(とうぎん)の妹。

誇り高くあるべきなの。お分かり?」
きっぱり言い切った彼女に、彼は皮肉な口調で問う。
「ふぅん。そんなに偉そうにしてるより、親しみやすい方がいいんじゃねぇの? 

その方が民も喜ぶだろ」
「確かに、そういう一面もあるのでしょう」
彼女は素直に認めた。
「当今でいらっしゃる姉上は、多少好戦的な面もお有りだけど、

民に親しまれる御方と聞き及んでいるもの。でも……」
「でも?」
「あたくしに求められているものは、それではなくってよ」
何の気概も感じさせず、彼女はそれが事実だというように、さらりと言った。
「あたくしは神の娘。汚れを知らず、何人たりとも害することあたわず、

ただ神の為に存在する神意の体言者にして、神が現世に遣わしになった神女(しんにょ)。

目に見える信仰の縁(よすが)を求める者たちが欲した虚栄でしてよ。

その者たちが求めるものは、気安い皇女ではなく、気高い神の娘でしょう。違って?」

「お前……」
言いよどんだ彼を、彼女が笑う。
「あら、仮にも始祖と名乗る者が、この程度のことで揺らぐの? 情けなくってよ」
「何故、俺様にそんなことを話す? 初対面だろ」
あまりに平然と言うことにいぶかしむ彼に、彼女はまた平然と答えた。
「あぁ、自己紹介代わりでしてよ。

これくらいのこと、この<中央神殿>の神職にある者なら誰でも知っていることだもの。

たいしたことではなくってよ」
「普通、本人には知らされないことだろ」
彼の言葉に、彼女はあら、と軽く片眉を上げた。
「幼い子どもの前では皆、口が軽くなるというもの。相手が理解出来ないと思うのでしょう。

でも、その時に理解出来ずとも、長ずるに及んで次第に理解出来る。

どうしてどうして、幼子の記憶力も馬鹿には出来なくってよ」
「で、屈折したと?」
「失礼な男ね。自虐でも卑下でもなくってよ。事実を事実と言って、何が悪いの?」
「強がりか?」
「まさか。赤子の頃からそうだったのだもの。それがあたくしの人生。

いきなりそうなったわけでなく、いきなり知ったわけでもない、

うろたえ憤るには、何一つ不自由ない暮らし。

将来は神職の長を保障されている。

それでどうして不満があると言えて?」
勝ち気に微笑む彼女に、「そうか?」と彼が短く問うた。
「どういう意味?」
「お前の歌は、そうは言ってなかったぜ?」
「なっ」
彼は皮肉な笑みを浮かべて言う。
「本当は現状に満足なんぞ、しちゃいねぇんだろ? 籠の鳥でいられるほど、小さなタマじゃねぇだろ?

操り人形ていられるほど、可愛い性格か? お前は」

悪魔の囁きの如く響く彼の言葉に、彼女は怒気をにじませた低い声で言い返す。
「今日初めて会った貴方にあたくしの何が分かるというの。いい加減にしてくださる?」
「分かるさ。お前の歌を聞けばな」
「……あたくしの歌が何だと言うの」
「俺様が何故、ここまで来たか分かるか?」
「はぐらかさないで」
彼女の声がいっそう低くなる。その彼女にたいして、彼は軽く笑って言った。
「はぐらかしちゃいねぇよ。関係あることだ。どうだ? 分かるか?」
「さぁ、皆目検討もつかなくってよ」
「お前の歌を聞いたからだ。お前の神歌に、哀愁がにじんでいたからだ」
「……出鱈目を」
「じゃあ、その間は何だ? イリィ、お前も思い当たることがあるからじゃねぇのか?」
「お黙りなさい!」
とうとう彼女が声を荒げた。
「はっ、図星か」
「お黙りなさいと言っているでしょう!」
彼女は何も映さない瞳で、彼の気配がある方をにらみつける。

彼女は既に余裕がなく、対する彼にはまだたっぷりと余裕があった。

 

それは経験の差だった。
いくら生まれた直後から大人に囲まれて育ち、宿命を受け入れる器があるとはいえ、

彼女が経験している人生は、たったの十七年に過ぎない。
神職を完全に権力から遠ざけることは不可能だ。

狭い神殿の中でも、出世や派閥などで争う。

それを幼い頃から肌で感じていた彼女は、同い年の者と比べれば、老成しているのだろう。
ただ、相手が悪かった。
約九百五十年前の東の建国戦争時ですら、人にあらざる年月を生きていた彼だ。

幾度となく人と出会い、幾度となく親しい者を見送りながら、それでも人と交わることを止めない、

人であろうとすることを止めない彼だ。
敵うはずがない。

彼は笑みを浮かべながら、白い肌を怒りで朱に染める彼女の頬に手を延ばす。
「イリィ、お前はそうして感情を表に出している方が綺麗だ」
「戯言(ざれごと)を!」
気配で察したのだろう。

彼女は延ばされた彼の手を払いのけた。
「何故、貴方はそんなことを言うの! 貴方が真に始祖であると言うのなら、

あたくしなどに構う必要などないでしょう! 

歴史を動かす力があるならぱ、当今(とうぎん)にお会いすればいい!

あたくしを愚弄するのもいい加減にして!」
「愚弄とはひでぇな。今のは純粋に誉めただけだろうが」
彼は叩かれた左手をさすりながら苦笑する。
「大体、何でそこで女帝が出てくんだよ。

俺様はお前の歌を聞いて、お前に興味を持ったって言ってんだろうが」
彼の言葉に「ふっ」と彼女は自嘲気味に笑った。
「興味? 暇潰しの間違いでしょう? あたくしが狼狽する姿を見るのは愉しくて?

あたくしの世界を粉々に打ち砕くのは、さぞかし愉快でしょうね」
「イリィ、話を……」
「あたくしは……、あたくしは貴方の玩具ではなくってよ」
言葉を遮った彼女の声に感情の色がないことに、彼は気付いた。「イリィ」
「愛称で呼ばないで。不愉快でしてよ」
「怒らせて済まなかった」
「何を今更」
背を向けてしまった彼女に、彼は珍しく真面目な調子で言った。
「お前を玩具にした覚えはねぇよ。お前の歌を聞いて、面白そうだと思ったことは事実だし、

実際に会ってやっぱり面白いヤツだと思った。

ただ、すましてるお前よりも、感情を出しているお前の方がよりいっそう面白そうだと思った」
「面白そうとは何? それがあたくしを愚弄しているのではないの。

貴方の気配を感じるだけで不愉快でしてよ。さっさと出て行ってくださらない?」
背を向けたままの彼女に、彼は頭をかきつつ言う。
「悪ぃ。俺様は物事を面白いか否かで判別するんだ。

お前を愚弄したつもりはこれっぽっちもねぇよ……ま、今日の所は帰るとするさ。

じゃあまたな、イリィ」
「なっ、二度と来ないで!」
彼女が思わず振り向くと、現れた時と同じように彼の気配は忽然と消えており、

ただ色玻璃(ステンドグラス)から降り注ぐ柔らかな光が、彼女を包んでいるだけだった。

 

 

 それからというもの、彼は毎日朝の神歌を捧げ終わる頃を見計らって、

彼女の前に姿を現すようになった。
初めの頃は頑なに彼を無視していた彼女だったが、次第に馬鹿らしくなってしまった。

彼女がどんなに無視しても、彼の態度はまったく変わらなかったからだ。
彼は基本的に皮肉な笑みを浮かべ、斜に構えており、俗っぽい喋り方をする。

彼は赤子の頃より<中央神殿>の奥で大人にかしずかれ育った彼女が、

今まで遭遇したことのない人種だった。
その物珍しさも手伝ってか、不思議と早朝の闖入者(ちんにゅうしゃ)のことを、

側の者にも告げる気にはならなかった。
そうこうしている内に、いつの間にか彼女は彼の訪れを心待ちにするようなる。

彼女は彼の話を聞くことが、愉しみになってしまったのだ。
彼女は物心がついてよりこの方、一度として壁の外の地を踏んだことがない。

また目が見えない為、ほんの僅かな文字の盛り上がりで識字するという特技もあったが、

それで本を読むのにも限界があった。

故に口伝で知識を得ることが、最大の情報元だった。
ただ本を音読させるよりも、彼の話を聴く方が余程広い幅の話を聴くことが出来た。

側の者に尋ねても答えないことや、答えられないことも、彼なら話してくれた。

彼女にとって、外を知る唯一の窓口が彼だったのだ。

そして同時に師でもあった。
彼女は元より賢かったが、彼と問答を交わしている内に、めきめきと力をつけ、

神殿内に情報網を築き、己の立場を確固としたものにしていく。
そうして、五年の月日が流れた。



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